白石さんと、はじめての失敗

 新しい年を迎え、三月に販売開始する新商品のプロモーションの準備の佳境を迎えていた。キャンペーン、テレビCM、SNS運用、WEB広告に、OOH。
 昨夜、広告代理店からWEBマーケティング費用の見積が来ていたので、それを元に今日は稟議書を書かなければ。最近、見たことないような金額の稟議を書くことが多いので、五十万、百万程度の見積が「安いな…」と感じてしまうほどには感覚がバグってきている。
 そんなだから、私は油断していた。気が抜けていた。どんな金額の仕事であっても、手は抜いてはいけないというのに。

 社用携帯が鳴り、出てみると、相手はいつもの広告代理店の営業担当さんだった。電話だなんて、急ぎの用事かなのかな。なんだろう。

『来週からのリスティング広告、見積はお出ししましたけど、発注がまだのようでして……進めちゃって大丈夫ですか?』
「あっ、申し訳ございません……! 発注書お送りするのを失念してました」
『今日中に頂ければ弊社としては大丈夫なので、すみませんがお願いします』
「はい、かしこまりました。今日中には間に合うと思いますので、お待ちください」

 そうだった。他の発注は済んでいたけれど、リスティングだけはまだだった。あわてて発注書を作成して、押印手続きの準備を進めていると、隣の席の白石さんからふと話しかけられる。

「……なぁ、今作っとる発注書、ちゃんと稟議通してる?」
「はい、この間、他の広告費といっしょに部長決裁までおりてるはずですが」
「言葉尻取るようですまんけど、『はず』で発注したら絶対あかん。俺の記憶が正しければ、そのリスティングについては見かけてへん。一旦確認してみぃや」

 白石さんの珍しく厳しい表情と声色に、慌てて稟議書で決裁を取得した内容を確認すると、CM・OOHやSNS運用、クリエイティブ制作費用、デザイン費用などはしっかり載っているが、確かに、リスティング広告に関する費用が漏れている。―――やってしまった。

「すみません、リスティングだけ決裁取れていませんでした。今すぐ稟議書書きますね!」

 急いで社内の稟議書システムを開こうとしていると、白石さんは「一旦、待ちや」と言うので、その手を止める。そのまま席を立ち上がった白石さんは、珍しく冷えた声で「着いてきて」と言うので、一気にこちらの心臓も冷える。どうしよう。白石さん、いつになく怒っているかもしれない。

 結局たどり着いたのは、空いている小さめの会議室だった。会議室予約をサクッと取った白石さんは、社員証をかざして会議室の鍵を開けると、そのまま私も中に入るように促す。そして、彼は適当な椅子に腰をかけると、隣の椅子を引くなり「座りや」と言うので、おずおずとそこに腰を下ろした。少しの沈黙の後、白石さんは言う。

「未決裁での発注は、オペレーションミスの中でも重大や。今回のリスティングは二十万円。キミが書いてる稟議書は、いつも何千万単位やから見落としてしまったんやろうけど、金額の多寡は関係あらへん。会社のお金を使って発注するんや、自分の財布から払うわけやない。そこだけは、きちんと意識せなあかん。特に俺らは広告宣伝部や。他の部署とは比にならんくらいデカい金額が動くし、癒着や贈収賄も一番疑われる部署や。やってしもてもどうにかなるミスと、どうにもならんミスがあるけど、今回は後者や」
「……すみません」
「……今回は未遂やから、大丈夫やけど。そもそも何でこういうミスが起きたんやと思う?」

 そう言われて、考える。なぜだろう。タスク管理がきちんとできていなかったから? よくわからない。混乱して言葉が出てこなくなった私に、白石さんは言う。

「別に、ミスをすることは誰にでもあんねん。せやけど、今回は、その後の行動が、正直キミらしないなと思った。『二十万やったら、部長決裁までで済むし、今日中に稟議通せばいけるやろ』ってどこかで思っとったやろ」
「――」
「まだ、手ェ抜くこと覚えるには早すぎるで」

 その言葉を聞いた途端、一気に自分自身が恥ずかしくなった。ミスの要因は、私の心の甘さだ。二十万円くらいならどうにでもなるだろう、という心の隙だ。仕事に向かう姿勢が、誠実ではなかったのだ。白石さんはそれを見抜き、そしてこうして指導をしてくれている。白石さんも忙しいのに、わざわざ時間を取って、私のプライドを傷つけないように、他の人の目につかない会議室の中で。その全てに気づいた途端、あまりに自分が情けなくて、鼻の奥がツンとする。泣くな。泣くな。仕事中なのだから。自分にそう言い聞かせ、なんとか保つ。

「……本当に申し訳ありませんでした。ご指導ありがとうございます」
「次から気ぃつけたらええ。今日のリスティングの件に関しては、席戻ったら急いで起案し。次のミーティング、部長と1on1やから、そん時に今日中に承認してもらうよう、俺からも言うとくわ」
「ありがとうございます」
「……キツいこと言うて堪忍。せやけど、期待してへん後輩に、そもそもこんなこと言わへんから。ほな、俺先戻るな。この部屋、あと十五分くらいは使えるから好きに使てええよ」

 いつもの優しい声に戻った白石さんは、そう言って私の頭にぽんと軽く手を乗せたあと、会議室を出て行った。白石さんが会議室を完全に出たのを確認して、私は一人きりで元の椅子に座り直す。途端にさっきまで我慢していた涙が溢れてきて、慌ててポケットからハンカチを取り出し、目を押さえた。会社で泣くのは随分久しぶりだ。白石さんが最後に、この会議室の残り時間を好きに使って良いと言い残していったのは、私がこうして一人で泣く時間を想定していたからで。本当にすべてが白石さんに見通されている。そして、白石さんの行動は、すべて私のためを思ってのものだと思い知らされる。彼の私利私欲なんて一切ない。
 そう思ったら、自分への情けなさ、恥ずかしさと同じくらいに、白石さんへの感謝と尊敬の念が、まるでコップから水が溢れるかのようにぐっと流れ出て、また涙が出てきた。本当に、白石さん、なんでこんなに優しい先輩なんだろう。こんなときに不謹慎かもしれないけれど、そう思うと、今まで彼に対して、意図的に抱かないようにしていた感情が、生まれそうになる。あくまで、仕事上の関係で、先輩として尊敬しているだけ――そこまでで留めておきたいのに。

 言いすぎてしもたかな、と、会議室から自分のデスクに戻る道中、反省する。直属の後輩を、初めて本気で叱った。普段の彼女の仕事ぶりは、とても丁寧で真面目で信頼できる。だからこそ、彼女の成長を願っての指導をしたつもりだった。だが、一方で、自分が彼女に任せていた業務量が彼女のキャパシティを超え始めていることにも気づいていた。――あんだけ仕事しとったら、二十万の稟議、忘れてまうのも正直仕方ない気もしてまうよな。本人には言われへんけど。

 年末の忘年会で彼女の仕事ぶりを褒めた時、彼女は感極まって嬉し泣きしていた。その彼女が、今度は指導される立場に立った時、真っ赤な目をしながらも、泣かずに耐え切った。その高潔さは素直に美しく、そしていじらしい。そういう在り方の彼女だからこそ、期待しているし、評価もしている。だから、言うべきことは言わなければ、と思ったのだが、やはり俺もただの三十路手前の男であって。……いくら指導とはいえ、仕事上仕方ないこととはいえ、自分の発言で年下の女性を泣かせてしまうのは、罪悪感が芽生え、全く気持ちの良いものではない。思わずため息が出た。

 部長との1on1まではまだ少し時間があるので、一杯コーヒーでも淹れて気持ちを切り替えようと給湯室にあるコーヒーサーバーへ向かう。しかし、そこには先客がいたので、一旦廊下で控えた。他チームのアシスタントの女性二名ほどで繰り広げられる、よくある給湯室での会話。これ、俺が聞いたらあかんやつや。そう思っていたのに、ふとさっきまで一緒にいた彼女の名前がそこから聞こえてきて、思わず聞き耳を立ててしまった。

「支倉さん、マジでほんとウザくない? いつも白石さんにベタベタしちゃってさあ」
「ほんとそれ。田舎の支社から出てきた、素朴ないい子ちゃんぶってるのもウザイ」
「ああいう女ほど遊んでるんだって。ほら、男もさ、高嶺の花みたいな美人より、手の届きそうなブスのほうが結局良かったりするじゃない」
「ま、白石さんはあんな子、相手にしないだろうけど。ってか、相手にされちゃ困る」
「でも、やっぱり鼻につくから、この前わざと、支倉さんだけ会議の議事録共有のメールの宛先外しちゃった」
「えっ、ひど、かわいそ〜」
「思ってないくせに。顔笑ってるじゃん」

 そして彼女たちはそれぞれ給湯室での用が済んだのか、二人して廊下へ出てきた。そして廊下で控えていた俺の姿を見るなり、一気に青ざめた顔で「白石さん、お疲れ様です」とその場を去っていく。まぁ、後の祭りやけどな。全部聞いてもうたわ。
 目をかけている直属の後輩の悪口を聞かされた身としては、腹の奥のほうで何やらモヤモヤしたものが渦巻いて行くような感覚がある。ただ、ここで「そんなん言いなや」なんて俺自身が介入したら最後、結局彼女にとってさらに辛い境遇になることは目に見えているので、ぐっと堪えた。
 改めてコーヒーを淹れながら、彼女のことを考えてみる。十月に地方の支社から東京の本社に配属となり、新しい職場に新しい家に新しい街、何もかも慣れない中で精一杯やってきて、まだ四ヶ月目。きっと裏では、俺のせいで、事実無根の噂や陰口を叩かれて、時には嫌がらせも受けてきたのだろう。だが、その間、今日まで、大きなミスもなく、泣き言も言わず、ずっとコツコツ仕事を積み上げてきたのだ。
 ――年末の涙は、単純に仕事を褒められたからだけやなくて、こういう背景もあっての涙なんやろな。
 そう思うと彼女への申し訳なさとともに、他の感情が目覚めそうな予感がしたが、慌てて理性で制した。いやいや、あかんやろ、俺。彼女は、あくまで職場の後輩やで。

2023.10.21