Trigger

Martiniの続きです

 2つ先輩の財前さんは、会社の若手のホープとして一目置かれており、社内でも有名人だった。

 そんな財前さんと同じチームに異動となったのは昨秋のことだ。直接財前さんから仕事を教えてもらう機会もあり、私は財前さんの優秀さを肌で感じた。最初は単純に先輩として尊敬していたのだけれどーー私が仕事でミスをして落ち込んでいるとさりげなく励ましてくれたり、難しい案件に悩んでいるとさりげなくアドバイスをくれたり。普段は毒舌なのに実は優しく、おまけにルックスまで整っている。そんな財前さんを好きになってしまうのは至極当然のことだった。

 そんな彼に清水の舞台から飛び降りるような気持ちで想いを伝えたのが、今週の水曜日、彼の誕生日のこと。彼はなんと私と同じ気持ちでいてくれて、私たちはお付き合いをすることとなった。
 とはいえ、翌日はお互い普通に何事もなかったように出勤し、お互い自席で仕事をし、お互い帰宅するだけで、付き合う前と全く変わりがなく。ーーこれから私たちはどんなふうに恋人として発展していくのだろうか。未来があまり想像つかず、少しだけ不安を感じた金曜日の昼休み、ひとりでパスタランチをしていた私のスマホが震えた。あれ?財前さんからLINE?

『今晩予定あるん』
『特にないです』
『ほな22時にここで待っとって』

 いっしょに送られてきた地図情報は、職場から数駅離れた街中のコンビニだった。何でこんなところ…?でも、もしかしたら初デートかもしれない。そう思ったら一気に気持ちが高揚した。

「お先に失礼します」

 18時半ごろ、私は仕事を終え、一旦オフィスから去ることにした。残業中の財前さんは、いつも通りモニターから視線を動かさずに「お疲れさん」とだけ言う。はたから見ると私たちはただの同僚にしか見えないはずだ。なのに、実はこの後会う約束をしている。そんな秘密に少しどきどきする。
 一度家に帰り、シャワーを浴びて、着替える。一応持っている中で一番可愛い下着を身につけて、その上にいちばんお気に入りのワンピース。簡単なヘアアレンジをし、メイクも、ビジネスの場では控えていたリップグロスやラメ入りのアイシャドウを使って、デート向けに施してみた。
 ーー変じゃないかな。大丈夫かな。
 何度も全身鏡の前でくるくると周り、360度を確認しては微調整を繰り返す。そんなことをしていたら、そろそろ家を出なくてはいけない時間になっていた。

 指定されたコンビニの前に着いたのは22時ちょっと前。すでに財前さんはそこにいた。会社から出てきて直接ここへ来たのだろう、財前さんはシャツとスラックスにビジネスリュックを背負っている。

「……着替えてきたん?」
「あ、はい、一応…デートかなと思って。財前さんはさっきまで仕事だったんですよね?」
「まぁな。21時半前にはオフィス出てんけど」
「お疲れさまです……」

 財前さんはここのところずっと残業続きだ。この前は残業時間が長いせいで、人事部から産業医面談の案内が来ているのを見てしまった。そんな中でも私との時間を作ろうとしてくれることがとても嬉しい。

「それで、この後どこか移動するんですよね?」
「そんなええカッコして来てもらって悪いねんけどーー俺んちでええ?もう店閉まってまう時間やし」

 えっ、家?!いきなりそんなプライベートゾーンに通してもらえるなんて。

「……なんか彼女になった実感わいて来ました」
「会話噛み合ってへんで」

 財前さんは少し呆れたような声色だったが、その表情はどこか会社で見るより柔らかくて、どきっとする。そのままコンビニでお酒とおつまみと軽く食べるものを買って、財前さんの住むマンションへと向かう。財前さんってこのあたりに住んでいたんだ。
 エントランスでオートロックを解除し、そのままエレベーターで最上階へ。玄関を入ると、その先には期待を裏切らないシンプルでスタイリッシュな1LDKの空間が広がっていた。

「……お部屋までかっこいいのは、ずるいです」
「アホ」

 そう言いながら部屋の照明を点ける財前さんは、心なしか照れている様子だった。洗練された間接照明が、まるでホテルの部屋みたいだ。なのに鼻から息を吸うと、香水なのか柔軟剤なのかわからないけれど、いつも財前さんからする香りがふんわり漂っていて、本当にここで毎日彼が生活しているのだと認識させられる。

「準備するから、支倉は適当に座っとって」
「え、私も手伝います」
「ココ俺んちやから。今日は座っとき。ゆくゆく何がどこにあるんか覚えたらええ」

 彼はそう言うと、買ってきた食べ物やおつまみを手際よくお皿に移し替えて、リビングのテーブルに運ぶ。私はソファに座りながら、きょろきょろと彼の部屋を見回してしまった。サイドボードに洋楽のCDがたくさん並んでいたり、「アメリ」のDVDがあったり、学生時代の部活の集合写真が飾られていたり。私の知らない財前さんがいっぱいだ。

「1杯目、何飲むん」
「んー…ワインにします」
「ほな、俺もワインにするわ。白でええ?」
「はい」

 彼はワイングラスと白ワインのボトルをテーブルへ運ぶと、そのまま私の隣に座る。ソファは2人掛けなので、すぐ隣に財前さんがいる形だ。肩と肩が触れる距離で緊張する。そんな間にも、グラスに白ワインが注がれて、乾杯の準備が整った。

「ほな、1週間お疲れさん」
「お疲れさまでした」

 グラス同士を合わせて乾杯した後、白ワインを飲みながら思う。本当にこの1週間はいろいろあった。まさか財前さんの家でこんなふうに金曜の夜を迎えるなんて、少なくとも先週金曜の私は想像もしていなかった。

「……まだ色々『信じられへん』って顔しとるな」
「……だ、だって、まさか財前さんが告白OKしてくれるなんて思ってなかったから。私のこと好きだって言ってくれるの嬉しいですけど、今までの態度見てたら『えっ、いつどのタイミングで好きになってくれたの?!』って」
「答えるん恥ずかしい質問やな……」
「す、すみません」
「でも答えたら、少しは不安消えるんやろ」

 そう言うと、財前さんはチーズを肴にワインを飲みながら伝えてくれた。

「明確にいつってことはあらへんけど。毎日責任感持って仕事頑張っとるとこは素直に評価できるし、周りに感謝の気持ちを忘れんとこもええな思っとったで」

 どちらかというと普段は口数少なめでポーカーフェイスの財前さんが、そんなふうに私のことを見てくれていたこと、そしてそれを言葉にしてくれたことが、とても嬉しい。胸がキュッとなった。

「せやから、安心しい」
「……はい」
「会社ではさすがに態度に出せへんし、不安に思うかもしれへんけど、支倉が思っとるよりちゃんと支倉のこと好きやから」

 そんなことを言われてときめかない女性がいたら教えて欲しい。今までの不安がすっと溶けて、代わりに胸の奥がじんと温かくなった。

 その後は、お酒を嗜みながら、他愛のない話をした。財前さんとはこの1年弱毎日隣の席で仕事をして、たまには2人で飲みに行ったりもしていたというのに、お互いのプライベートは、意外と知らないことが多かった。特に、サイドボードに飾られていた写真が気になって、「見てもいいですか?」と訊ねると、財前さんは写真立てごと手元に持ってきてくれた。

「財前さんってテニス部だったんですね」
「高校までな」
「この集合写真は高校のときですか?」
「いや、それは俺が中2んときのやつ」
「え!中学生?!全員中学生に見えない」

 そう言うと珍しく財前さんは笑いをこらえるように口元を抑えて「アカン、今度先輩らに伝えたろ」と震えていた。

「あ、ここに写ってるの財前さんですよね」
「……せやな」
「中2の財前さん可愛い」
「……」
「あ、照れてます?」

 そう顔を覗き込むと、財前さんは黙って私の顔を見つめた。至近距離で目と目が合ってどきどきするのに、逆になぜか目をそらすことができない。どうしよう、なんだか、急に恋人同士みたいだ。いや、確かに彼と私は2日前から恋人同士なのだけれど。そのまま隣に座る財前さんの左手が私の右頬を覆う。

「……その言葉そのまま返すわ」
「へ?」
「髪とか服とかメイクとか、仕事終わってから直してきたんやろ。あんま可愛えのもあかんで」
「えっ」
「……俺も男やし。こういうことしたなるやん」

 そのまま奥に熱を帯びたような瞳が近づいてきて、反射的に目を閉じた。彼も私もいい大人だ、私だって男性とお付き合いするのはもちろん初めてではないが、それこそ中学生に戻ってしまったかのようにドキドキしてしまう。
 そっと私のくちびるに彼のそれが触れる。そのまま何度か角度を変えて、触れるだけのキスをしたかと思えば、いつの間にか彼の舌がくちびるとくちびるの間を割って私の舌を捕らえた。絡めとられるようなキスに頭がどんどん真っ白になっていく。

「…んっ」

 思わず声が漏れてしまって恥ずかしい。一向にキスをやめない財前さんの胸をトントンと軽く叩くと、財前さんはやっと私のくちびるを解放した。

「……顔真っ赤」
「だ、だって」
「キスだけでこんなんやったら、この先、どんだけ赤なるんか楽しみやわ」

 不敵な笑みを浮かべる財前さんは、やけにセクシーで、頭がくらくらしそうだ。

「ーーそろそろ終電やろ。駅まで送るわ。あと、最寄駅から家までは、俺が出すからタクシー使い」
「……っあ、もうそんな時間なんですね」

 気づけば、あともう少しで日付が変わりそうだった。財前さんはそう言うとソファから立ち上がって、準備を始める。
 でも私は何だか急にさみしくなってしまった。特に土日に予定を入れているわけでもなかったし、せっかく財前さんとこんな甘い時間を過ごせたのに、もう帰らなきゃいけないなんて。

「……私、もっと財前さんと一緒にいたいです。帰らなきゃだめですか?」

 そう言うと、財前さんは、ピクッと動きを止める。そして、はぁ、というため息をついた。
 えっ、どうしようーーもしかして怒らせてしまったのかな。まだ付き合ったばかりなのに、こんなこと言って、はしたなかったかな。

「支倉」
「は、はい」
「……さすがに今日は紳士でいよ思っとったんやけどな。そんなん言われたらほんま無理やわ」

 財前さんはそのままソファに戻ってきたかと思えば、私の腕を引っ張ってその場に立たせる。そして次の瞬間、私の身体は宙に浮いた。これはいわゆるお姫さま抱っこというやつだ。
 そのままリビングから続く財前さんの寝室のベッドの上に運ばれたかと思うと、そのまま財前さんは私の上に覆い被さる。

「引き金引いたのは自分や。後悔しても知らんで」
「……後悔なんてするわけないです」
「……俺の理性壊すのどんだけ得意やねん」

 そのまま私の耳元で、今夜はもう帰せへんで、といつもより低い声で囁かれた声を皮切りに、私たちの長い夜が始まった。

Fin.
2021.7.24