22時を超えると深夜残業になってしまうというのに、私は今日中に終わらせなければいけないプレゼン資料が完成しておらず、未だにデスクで唸っていた。というのも、夕方17時からの会議で急遽明日の朝9時からはじまる部長会に持ち込む議題が出てきてしまって。プレゼン資料を作り始めたのがもはや本日18時過ぎ。そこから格闘すること4時間。パワーポイントのスライドは30ページ超。なかなかの力作に仕上がっている。
オフィスを見渡してみると、さすがにほとんどの社員が帰宅していて、がらんとしている。でも、基本的には管理職にならないとオフィスの最終施錠ができないから、誰かしらは残っているはずだ。というか、そうでないと私が困る。私のような20代一般社員では、まだオフィスの最終施錠ができない。
どの部署の誰がこの時間まで残っていて、その人がいつごろ帰る予定なのか、目途を知りたい。その人の帰る時間までに私はパワポを仕上げて、チームの共有フォルダに格納しておかなくちゃ。久しぶりに自席から立ち上がって、フロアの中で残っている人を探すと、その唯一の人はわりとすぐに見つかった。同じ部署の先輩、白石さんだ。でも、あれ、白石さんも仕事はめちゃくちゃできるけど、さすがにまだ20代後半、うちの会社では管理職になる年齢ではない。
「白石さん」
「あれ、支倉さん、まだ残っとったん?」
デスクでモニターに向き合っていた白石さんに声をかけると、律儀に白石さんは椅子から立ち上がろうとするから、そんな彼に「座っててください…!」と慌てて声をかけて、座っていてもらうことにした。
「17時の会議で急遽明日の部長会の議題追加で資料作ることになっちゃって……」
「そらまたえぐい展開やったな。ご愁傷様。飯は?食べた?」
「いえ……オフィスグリコでお菓子買ったくらいで……」
「ほな、これ食べや。ま、コンビニ飯やし俺の残りで悪いけど、お菓子よりはええんちゃう」
白石さんはデスクの上に1つだけ残っていた未開封のコンビニのおにぎりを手渡してくれた。
「あ、ありがとうございます。ところで白石さん、」
「ん?何?」
「今日、もう残ってるの白石さんと私だけみたいなんですけど、最終施錠どうしましょう?」
「あー最終施錠な。俺やるから大丈夫や。人事と交渉して特別に権限つけてもらってん」
「えっ、そんなことできるんですか」
「ホンマはあんまりあかんのやろうけどな。今日は何時までおる予定なん?」
「もう少しで終わりそうなので、22時半過ぎには帰りたいなと……」
「ほな、俺も今日はそこまでにしとこかな。さすがに疲れたわ」
「白石さんは、毎日残業ですか?」
「まあな。定時内に仕事終わらせられへんのは無駄多い証拠や。恥ずかしいわ」
「いや、そんなこと……白石さん、色んなプロジェクトに引っ張りだこだから……」
白石さんはとても優秀だからこそ、色んなプロジェクトに声をかけられしまい、社内でも重要なプロジェクトを複数担当していた。普通だったらこんな仕事量、どれだけ残業してもこなせないはずなのに、白石さんはそんな苦労を顔にはみじんも出さずに、いつもスマートに成果を出している。年齢は3才くらいしか離れていないのに、あまりに白石さんがミスターパーフェクトすぎて、3年後こんなふうになっている自分が想像できない。
白石さんも私も若手と呼ばれる年次なので、よく2人で部の飲み会の幹事を任されたりもしていたし、チームは違えど、共通する事務については白石さんに教えてもらうことも多かった。そんな中で、私は白石さんに、先輩としての憧れの気持ちとは別に、異性としての憧れの気持ちも持ってしまっていた。もちろん伝える気持ちはない。そもそも、こんなにかっこいい白石さんに彼女がいないわけないだろうし。告白して振られたとしたら、今後の仕事がやりにくすぎるし。
白石さんと同じ空間で仕事をできるだけで、こんなふうに言葉を交わせるだけで、十分幸せ。同期には「早く彼氏作りなよ」なんて言われるし、実際違う部署の同期の男子からはこの前告白されたけど、やっぱり私が好きな人は白石さんなので、断ってしまった。
白石さんは私のセリフに対しては何も言い訳せずに、「資料作り、終わったら声かけてや」と優しい声で言ってくれたから、私は自席に戻って最後の仕上げをする。さっき白石さんから頂いたコンビニのおにぎりを片手に、誤字脱字をチェックして、フォントを整えて、チームの共有フォルダにパスワードをかけて格納。上司をTOに入れて、保存場所をお知らせするメールも送って。よし、これでOK!
「…終わったぁーーー!」
「お疲れさん」
「あっ、すみません、思わず……」
自席で思わず叫んでしまった声は白石さんに届いていたようで、白石さんは笑っていた。恥ずかしい。
「俺ももうすぐ終わるから、先に帰る準備しててくれへん?」
「はい!」
そんな指示を受け、急いで勤怠を締めてPCの電源を切り、デスクをキレイにする。うん、忘れ物もないし、引き出しの鍵もかけたし、大丈夫。帰り支度の整った状態で白石さんのデスクへ再度向かうと、白石さんもちょうどPCの電源を落としているところだった。
「白石さんも帰れそうで良かったです」
「まぁ、強制終了ってやつやな。どっかでケリつけんと永遠に終わらへん。ところで支倉さん」
「はい?」
「おにぎり美味かった?」
「は、はい、美味しかったです…けど」
「せやんな。ごはん粒ついてんで」
え?!めっちゃ恥ずかしい!!でも海苔じゃないだけまだマシなのかな?!そんなことを一瞬考えている間に白石さんの指が私の頬に伸びてきて、ついていたごはん粒をすくうと、まるでそれが当たり前です、という顔でパクリと食べてしまった。あの、そういうのって恋人同士とかでやることでは?!私自身はとても動揺しているというのに、白石さんは何事もなかったかのように話を続ける。
「せや、今日俺車通勤やねんけど、支倉さん、家の方向大体いっしょやろ。乗ってくか?」
「えっ、いいんですか?」
「支倉さんの最寄駅、俺の帰り道の途中やし。遠慮せんでええよ」
憧れの白石さんに、白石さんの車で、家まで送ってもらえる?!こんなラッキーなことが起きて良いのだろうか。残業、頑張って良かった。それに、23時近くに電車に揺られて帰るより、助手席に乗せてもらえるほうが、単純に身体の負担も少ないし。
「では、お言葉に甘えて、お願いします」
「ん。代わりに最終施錠手伝ってな」
「もちろんです」
「ええ返事や。ほな、このフロアの全部の電気消してきてくれへん?」
*
「……すごくカッコいい車ですね」
「うちの会社の給料知っとるやろ。オトンのお下がりやで。先乗りや」
白石さんは、助手席のドアを開けてくれたので、ドキドキしながらも先に乗らせてもらうことにした。その瞬間、ふわっと香る爽やかな匂いは、白石さんの近くに行くと微かに香る匂いと同じで、この車内が白石さんのプライベートスペースであることを、強く認識させられる。と、同時に、脈拍がおかしいことになってきた。あれあれ、自分の耳から心臓の音が聞こえる。
そんな間に白石さんは助手席のドアを閉め、くるりと運転席側に回って、運転席に乗り込む。
「シートベルト、頼むで」
「あっ、はい!今すぐしますね」
危ない危ない、白石さんのことを意識しすぎてシートベルトをするのを忘れてた。左肩から右腰までベルトを下げて金具に差し込む。白石さんも車のエンジンをかけて、ナビの検索画面を起動する。
「住所、聞いてもええ?」
「あ、はい」
住所を伝えると、白石さんの綺麗な左手の人差し指が淀みなく動いて、ナビに私の住所がセットされていく。なんだかとても不思議な気分だ。予想到着時刻は、今から約30分強。
「聴きたい音楽とかある?」
白石さんはスマホを弄りながら聞く。でも、特に思いつかない。いや、本当は好きな音楽はちゃんとあるのだけど、このシチュエーションに動揺しすぎて出てこなかった。
「あの、すみません、すぐ思いつかなくて」
「ええよ。ほんなら適当にプレイリストかけよか」
「白石さんの好きな曲で良いですよ」
「俺の好きな曲かけたら、基本トランスやから車ん中クラブ化するで」
「えっ」
「さすがに今の時間からトランスは交感神経優位になりすぎるやろ」
何かのプレイリストを選んだのだろう、白石さんがスマホをタップした数秒後、車のスピーカーから、トランスではなく、しっとりとした洋楽の前奏が聞こえてきた。そして、白石さんもシートベルトをすると、シフトレバーに手をかけた。
「ほな、帰ろか」
*
白石さんの助手席から見る夜中の街の風景はいつもと違って見える。
「いつも車通勤なんですか?」
「いや、今日はたまたまや。午前中、外出あって。レンタカー借りても良かってんけど家から直行したい思て会社に申請してん」
「そうだったんですね。普段は終電では帰れてます?」
「さすがにな。タクシーチケットは使わへんようにしとる」
「大変ですね……」
「そうでもないで?ホンマに用事ある時はサクッと定時で帰る日もあるし」
用事ってなんだろう。やっぱり彼女の誕生日とかなのかな。そう思ったら少しだけ胸が痛い。今私が座ってる助手席も、彼女さんが普段座っているところなのかもしれないし。
「……そういえば支倉さん、俺、聞いてもうたわ。マーケの佐々木クンのこと」
「えっ」
まさか白石さんからそんな話が出てくるとは思わなかった。マーケティング部の佐々木くん。この前私に告白してきてくれた同期の男子だ。あまり噂にはなりたくなかったけれど、やはり若手の中ではその手の話題はすぐに回ってしまう。
「支倉さん、モテんねんな」
「いや、白石さんに言われるのはちょっと──」
白石さんのほうが何百倍モテてるんですか。と声を大にして言いたい。おそらくうちの会社の独身の女性社員のうちの半数以上は白石さんに憧れていると思う。現にバレンタインの時、白石さんのデスクの上にはチョコレートの山ができていた。白石さんは苦笑する。
「俺のは、本気で好きって感じちゃうやろ。自分で言うのもアレやけど、みんなアイドルのファンみたいな感覚ちゃう?」
「まぁ、確かに……でもその中でも絶対白石さんのこと本気で好きな人10人はいると思います」
「はは。さよか」
10人のうちの1人は私だけど、それは伝えられない。
「白石さんの彼女さんも、知らないところで彼氏さんがモテモテで大変ですね」
そう言うと一瞬白石さんが息を止めたのを感じた。そして、一呼吸置いて、白石さんはため息混じりに言う。
「──支倉さん、俺に彼女おると思うか?」
「いや、いない方がおかしいじゃないですか。白石さん、カッコいいし、優しいし、仕事できるし……」
「……ほめてくれるんはありがたいけどな。彼女おったら、夜中に自分の車の助手席に後輩の女の子乗せて家まで送ることは、俺はできひんわ。ま、いろんな考え方があるんやろうけど、彼女に誤解されるような行動したないし」
白石さんの恋愛観の垣間見える発言にドキッとした。そして、この発言からわかること、それは、白石さんに今彼女がいないということだ。
「……彼女いらっしゃらないの、意外でした」
「まぁな。好きな子はおるけどな」
「え?!」
彼女がいないと知りぬか喜びしてしまった。一気に地獄に突き落とされた気分だ。白石さん、好きな人いるんだ。まぁ、そうだよね……。
白石さんの車の中で白石さんに暗に振られるなんて、本当に皮肉すぎる。神様、私、何か悪いことしたかな。
白石さんは聞いてもないのに、私に対して、彼の好きな人のことを語り始める。本当にやめてほしい。でも私は助手席から逃げられない。
「その子な、年下なんやけど、毎日めっちゃ仕事頑張ってんねん。俺も毎日大変やけど、その子が頑張っとる姿見てたら負けてられへん思て、なんとか毎日仕事やれてる」
へえ、誰だろう。社内なのかな。白石さんは、その子のことを語るとき、本当に幸せそうな顔をしているから、胸が痛い。
「ただな、結構わかりすくアプローチしてるつもりやねんけど、全然その子には伝わってへんくて。どないしようかな思っとる間に、最近その子、他の男に告白されてん。マジで焦ったわ」
ん?あれ?ちょっと待って。
──勘違いでなければ、それって。
「その子もな、見てる限り、たぶんやけど俺のこと好きやねん。せやけど勝手に俺に彼女おるって勘違いしとったから、俺が自分のことずっと好きやったなんて夢にも思ってへんかったんやろな」
「なあ、支倉さん?」と白石さんは赤信号で車が止まったタイミングで私を見つめた。え、今私はもしかして、白石さんに告白されてる?!
「支倉さん、鈍すぎや。せやからもう直球ぶっこんだろ思ってな。佐々木クンに取られてまうかと思って焦ったわ」
「……まさか白石さんがこんな私のこと好きになってくれるなんて思わなくて」
「いくら本人でも、俺の好きな子の悪口言うのは許さへん。支倉さんには、ええとこたくさんあるんやで」
また信号が青になり、白石さんは正面に視線を戻すとアクセルを踏んだ。そんな白石さんの横顔は、やっぱりかっこいい。こんな素敵な人が私のことを好きと言ってくれている。嘘みたいだけど本当らしい。
「……支倉さんは、俺のことどう思ってる?」
やや緊張した声で、白石さんは言う。白石さんでも緊張することがあるのかという驚きと、私の回答を聞くのに緊張してくれている事実に、彼が本心から私を好きでいてくれていることが伝わって、胸の奥が震える。
「……私も、白石さんが好きです」
胸の奥だけでなく、喉の奥まで震えてしまって、なんだか情けない声になってしまった。でも、その声はしっかり白石さんの耳に届いていたようで。
「……やっぱりちゃんと『好き』言うてもらえるとホッとするわ。おおきに」
「こちらこそありがとうございます……なんか夢みたいで……残業しすぎて幻覚見てるのかな」
「幻覚にされると俺が困んねんけど」
白石さんは珍しく不機嫌そうな声でそんなことを言うから、思わず笑ってしまった。可愛い。こういうところあるんだ。
「普通何回かデートしてからこういう話するんやろうけど、いきなり告白とか中学生みたいになってもうてすまんな」
「いや、白石さんの忙しさ知ってますし……」
「……しばらく家デートしかできひんかもしれへんけど次のプロジェクト終わったらちゃんとデートしよな」
そう言って白石さんは右手でハンドルを持ちながら、左手で私の頭を撫でる。急に彼と私はもう恋人同士なのだという実感がわいて、頬や耳が熱くなってくる。そしてサラッと聞こえた『家デート』というワード。え、これは白石さんのお部屋に近いうちにお邪魔させてもらえるということ?!想像しただけで脳がどうにかなってしまいそうだ。そんな私の様子を知ってか知らずか、白石さんは暢気に「もうすぐ家着くで」なんて宣っている。
「このマンションで合っとる?」
「はい、合ってます」
「ほな、また明日な」
「約9時間後にはまたオフィスで会えますね…うぅ部長会…」
急に明日の朝9時から始まる部長会のことを思い出して気持ちが落ちる。会議資料は作ったものの、無事に終わるといいけど。
「資料頑張って作ったんやろ。大丈夫や」
「……ありがとうございます。そしたら私、車降りますね。送っていただいてありがとうございました」
そう伝えて助手席の扉を開けて、白石さんの車からまさに降りようとする、その時だった。
「忘れもの」
白石さんは左手で私の右手を捕らえると、そのままクイッと引っ張った。私の身体は助手席に引き戻されてバランスを崩す。──と、気づいたら目の前には白石さんのびっくりするくらい整った顔があって、彼の唇が私のそれに重ねられていた。え、え、え。
時間にして数秒だったとは思うけれど、なんだか永遠のようにも感じる。唇が離れた後、白石さんは言う。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
助手席のドアを外側から閉めて頭を下げると、運転席の白石さんは軽く左手を上げて、そのまま、また車を走らせていった。白石さんの車が見えなくなってから、整理しきれない頭で、マンションのオートロックを開ける。おやすみ、って言われたけど。
「……眠れる気がしない」
思わず、声に出してしまった。明日会社に遅刻したら、白石さんのせいにしよう。
Fin.
2021.11.9