中学に入学してから三回目の夏が過ぎ、俺は部活を引退した。
これからは受験勉強の日々だ。青学はエスカレーター式に進学できるとはいっても、あまりに成績不良だと補習になってしまう。俺の成績は特に悪いわけでもなく、むしろ自分で言うのもなんだが、かなりの上位に位置してるとは思う。しかし、過保護かつ子供の教育に熱心な母親は、三年の秋から、俺に家庭教師をつけた。それが、支倉先生だった。
支倉先生は誰もが一度は名前の聞いたことがある名門国立大の一年生だった。家庭教師との契約は、俺は全く関与せず母親が一切を取り仕切っていたから、俺は先生がはじめて来るまで、先生の性別すらも知らなかった。はじめて先生が家に来た日、家庭教師というくらいだからそこそこ年を重ねた男がやってくるのかと思いきや、俺とそんなに歳の変わらない若い女がやってきて、俺は何かで頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
「海堂薫くんですよね。支倉麻衣です。よろしくお願いします」
最初は、こんな女が俺の家庭教師なのかと思うと、正直嫌だった。しかし、母親に言わせるとこの支倉先生とやらは家庭教師斡旋会社が特におすすめしている人材だったそうだ。俺も彼女の指導を受けて感じたのは、まず、彼女自身が頭が良いということだ。頭の回転が速く、教え方もうまい。彼女の指導のおかげで、二学期の期末試験では学年十位以内に入ることができた。また、彼女は、五つしか年は変わらないけれど、さまざまな面で無駄に濃い化粧でギャーギャーうるさいだけの同い年の女とは違っていて新鮮だった。気づけば、俺は彼女を尊敬していたし、もっと特別な目で見るようになっていた。だからといって何か見返りを求めているわけではなく、ただ、彼女に週一回、金曜日に会えるだけで、俺は十分だった。
「…わぁ、海堂くん、すごいじゃない!学年四位!」
支倉先生は、期末試験の順位表を見て、素直に喜んでいた。その笑顔は、まるで無邪気な子供みたいで、年上の彼女には似つかわしくなかったけれど、何故だかその顔を見ると自分まで穏やかな気分になってしまうから不思議だ。
「青学でこんなにいい成績とれてるなら、私が教えることもなくなっちゃうわ」
「……まだまだっスよ。上に三人もいる」
「さすが海堂くんね、すごい向学心。その気持ちで入試に臨んだらトップ合格もきっと狙えるよ」
先生は目を細くして微笑んだ。その微笑みは妙に大人びていて、さっきの笑顔との違いに驚く。不覚にも、とても綺麗だと思った。
「じゃあ、トップ合格目指して今日はコレやってもらいましょうか」
支倉先生は自分のカバンから新しい数学の問題集を取り出した。これは見たことがあった。一年前、手塚部長と大石先輩が部活の後に広げていたものだ。あの二人が使用する問題集なら難易度の想像もついてしまい、少し気持ちが折れそうになった。
「マジっスか」
「うん。この問題集のレベルは最高レベルだけど、今の海堂くんならきっと解ける!というわけで、ここのページの問一と問二、合わせて三十分で解答してね。私、腕時計で測ってるから」
スタート、という合図とともに、俺はシャープペンを握った。先生は俺の隣に座って、ずっと俺の手元を見ている。最初はなんだか視線を感じて落ち着かなかったが、今では彼女がこうして俺の計算を一行ずつ見て後からアドバイスをくれることをわかっているから、気にせず解くことができる。
しかし、今日の彼女の発言には度肝を抜かれた。俺が問二の最後のほうに差し掛かったころ、彼女は呟いた。
「――海堂くんの指ってすごくきれい」
「?!」
「あ、ごめんね、変なこと言って!気にしないで解いてていいから」
俺は、先生はてっきり計算手順を見ているものだとばかり思っていたが、まさか指を見られていたとは思わなかった。恥ずかしくなってきて、右手が熱い。思わずシャープペンを持つ指に力が入って、芯がボキッという音をたてて折れた。ふと横目で先生を見ると、うっすらと頬が赤くなっていて、とても焦っている様子だった。仮にも教師と生徒という関係なのに、そんな反応をされると動揺してしまう。
最後のほうは、自分でも自分で書いた計算式を理解してはいなかった。頭の中は、彼女のさっきの呟き、そして桜色の頬でいっぱいになっていてどうしようもない。三十分の時の経過を先生が告げ、答え合わせをすると、やはり問二の最後の二行で簡単な計算ミスをしていた。
「………計算ミスなんて海堂くんらしくないね」
そう言ってのける支倉先生に、「アンタが動揺させるからだ」とつっこんでやれたらどれだけスッキリしただろうか。無論、そんなことは実際には言えるはずもなかった。すると意外なことに、彼女からこんなことを言い出した。
「私が問題解いてるときに変なこと言っちゃったからだよね。ごめんなさい。いつもなんとなく思ってたんだけど、口につい出ちゃった……」
「『いつも』って……?」
そうつっこんでみると、先生はさらに動揺したのか、手を無駄にぶんぶんと動かして慌てていた。
「あ、いや、うん、あのね?私ってほら、指もそんな長くないし、こんな手だから、すらっとした海堂くんの指がきれいだなぁって思って……あはは、ね、この話やめよう?それで問一のここの計算なんだけど……」
先生は話をうまくごまかそうとして、俺のルーズリーフに残された問一の計算を指さす。その人差し指のほうが俺の指なんかよりずっと華奢で綺麗だと思った。
「先生の指のほうが、俺は綺麗だと思いますけど」
呟くと、先生は、しばしの沈黙を挟んでから、ありがとう海堂くん、と消え入りそうなくらい小さな声でお礼を言った。いつもの余裕ある支倉先生の面影はどこにもなくて、はじめて俺はこの人のことをかわいいと思った。そしてかわいいこの人を自分のものにしてしまいたいという欲までもが生まれてしまうから、厄介なものだと思う。
ああ。
俺は、支倉先生が好きだ。
*
青春学園高等部入試まであと一週間。今日は、入試前の最後の指導となった。午後七時から九時までの二時間の指導はあっという間だった。例の日の指導から、先生と俺の間の会話は減ったが、目が合う回数が多くなった。その度に先生は、恥ずかしげに斜め下に視線をそらす。
お互い言葉にはしないが、きっと、心の中ではその気持ちが通じていたと思う。しかし、彼女のその笑顔の裏に翳りがあることを、俺は薄々感づいていた。
指導が終わって、先生といっしょに居間へ行き、母親が先生と言葉を交わす。
「先生、うちの薫はどうでしょうか」
「お母様、海堂くんは全然心配ないですよ。成績も右肩上がりですし」
「支倉先生のおかげですね」
「いえ。海堂くんが努力しているからです」
「そんなことはありません。薫が本当に今までお世話になりました」
つまらないものですが――そう母親が差し出したのは菓子折りだった。会話から察したところ、もしかして今日で先生の指導は最後なのだろうか。そんな話は聞いていない。自分の心臓が速くなるのを感じた。先生は、最初は菓子折りを受け取るのを遠慮していたが、母親の押しが強かったのか、最後には本当にありがとうございますと礼を述べて、それを受け取った。
「薫、今日で最後なんだから、ちゃんと玄関先まで先生をお見送りしなさいね」
その言葉で、疑いは現実のものとなった。先生はバツが悪そうに、そして、泣きそうな顔で俺を見つめた。言わないでいてごめんね、と、そんな声が聞こえてくるような気がした。
玄関を出て、家の門のところまで先生を送る。玄関から門まではそんなに長い距離ではないが、それでも先生とこうして外で並んで歩いたのははじめてだった。いつもはお互いに座っていたから気付かなかったが、先生は思ったよりも小さく、華奢だった。家を一歩外に出れば、「先生」という肩書の取れた彼女はまだハタチにも満たない大学生で、一年前までは高校の制服を着ていたのだ。確かに同い年の女よりはずっと見た目も精神的にも大人だけれども、それでもあのたまに見せる子供のような笑顔の理由もわかった気がした。
「海堂くん」
「……先生」
「今までありがとうね。海堂くんの指導は毎週楽しかった」
先生は何かを吹っ切ったかのように、すっきりとした声で言った。
「それじゃあ、海堂くん、受験頑張ってね!おやすみなさい」
小さく手を振ったかと思えば、先生は踵を返した。ブーツのヒールのコツコツという音がどんどん遠ざかるのを聞いたまま、俺はその場に立ちつくしていた。俺は、先生の家も知らなければ、メールアドレスも、携帯の番号も、何も知らない。先生について知っていることといえば、彼女の名前と、彼女が大学一年であるということ、そして、あまり感情が表に出ない俺とは正反対に、くるくるくるくると表情を変えるということぐらいだ。今彼女と離れれば、もう一生会えないのかもしれない。
俺は、駆け出した。
そして、彼女の手首を掴む。
想像以上に華奢なその手首は、俺の握力で折れてしまいそうだった。
「……か、海堂くん?」
「………送っていきます」
目を丸くして驚いた彼女は、次の瞬間、眉を下げて、困ったように微笑んだ。
彼女の家は俺の自宅から徒歩十分程度の距離にあるマンションだった。明らかにそれがファミリー向けの分譲マンションであることから、俺ははじめて彼女が自宅生だということを知った。マンションの下に辿りつくまで、俺達の間に会話はなかった。冬の乾燥した空気が冷たい。
「海堂くん、送ってありがとう。ウチ、ココなんだ」
「先生」
「何?」
「言わなくてもわかってると思うんですけど」
「……うん」
彼女は、そう肯定の返事だけをした。
「でも、私は海堂くんの先生だから」
「今日でそれは終わりなんでしょう」
「……それはそうだけど」
「なら、アンタは俺にとってただの四歳年上の女でしかないんだ」
彼女の心の揺れが、見えた。控え目なグロスを塗った唇が、動く。
「……そのとおりだよ。でも、海堂くんにとっては年上でもの珍しく見えるかもしれないけど、私はただの学生で、ついこの間までは高校生だった。化粧だって大学に入ってから覚えたし、頑張って背伸びはしているけれど、中身は中学どころか、小学校の頃と比べてもそう変わってない。――ねぇ海堂くん、きっとあなたは、私ではなく年上の女性という存在に憧れているだけなの。違うかな?」
俺が、年上の女に憧れている?確かに最初は、周りにいる女たちとは雰囲気が全然違って、確かに大人だと思った。しかし、毎週毎週会話を重ねていくにつれて、この人はまるで俺よりもずっと子供みたいに笑うし、はしゃぐ。そのギャップに翻弄された。そして、そのすべてを自分のものにしたいと思った。この気持ちは憧れなんて綺麗な言葉で片付けられるものじゃない。もっと強かで貪欲な。
それじゃあまたどこかで、と去っていく彼女の腕を強引につかみ、俺は自分の腕の中に引き寄せる。
「馬鹿か」
「……な、」
「そんな綺麗なもんじゃねぇ」
前に指がきれいだとほめられたことがあるが、そんなことを言われるよりもずっとずっと前から、俺は先生のことが、
「―――好きだ」
「っ」
「年上とかそんなのどうでもいい。俺は『支倉麻衣』が好きだ。先生も、俺を生徒としてじゃなくいい加減素直に『海堂薫』として認識したらどうなんだよ」
腕の中にいる彼女に、思いの丈をぶつける。意外にも彼女からは強気な反応が返ってきた。彼女は俺の胸を押し返して、俺の腕の中からするりと脱出すると、はじめて怒りに近い感情を俺の前で見せた。
「そんなこと、とっくに認識してるわよ!そうじゃなかったら悪いけど四つも年下の男の子好きになんてなんないわよ!女子大生が中学生を本気で好きになるなんて、正直考えられないじゃない」
「……」
「でも………海堂くんのばか……なんでこんな魅力的なのよ」
一体、ほめられてるんだか、けなされてるんだか。
先生という肩書のとれた彼女は、想像していたよりずっとわがままで、そして、かわいい人だった。徐々に彼女の声はトーンダウンして、最終的には、俺がもう一度彼女を腕の中に収めると、静かに体重を預けてそして小さな声で、私も好きよ、と呟いた。その瞬間、世界中の動きが止まった気がした。
いつまでそうしていただろうか。不意に彼女は俺から離れると、ポケットから小さなメモを取り出した。
「本当は今日ずっと渡そうと思って、今まで渡せてなかったんだけど」
それを俺のコートのポケットの中に入れると、じゃあ受験頑張ってね、と笑顔を残して彼女はマンションの中へと消えていった。呼びとめた時にはもう遅く、彼女はオートロックの入口の内側へと入ってしまっていた。舌打ちしながら、ポケットに入れられたメモを取り出す。開くと、そこには彼女の整った字で、携帯の番号らしき数字の羅列が書かれていた。
俺たちは、これからも繋がっていける。
そう確信した冬の夜だった。
Fin.
2009.2.17