あの日以来、後輩の彼女に対しての感情が、変化しはじめているのを自覚している。この変化に素直に降参すべきか、抗うべきか思いあぐねていたある日の夕方、主任から話しかけられた。
「白石くん、ちょっとお願いがあるんだけど」
「もちろんええですよ。俺でできることなら」
「ありがとう。私が担当してる案件で契約させてもらってるタレントさんの事務所から連絡もらって。今回その事務所で売り出そうとしてる若手俳優の子が主演する映画があるのよ。その舞台挨拶付きの完成披露試写会のチケット頂いちゃって……」
「へえ。ええやないですか」
「まぁね、それはありがたいんだけど……それが、来週の木曜の夜なのよ。その日、主人が海外出張で、ワンオペだからどうしても行けなくて。白石くん、代わりに行ってきてくれないかな……?」
お願い、と両手の手のひらを合わせて頭を下げる主任に、ノーとは言えなかった。その芸能事務所からは何度かこのようなご招待を頂きつつも、どうしてもメンバーの都合が合わず断り続けてきたので、さすがに今回も欠席するのは、先方に対してあまりにも失礼であることも理解している。
「わかりました。予定しときます。せやけど、俺一人やと、ただの平社員やし、役職不足やないですか?」
「白石くんは、若いけど十分しっかりしてるから大丈夫。でも、そうねぇ、確かに先方が役職とか気にするタイプかもしれないしね。人数で補おっか」
「人数?」
「支倉さんも連れてってあげてよ。毎日仕事頑張ってるしさ。ご褒美に、今をときめく若手俳優に会わせてあげても良いじゃない。先方も、さすがに二人来れば、納得でしょう」
主任は、「我ながら名案!」なんて機嫌良さそうにウインクすると、俺の意見なんて聞かずに、そのままOOHの色校正中の彼女に話しかけに行ってしまった。二人の会話は聞こえないが、まるで実家の姉と妹のデジャブ、二人のテンション高めな表情を見るだけで、どんな会話が繰り広げられているか大体予想はついた。
*
「白石さん、今日はよろしくお願いします」
「仕事やから、あんまりキャーキャー言ったらあかんで」
「言いませんよ。そこは弁えてます」
そう言う彼女は、真面目な顔をしているが、遠足の前のようなワクワク感を隠しきれていない。もし犬やったら、絶対全力で尻尾振っとるやろ。俺との会話の中ではあまり好きな芸能人などの話が出てくることはないが、この様子だと意外とミーハーなところがあるらしい。
舞台挨拶付きの完成披露試写会が行われる場所は六本木である。ただ、会社の最寄りは浜松町なので、多少移動が必要だ。
「やっぱり大門から、大江戸線ですかね?」
「んー、六本木からちょお歩くみたいやしな。時間の余裕もそこまであれへんし、タクシーにせえへん?」
「タクシー、会社に交通費請求できますかね……?」
「ええよ、それくらいやったら別に請求せんでも、俺出すわ」
そのまま白石さんは社用スマホではなく、プライベートのスマホを取り出して何やら操作をすると「あと五分後に、タクシーくるさかい、早よ一階降りよな」なんて言う。この一瞬でアプリで予約したんだろうな。その所作のスマートさが白石さんらしい。そのまま私たちはビルの一階に降りたのだった。
目的地に辿り着くと、そこには、一般のファンと、私たちのように招待されたプロモーション担当者が混在していて、多少カオスな空気感ではあった。関係者受付を済ませると、今回招待をしてくださった芸能事務所の担当さんが「白石さん」と声をかけ、小走りでこちらへ向かってくる。
「いつもお世話になっております。本日はよろしくお願いします」
「こちらこそご多忙な中わざわざご足労いただいて。今日は楽しんでいってください。そして……初めまして、ですよね?」
芸能事務所の担当さんが、白石さんの隣に立つ私の顔を見るなり、そうおっしゃったので、慌ててジャケットのポケットから名刺入れを取り出し、相手から名刺を出される前に自分から名乗った。危ない、先に名乗られてしまうところだった。担当さんは気さくな方で、朗らかに話しかけてくださるので、こちらの緊張もほぐれた。
「今日の映画は、特にF1層をターゲティングしているので、楽しんでもらえたら。イケメンがいっぱい出てきますよ」
「ありがとうございます。楽しみにしております!」
「ただ、どの俳優も白石さんには適わないかもなあ。うちの事務所でスカウトしたいくらいだ」
そんな発言に、白石さんは珍しく困ったように笑っていた。その反応から、白石さんはこの手の冗談が苦手なんだろう、と一瞬で気づいたので、なんとかフォローできないかと足りない頭をフル回転させ、なるべく相手に嫌な思いををさせないよう、冗談っぽくこんなことを言ってみた。
「ふふ。有難いお話ですが、白石が弊社を去ったら、その分私が忙しくなって業務が回らなくなっちゃうので、ダメです」
幸い先方は、そんな私の発言に「ですよね〜」なんて笑ってくれたので、その場は穏便に終わったのだが、試写会の会場となるシアターの席に着くなり、白石さんからお礼を言われた。
「支倉さん、さっきはおおきに。助かったわ」
「いえ。白石さん、ああいう冗談、苦手なんだろうなと思って」
「ああいう時、何て返したらええか、未だに正解がわからへんねん。肯定しても否定してもどっちも嫌味に聞こえるやろ」
白石さんのその微妙な表情から、きっとこの目立つ容姿で、非常に得することもあっただろうけれども、逆に悩むことも多かったのだろうと察する。実際に、私自身、広告宣伝部に着任する前から彼のことを知っていたのも、彼のその容姿が一因なわけだし。――どうしよう、やっぱりちょっとこの空気を和らげたほうが良いかな。そんな目的で「お面でもかぶりますか?」なんて冗談を言ってみると、白石さんは「ハハ。それ、おもろいな」と、全て見透かした上で、いつものように優しく笑ってくれた。
*
今回は舞台挨拶が先、映画上映が後という構成のようで、客席が暗くなったかと思うと、まずは舞台上にスポットライトが照らされ、司会進行を務めるアナウンサーと今回の主役と準主役の若手俳優たち数名が現れる。とはいえ、俺にとっては自分と同世代か少し年下の同性を見たところで、特に何の感情も起こらないので、彼らの話す内容は特に聞かずに、隣に座る彼女のことを考えていた。
――今日はこの子に守られてしもたな。
少し情けないが、逆に頼もしさを感じる。一緒に仕事をし始めてから五ヶ月が経ち、すっかり彼女は一人立ちできる実力が身についた。そして、元々他人への気遣いができる女性ではあったが、さらにその力が高まり、今や俺の心の機微までが、彼女には読まれてしまっているようだ。あかんな、このままやと素直に降参コースやで、蔵ノ介。
そして舞台挨拶が終わり、いよいよ映画の上映となる。流石に映画のタイトルくらいは予習してきたが、あらすじなどは知らないまま本編に突入する。F1層がターゲット言うてたし、どうせ姉ちゃんや友香里が好きそうな胸キュン系の恋愛の話やろ、なんて思っていたら、予想は良い意味で裏切られた。
映画は、主人公の青年の人間的成長をテーマとしており、本当にF1層がターゲットなのかと疑う内容だった。出てくる登場人物が、人気のある俳優だったり、アイドルだったりするからF1層がターゲットとされるだけで、本質的には俺のようなM1層やM2層に受けそうな内容である。
だからこそ主人公に感情移入してしまっていたのだが、彼をいつも献身的に支えているのが、彼の会社の後輩の女性であり――いやいや、この設定あかんやろ、完全に俺らと重なるやつやん……。思わずチラリと彼女を横目で見ると、やはり何とも言えない表情をした彼女の横顔が視界に入ったので、お互いに同じようなことを思っていることを悟る。ただ、無情にも、場面展開は彼らの恋愛にフォーカスされていき、そしてその瞬間は訪れた。
*
……え、ちょっと待って、めちゃくちゃに気まずいんですけど!? と内心叫ばずにはいられなかった。映画の大まかなあらすじは公開されているものの、今日は完成披露試写会であり、一般にはまだこの映画は公開されておらず、製作陣以外、この映画のストーリーは誰も知らない。
だから、まさか、白石さんと二人で、主人公とその会社の後輩のキスシーンを見ることになるとは。
ただでさえ、映画の主人公の境遇がどことなく白石さんに重なるところがあったのに、その主人公に片思いする会社の後輩って、完全に私のポジションでは。そして映画の中で、主人公も後輩の女性に惹かれていき、今まさに、映画館中に、キスの時の生々しいリップ音が響いている。そしてスクリーンにはシーツの波の中で愛を確かめ合う二人。おそらく通常の一視聴者であれば、やっと想いが通じ合ったこの場面は胸キュンシーンもしくは感動シーンなのだろう。ただ、このシチュエーションでは――あくまで映画の中の話なのに、なんだか気恥ずかしくて耐えられない。
一方で、スクリーンの中の二人が私達だったら、なんて妄想を始めてしまう自分もいてしまうから、厄介だった。白石さんのことは、先輩として尊敬している。ただ、それ以上の感情が生まれそうになる瞬間がたくさんあって。その都度、意図的に自分の感情に蓋をしてきたけれど、映画の二人は、お互いを愛し合い、求め合っていて――もしこれが、白石さんと私だったら。白石さんは、どんなキスをするんだろう。どんなふうに触れてくれるのだろう。
こんなことを考えている時点で、もう全然自分の感情に蓋なんてできていないことに気づく。そろそろ認めなければいけない時が来たようだ。
私は、白石さんに、恋をしている。
2023.10.31