男女の友情って成立すると思う?そんな良くある問いに、白石は「正直人によると思うしようわからへんけど、少なくとも俺らの間には成立してるんちゃう?」と答えた。だから、私は彼を親友だと思っていた。少し前までは。
同期の白石とは、新入社員研修中に仲良くなった。そこから彼は大阪、私は東京とそれぞれ配属になったけれど、お互いのパートナーは異性と飲みに行くことを特に咎めないタイプだったので、彼が東京出張の時は私が東京で店を選び、私が大阪出張の時は彼が店を予約し、二人で最終の新幹線まで飲んでいた。そんな中、どんな文脈かはもう忘れてしまったけれど、冒頭の質問をしたことがある。男女の友情が成立するか否か。もちろん私はその問いにはYESであった。
そこから数年の月日が流れ、まず、白石が恋人と別れた。彼女とのツーショット写真を見せてくれたこともあるし、彼女の話をする時の彼の顔はとても穏やかだったから、きっととても良いお付き合いをしていたのだと思う。
「えっ、何で別れたの?!」
「さあ。何でやろな」
「……何でやろな、って」
「強いて言うなら、価値観の違い、かな」
私がその報告を聞いた日、白石は珍しくショットでウイスキーを呷っていた。普段はこんな飲み方しないのに。俯き加減の彼にかける言葉が見つからない。
「はは。何で自分が泣きそうな顔してるん」
ふと顔を上げた白石は、私の顔を見て、困ったように笑った。私の涙腺が思わず緩んでしまったのは、彼の言う『価値観の違い』というやつに、私自身も心当たりがあったからだ。聡い白石は、きっとそんな私の心を読んでしまったのだろう、それ以上、彼が私に訊ねることはなかった。
私には学生時代から付き合っている恋人がいた。ただ、月日を経るたび、彼の見えている世界と私の見えている世界が静かに乖離していくのを感じた。当たり前といえば当たり前だ。お互い、全く違う環境で全く異なる仕事をして、新たな人脈が形成されて――乖離しないほうが不思議だ。お互いに嫌いなわけではないけれど、「ああ、この人とは違うのだな」と思うことが増え、その違いがある飽和量を超えたとき、お互いに気付きたくない現実に気付かされてしまった。私たちは、未来を一緒に過ごすことが、きっと難しいのだと。
白石と飲んだ日から1ヶ月も経たないうちに、私たちも別れを選択した。その時はなぜか実感もわかずに、まるで第三者としての自分が、恋人同士が別れる映画のシーンを見ているかのような感覚だった。別れについては、だいぶ前から心の準備ができていたからか、不思議と涙も出なかった。そういえばあの時、白石も泣いていなかった。もしかして、こういう感情だったのかな。
プライベートの時間を極力作らないように、仕事に没頭していたところ、日帰りで大阪出張が入り、Outlookのスケジュールに登録をした。大阪で出席する予定の会議には白石も出席することになっていたから、私が大阪に来ることを察知した彼から「店、予約入れとくで」とだけチャットがきた。それくらい、私たちにとってお互いの出張の都度飲みに行くことは当たり前になっていた。
そしていつものように飲みに行き、仕事の話を中心に盛り上がり。帰り、夜の大阪の街を二人で並んで歩いている時、彼に伝えた。
「……私も、白石が前言ってた『価値観の違い』ってやつ、わかった」
「――それって、」
「うん。お察しの通り」
なるべく、けろりと伝えたつもりだった。なのに、なぜか白石のほうが私よりずっと辛そうな顔をした。もしかして、彼女との別れを追体験させてしまったのだろうか。嫌なことを思い出させてしまったのだろうか。
「……ごめん」
「いや、謝る必要あれへんけど」
「――うん、」
「……苦しかったやんな」
同情でも何でもなく、彼の実体験を通して、ただただ私に寄り添って発されたその言葉に、私の張り詰めていた糸はプツンと切れてしまって。気づいたら視界が歪んで、ぽろぽろと頬を涙が伝っていく感覚がした。ああ、今まで気づかなかった。前から心の準備ができていたから涙も出ないんだ、と思っていたけれど。そうではなかった。単純に、心の奥底にある哀しさ、虚しさ、苦しさに対して蓋をして、見ないフリをしてきただけだったのだ。
白石との付き合いはもう長いけれど、泣いているところを見せたことはあっただろうか。いや、おそらく初めてだ。泣き顔を見られるのは恥ずかしい。
「……っ、ごめん、こんな場所で」
かろうじてそう伝える。夜であまり表情が見えないことと、周りにそんなに人気がないのがせめてもの救いだ。立ち止まって俯いている私は、白石の様子を窺うことができなかった。だから、彼が何を思ったのかはよくわからないのだが――次の瞬間、彼のフレグランスの香りが鼻をくすぐったかと思うと、なぜか私は彼の腕の中にいた。シャツ越しに彼の硬い胸板と、その奥から聴こえる鼓動を感じて、びっくりしすぎて涙が引っ込む。
「ホンマに自分、甘え下手やな。どうせ仕事量増やして思い出す時間なるべく作らんようにしとったんやろ」
「何でわかるの」
「アホ。俺ら知り合ってから何年経つ思てんねん。手に取るようにわかるで、そんなん」
「……」
「苦しい時、辛い時は、甘えなさい」
白石は私を抱きしめながら、ずっと私の髪を撫でてくれていた。彼はそれこそ子供のように泣き出した私を宥めるために、咄嗟にとった行動だったのかもしれない。が、それにより私は、急に目の前の白石が異性であるという、当たり前の事実に気づいてしまった。
その日は結局白石に新大阪駅まで送ってもらった。新大阪で別れる頃にはもちろん私の涙はすっかり止まっていて、改札の前で「じゃまたね」といつも通り笑顔で別れてきたのだが。
――きっと勘違いだろう。
頭ではそう思いたいのに、そう思いたいと思えば思うほど、逆に白石のことを意識してしまって。
どうしよう。親友だと思っていたのに。そして彼にとっても私は親友以外の何者でもないはずなのに。
*
『4/14(木)、東京出張入った』
『日帰り?』
『ああ。東京駅か品川駅付近で頼むわ』
会社のチャットでそんなやりとりをする。主語がなくてもわかる。私たちが飲みに行く店のロケーションのことだ。4月14日か。あれ。この日って。
『14日って白石の誕生日だよね?』
そうチャットを送ると、少し間を置いて返事が返ってくる。
『忘れてたわ。別に気つかわんでええよ。もう祝われる年でもないやろ』
『私はいくつになっても祝ってもらったら嬉しいよ』
『自分らしいな。すまん、次のMTGはじまる。またな』
そんなわけでチャットが強制終了したので、私はこっそり店の候補を検索し始めた。せっかくの誕生日だし、いつもよりちょっと良い店にしようかな。
白石との関わり方がよくわからなくなっていた。あの日白石を異性として意識してしまったけれど、もちろん白石から私への接し方は全く変わらない。一瞬抱きしめられただけで異性として意識してしまうなんて、中学生か。自分にツッコミを入れたくなる。
ただ、冷静に考えて、白石は現状、私の一番の理解者だった。別れた恋人に話せなかったことも、白石になら話せたし、彼は私のことをよく知っていて、的確なアドバイスをくれた。白石と話すのは楽しいし、気を遣わなくてよくて、とてもラクだった。だからこそ、白石との間に男女のソレを持ち込んで、この関係を壊したくない。
――やっぱり白石とは、親友でいよう。
異性としての感情を持ち込んだところで、彼は私のことなんて何とも思っていないのだから。今ならまだ、あの感情は無かったことにできるはず。
*
「お疲れさん」「お疲れさま」
乾杯と共に声が重なる。東京駅か品川駅近くというリクエストだったけれど、東京駅のほうが会社から近いので、今回は丸の内の良い感じのお店を予約した。
「やけにお洒落なとこ予約したなぁ」
「誕生日に新橋のガード下はちょっと違うかなと思って」
「気ぃ遣わせてもうたな。おおきに」
「あと、今日は私の奢りね!誕生祝い」
「ええの?ほな高い酒から注文せんと」
「うん、いいよ!」
「いや、ここはツッコむとこやろ」
そんな冗談を言いながら、私たちは仕事の話を中心に盛り上がった。
「今日、新幹線は最終?」
「そのつもり。――それより、なぁ、今日、飲むペース早ない?」
「え、そうかな?」
「無自覚なら尚更危険や。ストレス溜まってるんちゃう?」
確かに、恋人と別れてから仕事を詰め込みすぎたツケが回ってきて、今月は残業時間も多いけれど。心当たりがあるとしたら、今目の前の白石から気を逸らすのに必死だからかもしれない。異性として意識しないようにしようと思えば思うほど、パラドックス的に目の前の白石が異性に見えてきて、困っていた。
今まで恋人がいたから気づかなかったけれど、例えば道を歩いている時に私が自転車や通行人とぶつかりそうになったのを察知してサッと盾になってくれるところ、テーブルに座るときに椅子を引いて先に座らせてくれるところ、私が話すときにしっかり目を見てきちんと聞こうとしてくれるその姿勢、そのほか、ふとしたときに見せる彼の気遣いが嬉しかったし、異性としてかどうかは傍に置いても、大切に扱ってくれていたのだな、と改めて身に染みた。
質問に対し何も答えない私に、白石は問う。
「――それとも、まだ、忘れられへん?」
「えっ」
「……すまん、聞かんほうがよかったな」
「ううん、大丈夫。結構前から彼とは一緒にはいられないって分かってたから。『あーあ、終わっちゃったんだな』って喪失感はあったけど、それは彼に対しての未練ではないよ」
それは本心だった。私たちの関係が終わることは前からわかっていたのだ。なんとなく終わらせることが怖くて、惰性で長く付き合っていただけだ。
「そうか。それなら良かったわ」
「うん。白石は?その後どう?」
「俺の場合もう数ヶ月前やし、そんなこともあったなぁ、って遠い昔のことみたいや」
「そっか。白石ももう大丈夫なんだね」
「まあな」
「あ、もしかして、ちゃっかり新しい彼女できてたりして?」
「……アホ。さすがに自分の誕生日に付き合いたての彼女放って同期と飲みに行くような男ちゃうで」
「へー良い彼氏だね」
「こら。棒読みやめや」
私にとって朗報なんだか悲報なんだか正直わからなかった。白石に今彼女はいないらしい。けれど、それと同時に、彼女がいたとしたら、誕生日の夜に同期、つまり、私と飲みに行く男ではないと、彼は断言した。当たり前だけど、彼の中で私は『同期』『親友』というカテゴリの中にいて、きっと異性としては認識されていない。将来的に白石に新しい彼女ができたとき、私はそれを応援できるのだろうか。そこまで人間できてない。一瞬でも白石のことを異性として好きかもしれないと思ってしまった以上、嫉妬心が出てきてしまうだろう。未来が憂鬱だ。
「……あれ、白石、グラス空いてるけど、何か頼む?」
「これから大阪帰らなあかんし、もう飲まんでええよ」
「そう?私はもう一杯飲もうかな」
「ほんま、今日どないしたん?そんな酒強ないやろ。そろそろやめときなさい」
ドリンクのメニュー表を私の手からひょいと奪った白石は、少し戸惑ったような顔をしていた。改めて、本当に綺麗な顔してるな。親友でいたいのに、惑わせないでほしい。いや、勝手に惑っているのは私で、白石は何も悪くないのだけれど。
*
そうこうしているうちに時計の長針が12を通り過ぎた。もう夜9時過ぎだ。新大阪行きの最終の新幹線まで残り20分。
「今日はごちそうさせて」
「割り勘でええのに」
「じゃ、私の誕生日の時おごって」
「……わかった。ほなお言葉に甘えて」
テーブルで会計を済ませて、少し急ぎ足で東京駅へと向かう。とはいっても、白石一人ならその長い足であっという間に新幹線のホームに着いてしまうのだろうけど。一応私も改札までは毎回見送りに行っているので、私の歩く速さに合わせてもらっている。
お酒をいつもよりたくさん飲んだ後に早歩きという運動をしているからだろうか、それとも残業が多くて疲れているからだろうか。頭がくらくらして、胃が熱くなっていることに、気づかないふりをしていたが、そのふりも少し苦しくなってきた。悪酔いするなんて珍しい。いつもは大体楽しくなって眠くなるだけなのに。
ただ、これから新幹線に乗る白石に迷惑をかけたくない。――白石を見送った後、ちょっと休憩しよう。そんなことを心の中で密かに決意している時だった。
「……休もか」
「え?」
「顔、青い。悪酔いしとるやろ」
「大丈夫。新幹線間に合わなくなっちゃうし、何なら先に行ってて!今日は見送れなくてごめん」
「ホンマに甘え下手やな。前にも言うたけど」
「だって、白石、帰れなくなるよ?明日は大阪のオフィスに出社でしょ?」
「始発の新幹線乗ればそのまま一回家帰って出社できるから。明日も平日やし、宿も空いてるはずや」
「じゃ、宿泊代出すね……ごめんね……」
「要らん。その代わり後でちゃんと理由聞かせてや」
「?」
「何でそないなるまで飲んだん?――今は気持ち悪いやろうから、答えんでええよ。とりあえず休めるとこ行こ」
そのまま、東京駅とは反対方向に踵を返し、夜の丸の内を歩く。皇居ランをしている人がたくさんいる。気持ちよさそうでいいな。私は、今、お酒を飲みすぎて最高に気持ち悪いけど。
辿り着いたのは皇居脇の公園だった。白石は自販機でペットボトルの水を買ってきてくれて、そのままそれをベンチに座っている私に手渡す。ちらりと腕時計を確認したら、もう9時半を回っていた。新幹線、行っちゃったね。本当にごめん、白石。
白石がベンチの隣に腰掛けると、思ったより距離が近かった。初春の夜風が気持ち良い。お水を飲んだのもあって、少しずつ酔いが覚めてくる。
「……ごめんね、誕生日の夜なのに、酔っ払いの介抱させちゃって」
「こんなん可愛いもんや。ただ、自分らしないなとは思う。俺の知らんとこで『酒飲まんとやってられへん』みたいなことあったん?」
白石は単純に同期として心配してくれているのだろう。それはわかる。ただ、同時に『酒飲まんとやってられへん』になったのは白石のせいだ。あんまり優しくしないでほしい。もう、酔っていることにして、正直に言ってしまおうか。最悪、酔って記憶を失ったことにして、なかったことにできそうだし。
「……白石が、優しいから」
「は」
「男女の友情は成立する派だったのに、寝返りそう。でも気まずくなりたくない。白石とは一生仲良くしてたいのに、こんな感情持ち込みたくない」
「――」
「だから、お酒飲みまくって、ごまかそうと思ったの」
言った。言ってやった。
心臓の音が煩いけれど、なんだか回り回って達成感でいっぱいだ。ただ、白石の顔が見れなくて、俯いたまま顔が上げられない。白石はどんな顔しているんだろう。困らせたかな。
「……嘘やろ」
隣から聞こえてきたその呟きが、私の心臓を抉る。そうだよね、ただの親友からこんなこと突然言われたら困るよね。
「……ごめん、忘れて」
「いや、逆。自分、めっちゃ愉快に『新しい彼女できてたりして』とか聞いてくるし、脈ゼロや思っててんけど」
「え」
ゆっくり顔を上げると、いつも余裕そうな表情しかしない白石が、珍しく目に見えて照れていたから驚いた。
「俺にとって、異性の親友は、今までの人生で自分だけやねん。自慢ちゃうけど、大体女の子は俺のこと恋愛対象として見てくるから『親友』にはなれへんかった。唯一、自分は、俺のこと同期として性別関係なく対等に見てくれた。せやから俺らの間には友情が成立してるって思ったし、これからもそうなんやろなって思っとった」
「……うん」
「せやけど、前の彼女から別れよ言われて気づいてん。彼女には言われへんかったことも自分には話せてたし、彼女とおるより自分とおるほうがラクやったし――そう思ったら、俺にとってホンマに大事な女の子はどっちやねん思て。ほんなら急に自分のことが、異性として見えてきてもうた」
そう語りながら私に向けられる白石の視線はどことなく熱くて、相変わらず私の心臓は落ち着かない。もしかして私たち、この数ヶ月、同じ気持ちだったのか。お互いがお互いを異性として気になってしまって、でも友情を壊したくなくて、お互いに気持ちを隠していたのか。
「誕生日の夜に、彼女いたら同期とは飲まないって言われたから、私こそ本当に脈ないなと思ったのに」
「……そっちの意味でとったんか」
「?」
「誕生日の夜に一緒に飲みに行く相手は、それだけ特別やっちゅう意味で言ってんけど、日本語は難しいわ。元々この気持ちは墓場まで持ってくつもりやったし、はっきり言えへんかった俺も俺やけど」
結果オーライとはこういうことなのか。私たちは気持ちが通じ合ってしまった。酔いもほとんど覚めた。
「……白石のこと好きなんだけど、一生親友でいたい気持ちもある。付き合ったら、いつか別れた時に、親友っていう関係もなくなっちゃうのかな」
「……どないやろ。その状況になってみないことには何とも言えへんけど、とりあえず一生別れなければええんちゃう」
「?!」
えっ、何か今さらっとすごいことを言われた気がする。
「20代ももうすぐ終わるし、付き合うんやったら、俺は将来までちゃんと見据えてのつもりやけど」
「……うん。私もそれは同じだよ」
「ほんなら、問題ないな」
白石はそう言うと、改まった声で「麻衣」と私の名を紡ぐ。何度も呼ばれ慣れているはずなのに、胸が震える。だって、そんな愛おしそうに呼ばれたのは、初めてだ。
「結婚を前提に、付き合ってください」
ゆっくりと首を縦に振ると、白石はそんな私を大切なものを見るような目で見つめながら笑って、そのまま私の前髪を手でかき分けると、額にキスを落とした。
Fin.
2022.4.14
白石くんお誕生日おめでとう!