first kiss

 中二の時に同じクラスだった白石くんと、春から付き合い始めたことは、まだ誰にも言っていない。知っているのは白石くん本人と私だけ。まさか白石くんが私のことを好きだとも思っていなかったし、百歩譲って好きだったとしても、彼はいつもテニスを理由に女の子の告白を断っていたようだから、テニス部を引退するまで、恋人同士になるなんて想像もしていなかった。

 だから、白石くんのお誕生日に、彼の方から告白された時はびっくりした。彼自身もどうやらまだ言うつもりはなかったらしく、「ほんまは、まだ、言うつもりなかってんけど、勢いで言ってもうた」と顔を赤くしていた。珍しく余裕のない白石くんを見て、その気持ちが本物だとわかったし、私も白石くんのことが好きだったので、彼の誕生日から私たちはこっそりと恋人同士になったのだ。

 二人で帰る時は、いつも彼がテニス部の部室を施錠する時間を過ぎて、四天宝寺の生徒がほぼいなくなってから。人前では手を繋がず、周りに人がいないときだけ手を繋ぐ。お互いに部活が忙しくて、休みの日に約束してデートしたことはまだないけれど、それでも二人でいっしょに帰ったり、毎晩電話したり、ラインしたり。そんなことだけで、毎日幸せだ。

「いつものことやけど、遅い時間まで待たせてもうて、すまんな」
「ううん、大丈夫」

 今日も自分の部活が終わった後、制服に着替えて、彼以外誰もいないテニス部の部室へ。最近彼は忙しい。大会が近づいてきているからだ。いつも仲間や後輩を優先して、自分の練習はその後から。ただ、季節は初夏を迎え、だいぶ日が長くなってきた。前は真っ暗な道を一緒に帰ることも多かったけれど、今はまだ空が茜色をしている。
 制服に着替えた白石くんは何やらノートに向かって一生懸命だった。

「どないしたん?」
「次の練習試合のオーダー、悩んでもうてな」
「……そうなんや」
「せやけど。もう時間も遅いし帰ろか」
「ええの?」
「ええよ。今日絶対決めなあかんわけでもないし」

 な? とこちらを見ながら微笑んでくれる白石くんは、とても優しい。きっと本当は方向性だけでも今日決めたかったんちゃうかなぁ、なんて思うけれど、彼はノートを閉じて帰る準備を始めたから、私も改めてスクールバッグを肩にかけ直した。そして、何の気なしに、部室のドアへ向かおうと一歩踏み出した時。

「っ、!?」

 床ではない何か変なものを踏んだ感触、そして、まるでスローモーションのように世界が回転していく。私はどうやら何かを踏んづけた結果転びつつあるらしい。そんな私の様子に気づいた白石くんは、おそらく私を助けようと慌ててこちらへ向かってくる。あ、でも、もう床に背中からぶつかりそう――。ぎゅっと目を瞑ると同時に、腕を引っ張られる感覚。

「……はぁ、間に合うた」
「し、らいしくん……!?」

 背中に来るはずだった衝撃は無く、ふと目を開けた――瞬間に、心臓が止まりそうになった。白石くんが私の下敷きになっている。スクールバッグは転ぶ過程で肩から抜けてどこかへ飛んでいったようで、いつの間にか数センチ先に白石くんの綺麗な顔がある。待って、これじゃ私が白石くんを押し倒しているような体勢だ。一気に全身に血が巡り、身体が熱くなる。

「ご、ごめんなさい、今すぐ立――」

 と言いかけたのに、なぜかクイッと手が引っ張られて、逆に白石くんにまた体重をかける形になる。え? ちょお、どういうこと……? 理解が追いつかないでいると、目の前の白石くんは、なぜかとても真剣な顔で私を見つめている。

「―――」

 そして何も言葉を発しないまま、今度は魔法のように、彼は、くるりと世界を反転させてしまった。視界の先には、天井と、やっぱりこちらを真剣に見つめる白石くん。

「え、どういう……」
「……足元はちゃんと見とかなあかんで」
「あ、はい、ごめんなさい」
「ただ、テニスボール片付けんとそのまま床に転がしとったやつがおるっちゅうことやな。そこは俺の指導力不足や。堪忍」
「いや、さすがにそこまでは白石くんのせいやないよ……!」

 なぜか押し倒された体勢のまま、こんな普通の会話をしている。白石くんとは清く正しく美しいおつきあいなので、手を繋ぐまでしかしたことがなく、その先は未知だ。そんな状態でこの体勢は、私には刺激が強すぎる。第一ボタンが外されたカッターシャツの首元から覗く鎖骨や喉仏からは、中学生とは思えない蠱惑的なものが放たれていて、直視できない。そのため右側に視線を逸らしていたのだけれど、今度はその視線の先、至近距離に、包帯に巻かれた左腕があって。それはそれで、緊張する。部室の床と、白石くんに挟まれたまま、どうしていいかわからない。

「……白石くん、その、この状態は、」
「残念ながら、キミの彼氏は聖人君子ちゃうねん」
「え……」
「可愛え彼女がこない近くにおって――そろそろ手ぇ繋ぐだけや足りひん」

 部室の窓から西陽が入り、薄暗い部室が少しだけオレンジに照らされる。そのせいなのか、目の前の白石くんに視線を戻すと、彼の頬にも赤みが差していた。

「……白石くんも、そういうこと思うんや」
「どういう意味や?」
「テニス忙しいし、他の男子と比べてあんまり女の子に興味なさそうやったから、意外やなと……」
「確かにな。俺が興味あるんは、『好きな子』だけや」

 あまりに距離が近いせいで、彼の前髪の先が自分の頬に触れる。びっくりするくらいに甘い言葉と、この距離に、心臓が爆発しそうなくらいに早鐘を打っている。彼の左手の人差し指が、そっと私の唇をなぞった。それだけで、毒手の毒が回ってしまったかのように、もう、彼のこと以外、何も考えられない。

 彼は私の意向を確かめようと瞳を覗き込んでくるので、私は許諾の意思表示で、そっと瞬きをした。それを確認した彼は、右腕を床と私の背中の間に差し入れて、私を抱き起こしながら、その完璧に整った顔をこちらへと近づけてくる。さっきまで優しく微笑んでいたはずなのに、今の白石くんは、まるでテニスの試合中の時のような真剣な表情で、思わず息を呑んだ。

「……目、閉じて」

 そんな声に慌てて瞳を伏せると、そのまま唇に柔らかいものが触れて、離れた。
 ――ついに、白石くんと、キス、してもうた。

「……キス、してもうたな」
「う、ん」

 私にとっては初めてのキス。そして、おそらく彼にとっても。大好きな人と唇が触れ合うだけで、こんなにも幸せな気持ちになれるなんて、知らなかった。なんだか、涙が出そうだ。
 そんな私の様子に気づいたのか、白石くんは私の目尻に浮かんだ涙をそっと親指で拭う。そして、再び、今度は無言で、私の唇に自身のそれを重ねた。
 そのまま彼は何度も味わうように唇を啄む。放課後の部室では、その場に似つかわしくない、ちゅ、ちゅ、という甘いリップ音だけが、しばらく響いていたのだった。

Fin.
2023.4.14