白石さんと、体調不良

 五月、ゴールデンウィーク明け。一気に季節が春から夏へと移り変わっていく。一ヶ月前までは春物では肌寒くてコートを羽織る日もあったはずなのに、今では半袖でも良いくらい。そんな季節の変わり目、珍しく隣の席の白石さんが、くしゃみをしている。

「……あー、スマン」
「大丈夫ですか? 風邪?」
「ん。まあ、今晩早寝すれば治るやろ。それより感染らんように気ぃつけてや。俺も感染さんように、明日はリモートにするわ」

 そう言う白石さんは、一見いつも通りの様子だ。けれど、毎日一緒に仕事をしているせいか、それとも、白石さんに恋をしてしまっているせいか――彼の変化にはとても敏感になってしまった。何だか声もいつもより鼻声な気がするし、表情もいつもより暗いような。もしかして、相当辛いの、我慢しているんじゃないのかな。なんて思って、主任にこっそり「白石さん体調悪そうですけど、大丈夫ですかね……」なんて話しかけたら、「えっ、そう? いつも通りに見えるけど」とあっけらかんと返されてしまった。うーん、気のせい、なのかな。

 そして次の日。白石さんはリモートということで、隣の席は空白だ。白石さんがいないと、やっぱり少し寂しい気がするけれど、仕事という公の場に、そんな私的感情を持ち込んではいけない。集中しなくちゃ。ただ、次の瞬間、私の心臓は揺さぶられた。白石さんから、チーム全員宛にチャットの通知が来ていたからだ。その内容は『急で申し訳ございませんが、体調不良で早退します。』とのこと。その後、白石さんらしく、引継事項が簡潔かつ丁寧に箇条書きでまとめられた状態で投稿された。

「……やっぱりさすが先輩後輩で毎日一緒に仕事してるだけあるね。私は気づかなかったけど、白石くん、昨日から本当に体調不良だったのね」

 向かいの席の主任が、モニター越しに私の顔を見ながらそう話しかけるので、「そうみたいですねえ……」と返事をする。

「私が白石くんと一緒に働いてからもうすぐ二年近くなるけど、彼がこんなふうに体調不良で休むなんて一度もなかったから、ちょっと心配。白石くんも、実家は大阪だから、一人暮らしでしょ? 看病してくれる彼女でもいればいいけど、あんなに働いてたら彼女作る暇もないわよね〜」

 そう言う主任の言葉に、少しドキッとした。白石さんに彼女がいないことは存じ上げている。ただ、白石さんには好きな人がいることも知っている。そして、その好きな人が、もしかしたら、もしかするかもしれないことも。いやいや、だから、仕事に集中しなきゃいけないんだってば! ただ、やっぱり白石さんのことが心配で。会社のチャットはひょっとすると人事などに見られてしまう可能性があるので、こっそり私用スマホの方で白石さんの連絡先を探し、そしてメッセージを打った。

『大丈夫ですか? 白石さんがお仕事休むなんて、相当具合悪いんじゃないかと思って』
『身体お辛いと思うので、返信は不要です。でも何かできることあったら、言ってくださいね』

 そんな二つの吹き出しがトークルームに生成されるも、未読のままだ。本当に大丈夫なのかな、白石さん。

 仕事を終えて、帰宅準備をしながら、再度彼とのトークルームを確認すると、返信は無いものの、既読がついていた。……良かった、生きてた。と、安堵したその瞬間、トークルームに吹き出しが一つ増えた。

『スマンけど、経口補水液、頼めへん?』

 わわわ……! 白石さんからの返信だ。

『もちろんです。他も何か適当に見繕って持っていきますね』

 こうやって素直に頼られるのは嬉しいけれど、余計に心配になる。白石さん、やっぱり相当具合悪いに違いない。そういえば白石さんの家ってどこだっけ。最寄駅までは聞いたことあるけど。と思った瞬間、位置情報と住所がサクっと送られてきた。やはりこういうところは風邪を引いていたとて、パーフェクトな人なのだ。

 白石さんの最寄駅は割と大きめの駅なので、何でも揃っている。薬局で、頼まれた経口補水液の他に、熱冷ましのシートや、栄養ドリンクなど、とりあえず風邪に効きそうなものは買い物かごに放り込んだ。そして、スーパーでも、消化の良さそうな食材を中心に買い込んだ。大きめのマイバッグを持ってきていて良かったな。
 そして、白石さんのご自宅に到着した。セキュリティがしっかりとした、築浅で、おしゃれなマンション。ここまでたどり着いて初めて、私は今から、好きな人の家を訪問するのだ、という事実を認識した。それまで白石さんの体調が心配であまり考えていなかったけれど、ここは、白石さんが毎日寝起きして、日々過ごしている場所なのだ。えっ、どうしよう、緊張する。でも経口補水液はいち早く届けなければいけないので、恥ずかしがっている暇もない。メッセージに書いてあった部屋番号を押して、呼び出す。

『ええよ。入り』

 機械越しに白石さんのそんな柔らかな声が聞こえたと思ったら、エントランスの自動ドアが開いた。そしてエレベーターに乗り込み、彼の住む階のボタンを押す。いや、玄関先で帰るつもりだけど。それでも、ドキドキしてきてしまう。
 ついに、白石さんの部屋のドアの前まで、やってきた。ピンポン、と控えめにインターホンを押すと、しばらくして内側からドアが開く。
 中から出てきた白石さんは、目に見えて体調不良だった。元々色白の肌がさらに蒼白していて、頬もどこかやつれたような感じだ。もしかして、ご飯、食べれていないのかな。取り急ぎ買ってきたものを、マイバッグごと手渡す。

「……手間かけたな」
「いえ、全然です……白石さん、体調、本当に悪そうですね……」
「ハハ。後輩に心配かけてもうて、世話ないな」
「無理、しないでくださいね。仕事は、私ができることはやっておきますので」
「心強いわ。ほな、せっかく来てもろて悪いけど、これ以上話しとると支倉さんに感染してしまいそうやから。またな」

 白石さんはそう言って私を帰そうとしたのだろう。ただ、その瞬間目の前の彼はふらついたので、倒れないように慌てて正面から支えた。うう、結構重い。そして――めちゃくちゃに、熱い。

「白石さん、もしかして、熱、とんでもないことになってませんか……」

 そんな問いに彼は答えず、私に体重を預けながら、ハアハアと辛そうな息をしている。……こんな状態の白石さんを放って帰れる人がいたら、私は見てみたい。

 白石さんを支えながら、彼の部屋にお邪魔する。1LDKのお部屋は、無駄な家具がなく、とてもシンプルで、白石さんらしいなと思った。
 寝室に彼を運ぶと、白石さんは素直にベッドに横になった。どうしよう、本当に辛そうだ。病院に行った方がいいはずだけど、もう夜だしなぁ。とりあえず元々彼が求めていた経口補水液のペットボトルのキャップを外し、そのまま口元へ持っていってみた。水分は大事。すると白石さんはそこに口をつけて、こくこく、と喉を潤していく。こんなときなのに、上下する喉仏がやけに色っぽくて、私の視覚に焼き付いてしまった。そのまま白石さんは、気を失ったかのように目を伏せる。
 ――え、倒れちゃった!?
 なんて一瞬焦ったけれど、しばらくすると寝息のようなものが聞こえてきた。よかった、寝てるだけだ。

 白石さんが寝てしまったので、私は一人、白石さんの部屋に残される。この状態の白石さんを放って帰るわけにもいかないので、寝室の電気を消して、彼の様子が伺えるようにドアは開けたまま、リビング側のお部屋で様子を見させてもらうことにする。すると、あることに気づいた。

「これって……」

 リビングの隅には、作業用のデスク。その上にモニターが乗っていて、そこに白石さんの社用PCが繋がれたまま。きっと昼にあのチャットを送るまで、ここでお仕事をされていたんだろうな、とすぐにわかった。そういえば前に白石さんとWeb会議をした時に、彼が背景画像を設定し忘れて、彼のお部屋が見えてしまったことがある。もしや、と思い見てみると、やはりあの時見た背景と同じ光景が、そこにはあった。
 ――ここ、本当に白石さんのお部屋なんだ。
 あまり他人の部屋をジロジロと見るのも悪いかな、と思いつつも、白石さんのお部屋を見ていると、シンプルな中に彼にとって大切なものがいくつか飾られていることがわかる。
 今より幼い顔つきの白石さんが、みんなお揃いで黄色と緑のジャージを着ている中心で、とても無邪気な笑顔を浮かべている。背景がテニスコートなので、きっと部活の仲間との集合写真なのだろう。そのほかにも、JAPANと描かれた白いジャージを身につけた中学生か高校生くらいの白石さんと、その仲間たちとの写真が数枚飾られていて。きっと彼にとってすごく大切な思い出で、すごく大切な人たちなのだろう。そう思うと、自然と優しい気持ちになった。

 先程よりは熱が下がったようで、少し身体が軽くなっている。ふと気づいたら、自室のベッドで横になっていた。あれ、俺、さっきまで玄関におらんかったっけ。ぼーっとする頭で上体を起こすと、部屋のドアが開いており、その向こうは煌々と電気が点いている。その瞬間、色んな記憶が思い出され、慌ててリビングへ移動した。

「……白石さん! お身体大丈夫ですか」

 心配そうな顔をした彼女は、まだここにいた。そら玄関であのタイミングでぶっ倒れられたら、さすがに帰れへんよな。と、申し訳ない気持ちになる。

「さっきよりは調子ええよ」
「それなら良かったです。もし食欲あるなら、おかゆとか食べますか? っていっても、キッチン借りて良いか分からなかったので、ただレンジで温めるやつですけど……」

 ほっとした表情をした彼女は、仕事の時と同様に、てきぱきとした様子で俺に話しかける。

「……スマン」
「?」
「時計見てへんけど、もう夜中なんちゃうん」
「終電はギリギリあるかなぁって感じなので、大丈夫です。あと、知ってます? この国には、タクシーっていう乗り物があるんですよ」

 彼女はドヤ顔で当たり前の知識をひけらかすので、思わず笑ってしまった。それ、この前の俺の真似やろ。 とはいえ、終電で帰らせるのは心配だ。後でタクシー代、渡さなあかんな。

「……そか。ほな、おかゆ、もらおかな。朝から何も食べてへんくて。腹減ったわ」
「食欲出てきたんですね。よかった。そしたら、ちょっと待っててくださいね」

 そしてリビングのソファで待っていると、数分後、彼女はおかゆを持って現れた。一人暮らしで風邪を引くことは初めてではないが――自分にとって大切な女性が、こうやって献身的に看病してくれるのは、申し訳ない反面、やっぱりええもんやな、とも思う。
 隣に座る彼女は、器かられんげでおかゆを掬うと、そのまま、ふうふう、と息をかけて冷まし、そのまま当たり前のように、それを俺の口元へ持っていく。

「口、開けれます?」
「……ハイ」
「?」
「いや、自分で食えるで」

 柄にもなく照れてしまった。いや、気持ちは嬉しいのだが。彼女はそんな俺の顔を見るなり、おそらく俺以上に恥ずかしそうな顔をしている。

「す、すみません……」 
「ハハ。謝ることないやろ」
「……それを言うなら、白石さんもですよ」
「ん?」
「白石さんこそ、今日私に謝ってばっかり」

 予想外のカウンターだった。言われてみれば、確かにその通りだった。

「……謝られるより、お礼言われる方が、嬉しいです」

 隣にいる彼女の言葉は、とてもシンプルだが、俺の本質を捉えているような気もした。他人に甘えることが、未だに得意ではない節がある。だから、無意識に申し訳なさの方が先行して、そのまま言葉となっているのだろう。

「……せやな。おおきに、支倉さん。ホンマ助かったわ」

 そう伝えると、彼女は「どういたしまして。お役に立てて嬉しいです」と嬉しそうに笑っていた。

2023.11.2