夏休み最後の日。夕方になって少し涼しくなってから、近所の図書館へと向かう。昔から本を読むことが好きで、物心ついた時から暇さえあれば図書館で本を読んでいた。中学生になった今は、部活などもあり足を運ぶ頻度は減ったけれど、それでも週に一度はいつもの席で過ごしている。
それにしても、休みが明けた途端テストというのも鬼畜の所業なんじゃないか。読みたい本はたくさんあるけれど、今日は仕方なしにいつもの席でテスト勉強をしていた。よりによって、試験科目は苦手な理科からスタートだ。直列つなぎをしたときのアンペア数を計算したところで、大人になってから役に立つのだろうか。うーん、やる気がしない。
そんな時だ、私の隣の席に制服姿の彼が現れたのは。
「あ、日吉くん、お疲れ様」
同じ中学に通う日吉くんは家が近所で、かつて同じそろばん塾にも通っていて、幼稚舎の頃から数えるともう8年目の付き合いとなる。所謂幼馴染というやつだ。図書館は日吉くんにとっても幼いころからお気に入りの場所なので、約束したわけでもないのに、ここでばったり彼と遭遇するというのは珍しくなかった。小学校低学年の頃は児童書のコーナーで遭遇することが多かったけれど、高学年からは窓際の席で遭遇することが多くなって、そのまま窓際のその席がお互いの”いつもの席”となっていた。日吉くんにとっての”いつもの席”、つまり私の隣の席に彼は腰を下ろすと、おもむろにテニスバッグから理科の問題集とノートを取り出す。
「……制服にテニスバッグ。昼は部活だったの?」
「ああ」
「そうなんだ。ちょっと前まで全国大会だったのに」
「9月は新人戦もあるからな」
「ふーん。日吉部長、大変だね」
「……揶揄うようなら、席替えるぞ」
「揶揄ってないよ。労ってるだけ」
お互いに理科の問題を解きながらも、そんな会話をする。全国大会の全校応援には、私も参加した。あの跡部様が部長として君臨していたテニス部。その部長の襷を受け取ったのが日吉くんだと知ったのは、全校応援の帰り道に聞いた、氷帝の生徒たちの噂話でだったか。
全国大会は、私にとってはつい最近のことだけれど、彼にとっては遠い昔のことかもしれない。全国大会を終えて、そのあと3年生の先輩たちが引退して、代替わりをして。この10日余りで目まぐるしく状況は変化したはずだ。
そんな中でも学生の本分である勉強も忘れず、こうして部活後に図書館で問題集に向き合う彼は、とてもストイックだ。日吉くんがこんなに頑張っているのだから、私もちょっとは頑張らなくては。一度はどこかに落としてしまった集中力を拾い集めて、問題集に向かう。アンペア数は、相変わらずどうでもいいと思ってしまうけれど。
集中して問題を解いていると、ふと肌寒さを感じた。図書館に来てからもう2時間が経とうとしている。夕方で少し涼しくなってから外に出たとはいえ、まだまだ30度を超える外気温だ、ノースリーブのワンピース1枚で出てきてしまったのだが――図書館の中は冷房がしっかり効いていて。気づけば身体がすっかり冷えてしまったらしい。二の腕を手で擦りながら、摩擦熱を起こしてみようと試みていると、隣に座る日吉くんは、はぁ、と聞こえるようにため息をつき、問題を解く手を止め、テニスバッグのチャックを開ける。
「……ほら」
「?」
「……無いよりマシだろ」
クリーニングから戻ってきた時のビニール袋に入ったままのジャージを取り出した日吉くんは、その袋を躊躇なく破り、器用にタグを外すと、そのまま私に手渡す。
「ありがとう。日吉くんはよく気づくね」
「お前がわかりやすいだけだ」
「そうかなぁ」
貸してくれたジャージに袖を通す。クリーニングしたてのまっさらな感覚が気持ち良い。ジャージのサイズは少し大きくて、急に隣に座る日吉くんとの体格差を感じた。ついこの間まで同じくらいだったはずの身長は、いつのまにか抜かされている。
日吉くんは、きっととっつきにくい性格をしていると思う。あまり素直ではないし、口数も多くない。それでも、とても綺麗な顔をしているし、そのテニスの実力は2年生でレギュラーに入るほどだし、実はとても努力家で。そんな彼にこっそり心を寄せる女の子が少なくないことも知っている。
同じクラスでもなければ、テニス部のマネージャーをしているわけでもない、日吉くんとは学校生活ではまるで接点がない。そんな私が実は日吉くんとこんなつかずはなれずの関係だなんて、誰も予測できないだろう。私たちのこの関係は、私たちだけが知っていればいい。そして、ずっとこんな関係が続けばいい。それなりに成長してきた中で、この世に永続するものなんて何もないと気づいてしまったからこそ、そんな叶わない願いを持ってしまう。
「……もう6時半かぁ。そろそろ帰ろうかな」
一応まだ中学生の身だ、夕ごはんの時間には家に帰らないと。日吉くんは何時までここにいるんだろう。問題集や筆記用具を片付けながらふと日吉くんの方を見やると、彼は「送る」とだけ呟いて、彼も机の上を片付け始めた。そんな言葉に、胸が少し高鳴る。
そのまま二人で図書館を後にして、夕暮れの道を並んで歩く。なんとなくジャージを脱ぐタイミングを逸してしまい、ジャージは羽織ったまま。
「……ジャージありがとね、洗って返すね」
「別にそのままでいい。そんな長い間着てないだろ」
「そう?」
「ああ」
会話は弾まない。ただ、それが気まずいということでもない。日吉くんとの間の沈黙は、居心地の悪いものではない。なんとなく日吉くんの横顔を見上げると、その頬はうっすらと日焼けしていた。それは、この夏の彼の努力の証だ。
「無理しすぎないようにね」
「……突然何だ?」
「日吉くん、何でも頑張り過ぎちゃうから」
その表情だって、彼は隠しているつもりかもしれないけど、少し疲れが見えている。自分でも気づかないうちにきっと自分に大きなプレッシャーを課してしまっているのだろう。
「……そんなにわかりやすいか、俺は」
「ううん。そんなことないよ」
「なら、何で、」
「日吉くんとは、つきあいが長いから、かなぁ」
そう伝えると、一瞬の沈黙の後、日吉くんはバツが悪そうに言う。
「お前だけでいい。そういうことに気づくのは」
「ふふ。日吉くんらしいね」
「部員たちに弱みは見せられないだろ」
「そうかな」
「少なくとも跡部さんは俺の前では凛としていた」
「本当に日吉くんは跡部様が好きだね」
跡部様に出会う前の日吉くんは、誰かに執着することなんてなかったのに。口では下剋上とは言いつつも、敬愛しているのだなと、思わずクスクスと笑ってしまった。そんな私の様子を見て、日吉くんは眉を顰める。
「……支倉、」
「あ、ごめん、別に揶揄ってるわけでは」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
「うっ、」
墓穴。
「あの人のことは尊敬している。が――」
「……」
「お前は鋭いのか鈍いのかよくわからないな」
「え、どういうこと……?」
「俺のことよく気づくくせに、一番大事なことには気づいてないだろ」
あと数十メートルで、もう私の家の前に着く。日吉くんは一度立ち止まると、私の顔をじ、と見つめる。その視線に、心臓が一瞬止まるかと思った。いつも冷静な日吉くんが、まさかこんな熱っぽい瞳をするなんて思わなかったから。
「俺が好きなのは、お前だ」
え?
「……その様子、やっぱり気づいてなかったようだな」
「え、ちょ、まっ……」
気づいていないこともなかったけど。勘違いだったときに落ち込みたくなくて、考えないようにしていた。日吉くんと私は幼馴染で、つかずはなれずのこの距離感でいるからこそ、成り立っている関係なのだと。好意を抱いてしまっては、そのバランスが崩れてしまうのだと。
「――俺の弱みを知るのは、お前だけでいい」
その瞳で見つめられると。
本当は私も日吉くんのことがずっと。
「……私も、他の人には、日吉くんのそういうところ、知られたくない。私だけが知っていればいい」
「……支倉、」
「私も、日吉くんが、好きだよ」
蝉の声と自分の心臓の音だけが煩い。私の返答を聞いた日吉くんは少しホッとしたように息を吐いて、何も言わずに私の頭をその大きな手でそっと撫でた。
Fin.
2022.8.31