最悪だ。誕生日なのに風邪を引いた。でも会社には行かないと。仕事が山のように溜まっていて、もはや休む方が怖いという心境だ。重い身体を無理やり起こして、オフィスへ向かう。よりによって今日は大事な会議があるから、休めないのだ。
熱は、測ってしまったら最後、到底会社に行く気になれなくなりそうで測っていない。毎日残業してたのが身体に響いたかな。それとも季節の変わり目だからかな。本当は残業しないとやばいけど、それ以上に体調のほうが結構やばいし、今日は定時で帰ろう。そんな時だ、同期の白石と廊下ですれ違った時に声をかけられた。
「支倉」
「……なに?」
「自分、めっちゃ顔色悪いで。早退したほうがええんちゃう?」
「大丈夫だよ! それにこの後大事な会議もあるし」
なぜ他人に声をかけられた途端、無駄に強がってしまうのだろう。だからこそ、白石以外の同僚には、私が具合が悪いことさえ気づかれなかった。そう思ったら、すれ違っただけで異変に気付く白石はすごいな。さすが同期、だてに長い付き合いをしていない。
「……あんま無理せんといてや、ほんまに」
「うん。ありがとう。今日は定時で帰るよ」
と、笑顔を作って白石を見上げた途端に、世界がぐにゃりと歪んだ。倒れそうになった私を支えようと、白石は咄嗟に後ろから私を抱きかかえる。うわ、この体勢、他の社員に見られたら本当に面倒なことになりそう。頭にそんなことが過ぎったけれど、幸い周りに人はいなかった。
「っと……! ほんま、危ないで、自分」
「……確かにちょっとやばいかも。会議終わったらフレックス使って帰ろうかな……」
「そのほうがええ。早よ帰りなさい」
「ふふ、白石、お母さんみたい」
「誰がお前のオカンやねん」
すかさずツッコミが入るあたり、彼も関西人だ。あと十五分後から始まる会議が終わったら、さっさと家に帰って寝よう。たぶんただの風邪だし、寝れば治るはず。
*
帰宅して、メイクを落としてパジャマに着替えて、即ベッドに入り込んだのは数時間前。やっと意識を取り戻した。外はすっかり暗くなり、この部屋もライトをつけないと何がどこにあるかわからない。そんな中、枕元にある体温計とスマホだけはすぐに手に取ることができた。まずはスマホを手に取ると、表示された時間は十九時十五分。どうやら三時間くらい寝ていたらしい。そして、通知が何件か溜まっている。その差出人は――白石? 慌ててメッセージアプリを開くと、彼からのシンプルなメッセージが三通ほど。
『病院行った? 薬飲んだか?』
『寝てる?』
『とりあえず薬と、あと何か適当に買ってくわ』
ん? 寝ぼけ眼で読んでいるから頭があまり回らないけれど。何かすごいこと書いてない? 書いてるよね? 『買ってくわ』って。もしかして、ウチに来るってこと……?
白石には私の家の場所はバレている。新卒の頃は、駅近であることを理由に、私の家がしょっちゅう同期のたまり場になっていたのだ。最近は家庭を持っている同期も多いから、宅飲みすることはほとんどないけれど。
さすがに彼が部屋まで上がってくることはないと思うけれど、メイクも落としてしまったし、服装はパジャマだ。玄関先で対応するにしてもこんな格好じゃ出ていけない。ふらふらなのに、もう一度メイクでもしようかと思い直してしまうあたり、乙女心はすごい。もう乙女とかいう年でもないのはわかっているけれど――でも、気になる男性に、すっぴんを見られるのは、恥ずかしいではないか。
(はー。私やっぱり白石のこと、気になってるのかな)
あんまり考えないようにしていたけれど、こういうときに自分が異性として白石のことを意識しているのだと気づかされる。同期が一人、また一人と結婚していく中、白石と私だけが残っている。とはいえ、同期からは「お前らはいつ結婚するんだよ」なんて言われるほど私たちは仲が良く見えるらしい。実際は付き合ってもいないけれど。
ただ、白石も私もここが地元ではないので、お互いに地元の友達がいないこともあり、新卒の頃から休みの日は大体同期の仲間と出かけていた。その休日を一緒に過ごす同期が、転職や結婚などを理由にどんどん減っていって、最近は二人で過ごす休日も多かった。それを『デート』と定義することもできるのだろう。でも、認めるのがなんとなく怖くて。ちょっとそういう雰囲気になりそうになると、自分の方から話題を変えてしまって。でも、きっとそれが、パラドックス的に、彼を異性として意識しているということなのだろうと思う。
人対人で付き合う分には何も思わないけれど、彼を異性として捉えたときに、まず最初に来る感情は『釣り合わない』だ。あの圧倒的な容姿の隣に立つのは相当な勇気がいる。自分の顔が橋〇環奈だったらよかったのに。それに、白石は性格も良い。もちろん彼だって悩んだり落ち込んだりするときはあるし、そういう姿もそばで見てきた。ただ、そんな状況下であっても、理不尽を他人の所為にせず、常に自分自身を磨こうとしていくその姿勢は、尊敬に値する。そんな彼は、同期としては最高だけれど、恋人として考えた時に、あまりに自分との差を感じて苦しくなってしまいそうな気がして。
――と、ぼーっとしている場合ではなかった。熱に浮かされて、思考の感覚も、時間の感覚も、よくわからない。とりあえずパジャマの上にはパーカーか何かを着て、部屋着っぽくしておきたいし、眉毛くらいは描いておこう。枕元の間接照明を点けて、ベッドから身体を起こそうとしたその瞬間と、部屋のインターホンが鳴った瞬間は、ほぼ同時だった。
ピーンポーン。
え、嘘でしょ。もう来たの?! ただ、冷静に思い返せば『適当に買ってくわ』のメッセージが着ていたのは十八時台で。今は、そのちょうど一時間後くらいだ。そりゃもう来るか。でも待って、色々準備ができていない。
もう一度、ピーンポーンとインターホンが鳴る。駅近なのになぜ我が家の家賃がリーズナブルなのか、その理由は、残念ながらオートロックが存在しないからだ。ドアの向こうには白石がいる。たぶん。重い身体を起こして、そう遠くはない玄関のドアに向かう。覗き穴から念のため外を覗くと、やっぱりそこには白石がいた。それにしても、魚眼レンズを通してもカッコイイって何なの、ほんと。
ドアを十センチほど開けると、スーツに薄手のコートを羽織った白石から話しかけられる。
「風邪薬、経口補水液、冷却シート、あとレトルトのお粥類」
「……お金払うよ」
「要らん」
十センチの隙間から、ビニール袋が差し出される。それを受け取った時、一瞬白石の指と私の指が触れた。私の熱が高いせいなのか、白石が初冬の夜で冷えているのか、随分と白石の指の冷たさを感じた。
「ごめんね、迷惑かけちゃった」
「謝られるよりは、礼言われたほうが嬉しいねんけど」
「……そうだよね。ありがとう、白石」
そう告げると、白石は微笑んで、「具合はどうや?」と尋ねる。
「今のところは熱と倦怠感だけかな」
「そーか。そのままようなるとええけど、無理したらあかんで。って俺が今無理させとんな。早よ帰るわ」
白石は私に薬等を届けるために来てくれただけなのだ。用が済んだらさっさと帰るのは当たり前だ。頭ではわかっているのに、何だか急に寂しく感じてしまった。そう思ったとしても、いつもなら態度に出さないのに。今日は熱の所為か、顔に出てしまったらしい。
「……えらい寂しそうやな」
「え、そんな顔してた……?」
「ああ。顔に書いてるで。やっぱり一人暮らしで風邪ひくとしんどいしな。それに、せっかくの誕生日やろ」
誕生日。
もはや忘れかけていた。
そういえば今日は誕生日だった。
白石が誕生日を覚えてくれていた嬉しさ、誕生日なのになぜこんなに体調がボロボロなんだろうという悲しさ、そもそも誕生日を忘れてしまうほど余裕のない自分への虚しさ、色んな感情が一気に押し寄せて涙腺が緩む。すんでのところで涙を流すことは我慢できたけれど、きっと瞳は潤んで赤くなっているだろう。
「……ついさっきまで早よ帰ろ思っててんけど。もうちょっとおるわ。看病させてくれへん?」
「気持ちは嬉しいけど今すっぴんだしパジャマだし……」
「はは。何を今更恥じらっとんねん」
「もう。そう言われるとなんか癪に触るなぁ」
「すっぴんやパジャマ姿見たとこでどうにかなるほど軟弱な関係性ちゃうやろ? ほなお邪魔します」
*
白石を家に上げてしまった。同期複数人と一緒に、この家に上げたことは何度もある。でも、白石単独は初だ。部屋は、すごくきれいというわけでもないけれども、普段からこまめに掃除をしていてよかった、他人を上げられるレベル感ではある。
白石は「病人は寝ときや」と言うので、ベッドに横にならせてもらった。彼はキッチンに立ち、何やら色々としてくれているようだ。横になっているから、手元は見えないけれど。
「ちょっとは食えるか? 買うてきたレトルトのお粥温めてみてんけど」
「……至れり尽くせりだね」
「せやなあ。治ったらお礼に何してもらおうかな」
「えっ」
「アホ。冗談や」
コートとスーツのジャケットを脱いで、料理するのに邪魔だったのか、いつの間にかネクタイまで外してシャツを腕捲りをした白石が、お粥の入った器をこちらまで運んできた。食器がある場所もすでに知られているほどには、白石もこの空間に慣れている。
ベッドの上で上半身を起こし、白石から受け取ったお粥に口をつけた。美味しい。他人が作ったものって何でこんなに美味しいんだろう。
「美味しいです……」
「はは。温めただけやで」
「そうかもしれないけど。自分で温めるより美味しく感じる……」
「……自分、相当寂しい生活しとんな」
「こら。一言多い」
「ま、最近めっちゃ残業して頑張っとったしな。仕事ばっかになるんもしゃーないか」
「え、白石、私が残業続いてること知ってたんだ」
白石はこくりと頷く。
何でだろう。白石とは、全然違う部署なのに。
そんな私の心を読んだかのように、彼は問う。
「何でやと思う?」
「白石も残業してるから?」
「――……まぁ、それも一理あるわ」
ベッドの側に胡座をかいた白石は、少し困ったような、呆れたような、複雑な表情だ。そしておもむろに言う。
「――実は、お粥以外にもう一つ用意してあんねん」
「? 今はお粥でお腹いっぱいだよ」
「知っとる。せやから無理せんでええよ」
そう言って白石は一旦キッチンの方へ戻っていった。そしてまたこちらへ向かってきた彼が持っていたもの。
「今、食わんでええけど、今日渡さへんと意味ないやろ」
「え、もしかして、誕生日の……」
白石は無言で頷く。小さなプレートが乗ったショートケーキ。想像だにしていなかったサプライズが嬉しくて、特に身体が弱っている時の優しさが身に沁みて、また涙腺が緩んだ。いやいや、さすがに泣き顔は見られたくない。ただでさえすっぴんなのに。すっぴんを見られるのは諦めたけど。
「白石、優しすぎじゃない?」
「せやな。でも、誰にでも優しいわけちゃうで」
「……」
いつの間にかまたベッドの側に座っている白石と目が合う。
「誕生日、おめでとう」
「……ありがとう」
白石は私の目を見つめたまま逸らしてくれない。どうしよう、顔が熱い。自分の心臓の音が聞こえる。きっと、風邪のせいだけじゃない。白石が、誰にでも優しいわけじゃないのは知っている。ただ、こういう雰囲気になった時に、いつもは話題を変えたり誤魔化したりしていたけれど、今日の白石はそれを許してくれなさそうだ。
「さすがに俺も、ただの同期にはここまでせえへん。意味わかるやろ」
「……うん」
「ずっと好きやった。……風邪引いて弱っとる時に言うんはずるいか?」
「……うん、ずるい」
「ほな、返事は、治ったあとでええよ。ケーキ、冷蔵庫の中入れとくわ。ゆっくり休み」
白石はその大きな手で私の頭を軽く撫で、ケーキの載った小皿を持ってまたキッチンの方へと向かっていく。彼の気持ちに気づかないふりをしてきたけれど、もうゲームオーバーだ。世の中には私より可愛い女の子も、私より性格の良い子もたくさんいるのに、どうして私なんだろう。私なんかでいいのかな。ただ、一方で、長い付き合いの中、白石にとても大切にされてきた実感もある。彼は私を選んでいてくれていたのだ、おそらく、ずっと前から。
ベッドの中にもぐりこみ、目をつむる。熱の所為か、全身が重い。すぐに夢の世界に旅立てそうだ。次目が覚めた時に、熱は下がっているだろうか。熱が下がっていたら、覚悟を決めて、ちゃんと返事をしよう。私もあなたがずっと好きでした、って。
Fin.
2022.11.8