月曜の朝は憂鬱なはずなのに、彼女が隣にいるだけでそんな気持ちもどこかへ吹き飛んでいく。アラームが鳴る前に目覚めた俺は、まだ夢の世界にいる彼女の髪を撫でた。昨夜はあんなに扇情的な表情を見せてくれたというのに、今の彼女の寝顔はまるで赤子のようだ。
「麻衣、朝やで」
「……んーもうちょっと」
「もうちょっとやない。女の子は朝の準備に時間かかるやろ?」
そう彼女を起こすと、彼女は少しだけ不機嫌そうに眉を寄せた。絶対俺しか見れん顔やな。そんな不機嫌な顔も可愛いと思ってしまうから、人生惚れたモン負けや、という真言は正しい。
「……起きる」
「ん。ええ子や。朝、喫茶店行くんやろ。準備しよ」
「うん、行く……」
既に俺は上半身を起こしていたが、彼女もやっとのそのそと身体を起こし始めた。彼女が家に来るたびにパジャマ代わりに貸している俺のTシャツとハーフパンツは、やはり彼女が着るとサイズが合っていない。オーバーサイズの服からのぞく白い首元や、なめらかな曲線で描かれた脚を目にすると、朝には似つかわしくない欲が頭をよぎる。
――いやいや、普通に今日はこれから仕事やで。
こっそり両手で両頬を挟むようにパシンと軽く叩いて煩悩を飛ばすと、その音に驚いたのか彼女はさっきまで微睡んでいた瞼をぱちくりと上げて、不思議そうに俺を見つめた。
*
「いつも思うけど、歩いて会社に行けるのって良いよね」
「少し距離あるけどな」
なるべく通勤電車に乗りたくなくて、会社から3駅程度のところに家を借りた。早起きすれば徒歩でも通っても良いかと思える範囲内だ。彼女とは違う会社で働いているが、会社の最寄駅は同じだ。彼女が俺の家から出社する時は、いつも二人で早起きをして歩いて通勤することにしている。
そんな中、先日彼女と徒歩通勤していたとき、いつもと1本違う道を歩いていたら、とても良い感じの喫茶店を見つけた。カフェではなく、昭和レトロな『喫茶店』だ。どうやら早朝から開店しているらしく、店先には「モーニングサービス 11時まで」と看板が出ている。それを見かけた彼女は「今度、蔵と行ってみたいなあ」と可愛いことを言ったので、もちろん断る理由もなく、俺は頷いたのだった。
「着いたね、この前の喫茶店」
「ああ。ほな入ろか」
ドアを開けるとカラカランと鐘のなる音がした。気持ちの良いクラシックのBGMに、珈琲の薫りが鼻をくすぐる。白髪混じりの上品な紳士――おそらくこの店のマスターだろう――が、穏やかな笑顔と声で「いらっしゃいませ。お好きな席へ」と言う。それだけで、とても上質な朝を過ごせているような気がした。隣にいる彼女も幸せそうだ。
奥の方のボックス席に座ってメニューを見る。11時までは例のモーニングサービスで、飲み物を1つ頼むと、トーストとゆで卵とミニサラダがついてくるらしい。俺達以外には常連と思われる男性がカウンターで黙々と新聞を読んでいるだけだった。
「俺はコーヒーにするわ」
「うん。私も」
ちょうどメニューが決まった頃、マスターは席へ注文を取りに来てくれた。コーヒーを2つ、と告げると、マスターは軽く頭を下げてカウンターの中へと戻っていく。
そして、10数分ほど経ったのだろうか。俺達がなんてことない日常会話を楽しんでいると、遠くから再び珈琲の良い薫りがしてきた。いよいよだ。
目の前に運ばれてきた、2つずつのコーヒーカップとトースト、ゆで卵に、ミニサラダ。どれもこれも美味しそうで、本当にコーヒー1杯分の金額で良いのかと店の利益が心配になる。
「「いただきます」」
まずはコーヒーに口をつける。一口飲んですぐにわかる、これは美味しい。トーストに使われているパンも安物ではなく、ゆで卵の茹で具合も固すぎず、サラダの野菜も新鮮だった。近所にこんな良い店があったとは。
彼女も同じような感想を持っているようだ。言葉は発さなくても、もうそれなりに長い付き合いだ、その綻んだ顔を見れば彼女が考えていることは手にとるようにわかる。
*
「素敵なお店だったね」
店を後にして、会社の方向へ歩きながら、隣の彼女は言う。
「せやな。毎日通いたいわ」
「えっ、蔵だけずるい。いいなぁ」
子供のように口を尖らせた彼女が、素直で愛らしい。彼女の家は、もっと郊外にある。なかなか彼女があの店に通うのは難しいだろう。
ふと、妙案が思いついた。が、今このタイミングで伝えると冗談に取られてしまいそうだ。
「さっきから黙っちゃってどうしたの?」
「あーすまん。ぼーっとしとった。さっきの店でリラックスしすぎたみたいやわ」
「確かに、ほんとに気持ち良い空間だったよね」
うまく誤魔化せたようで、彼女は隣で微笑んでいる。彼女と一緒に毎日あの店に通うには――付き合ってからもう1年以上経つし、そろそろ――。今日は確か会議もそんなに入っておらず、いつもより早く帰れそうな気がする。まずは合鍵を作りに行かなあかんな。密かにそう決意した。
Fin.
2021.12.17