二年生の終業式の日、手塚くんが私のことを好きだと言ってくれたときは、まるで、夢でも見ているんじゃないかと思った。眉目秀麗、頭脳明晰、そしてスポーツ万能。まさに才色兼備の手塚くんは私にとっては遠い存在だった。手塚くんに恋をしてしまった自分に、なんて私は無謀な恋をしているんだろう、と思うこともあった。でも。
「好きだ、支倉。もしよかったら、俺と付き合ってほしい」
その真剣な瞳と飾らないストレートな言葉から手塚くんの想いが伝わってきて、私はもう頷くしかなかった。
そして、手塚くんと私は三年生、そして、恋人同士になった。
『麻衣、本当にすまない』
「ううん、大丈夫だよ。私、手塚くんが忙しいのわかってるし、気にしないで」
電話の向こうの手塚くんの声から本当に申し訳ないという気持ちが伝わってきて、私は、手塚くんって本当に真っ直ぐな人だなぁ、と思わず微笑んでしまった。生徒会長とテニス部部長を兼任する手塚くんはいつも忙しい。今日はテニス部が休みだから一緒に帰る約束をしていたけれど、生徒会の仕事が急に入ってしまったらしい。こういうことは別にはじめてではないから慣れっこだ。
『……いつも、申し訳ないな』
「生徒会の仕事だもん、手塚くんのせいじゃないでしょ?だから気にしないで、お仕事、頑張ってね」
『……ああ』
じゃあまた、と電話を切る。慣れっこだからといってさびしくないわけはない。一人で歩く帰り道はなんだか長かった。
それから少し経って、衣替えの頃、半袖のセーラーを着た私は、同じく半袖のカッターシャツを着た手塚くんと、はじめてキスをした。私にとってはこれがファーストキスだったのだけれど、ファーストキスにしては随分と大人なキスだったように思う。そして、恋人同士の甘い言葉としてはオーソドックスなものだけれど、私は思わず、こんなことを口にしていた。
「手塚くん」
「……何だ」
「………ずっと、そばにいてね」
「ああ。勿論だ」
滅多に笑わない手塚くんが、ひどく穏やかな表情をしていて、キスよりも、その微笑みに私の胸は高鳴った。そして、その日から私は手塚くんのことを二人きりのときだけは「国光」と呼ぶようになった。
しかし、その約束が破られるのは思いのほか早かった。
「すまない」
「……どうして謝るの?怪我を治すためなんだよ?それなら私はむしろ背中押すよ。行かなきゃだめ」
彼は、この前の大会で左腕を痛めてしまった。その怪我を治すためには九州にある病院に行かなければいけないらしい。九州なんて同じ日本だ。電話だってメールだってできるのだ。そして、少し我慢すれば帰ってくるんだから。
「私のことは気にしないで。行ってらっしゃい、国光」
笑顔で送り出す。泣いちゃいけない。
逆光でよく見えなかったけれど、国光のほうが切ないような顔をしていたのは気のせい?
意外に早く国光は九州から帰ってきた。国光が九州に行っていたことがまるで幻だったかのように、私達はいっしょに帰ったり、テスト勉強をしたりと元通りの生活に戻った。しかし私の第六感は何かを感じ取っていた。国光は、何か大きな決意をしている。そして、この元通りの生活も終わりが来てしまうと。
そして、こういうことだけは、よく当たるのだ。
「卒業したら、プロのテニスプレイヤーになるためにドイツへ行こうと思っている」
そう打ち明けられたのは全国大会の前日。本番は会場まで応援しに行くことができないから、前日に時間を作ってもらって二人で会った。また、私のそばから彼はいなくなるのだ。今回に限っては、生徒会でも部活でも怪我の治療でも何でもなく、はじめて彼が自分の意思で決めたことが理由だ。私は何も言えず、ただ「うん、わかった」くらいしか返す言葉がなかった。
光陰矢のごとし。あっという間に季節は過ぎ去り、卒業を迎えた私達には別れの日が迫っていた。春の日差しを浴びながら、私達は人気の少ない散歩道を歩く。
「三日後だっけ?飛行機」
「ああ」
「……気をつけてね」
「ありがとう――そして、本当にすまない」
「もう、どうして謝るの?ドイツ行きは夢を叶えるためなんでしょ?」
「……前に、『そばにいて』とお前は言っていたのに、俺は全然お前のそばにいてやれていないな」
そんな昔のことを、国光が覚えていてくれていたなんて思わなかった。
「私のことなら気にしないで」
「その、『気にしないで』という言葉を、もう言わせたくないんだ」
「……それを言うなら私も国光に『すまない』なんて言わせたくない」
お互い目を合わせてため息をついてしまう。私達の考えることはどうせ同じなのだ。
「――必ず戻ると約束する」
「ストップ」
「?」
「私、もう国光に『すまない』って言わせたくないの。だから、守れない約束はしないで」
国光は驚いたのか、目を見開いた。
「きっとこれでいい区切りだと思う。国光はドイツに行ってテニスをして、私は日本で普通に高校生活を送って、別々の人生を歩んでいくの――私、さすがにドイツと日本で遠距離できる自信はないよ」
本当はいつだってそばにいてほしいのに。でも私は彼を引きとめることはできない。彼は日本国内で燻っているような人間ではないのだ。私ははじめて国光からドイツ行きの話を聞いたあの夏の日に決心した。卒業したら、彼とは離れようと。
「………わかった」
彼の低い声が、そう告げた途端。
つんとした痛みが鼻の奥をついたかと思うと急に息がしにくくなった。うつむいた私の目からは自分でもびっくりしてしまうくらい、ぽたぽたぽたと涙が落ちて、足もとのコンクリートが、そこだけ雨が降ったみたいに色を変える。
好き。好き。好き。離れたくない。
口には出して言えない本音が、代わりに涙として出てきてしまっているようだ。ああ、こんなところでこんなに泣いてしまったら国光を困らせてしまう。
「――守れる約束ならしてもいいんだな」
突然目の前が暗くなったかと思うと、私は国光に抱き締められていた。
「もう一度言う。麻衣」
名前を呼ばれたかと思えば。
「必ず戻る」
その言葉が、私の全身に沁みわたる。だから待っていてくれないか、と彼の声が耳元で聞こえた時には、すでに私は彼の背中に腕を回していた。なんて弱い意志。本当は今日で彼と離れようと思っていたのに。
いや、違う。
むしろ、離れようとしていた私のほうがどうかしてたのかもしれない。
離れられるわけないのに。どうしてお互い好きなのに離れようだなんてばかなことを考えたんだろう。
「………待ってる」
やっとの思いで言葉を紡ぎ出す。
その言葉を確認した国光は、少しかがんで私と視線の高さを合わせると、そのままとてもやさしいキスをした。
Fin.
2009.3.16
企画「SeigakuVictoryForever」さまに提出させていただきました!
素敵な企画をありがとうございました。