昼休み、久し振りに漱石でも読もうかと訪れた図書館で『それから』を探すが、あいにく貸出中だった。仕方がないのでそのそばにあった『三四郎』を借りる。貸出カードに名前を書いてから、そのすぐ上にある見覚えのある名前に気づいた。
3年F組 支倉麻衣
意外だった。読書をしなさそうなタイプに見えるわけではないが、あえて漱石を好むタイプにも見えない。というより、漱石を好んで読む中学生は少ない。『三四郎』を小脇に抱え教室に戻ると、窓際の後ろから2番目の席で、一人読書に励む支倉の姿があった。そして、その手には、俺が先程まで探していた『それから』。
「…漱石が好きなのか?」
「わ、柳くん」
俺のその声に、本から視線をこちらに向ける支倉は、少し驚いたような顔をしていた。
「ああ、読書中だったな。邪魔してすまない」
「ううん、全然だよ」
支倉は本にしおりを挟むと、それを机の脇に置いて、俺の最初の質問に答える。
「最近ね、興味持ち始めたんだ。それで読んでみたら意外とハマってきちゃって……でも柳くんには敵わないよ」
「どういう意味だ?」
「だって、漱石の本借りるときの貸出カード、最初の方に絶対『1年B組柳蓮二』って書いてあるんだもん。柳くんのほうが私よりずっと漱石好きなんでしょう」
「支倉よりずっとかどうかはわからないが、確かに漱石は好きだな」
「やっぱり! ねえ、何かおすすめとかある?」
「今まで何を読んだんだ?」
「まだ少ないよ。『坊ちゃん』と『三四郎』と、今読んでる『それから』だけ」
指を折りながら数えて、まだ3冊目か、先は長いなあ、と支倉は落ち込んだ。
「なら手っ取り早く読める『夢十夜』なんかが良いんじゃないか?」
「『夢十夜』?」
「映画化もされていたぞ」
「本当?じゃ、これ読み終わったら読んでみるね」
こんなに些細なことがきっかけとなり、俺達の距離は近づいた。そして、よく図書室の純文学の本が置いてある棚の前で俺達は偶然出会うようになった。そして、その偶然が必然へと変わっていった。
「あ、またいる。柳くん」
「…支倉もな」
「今日は、何を借りてるの?」
「遠藤周作の『沈黙』」
「それ読んだことないけど知ってる!ノーベル文学賞の候補にも挙がった作品だよね」
「ああ、その通りだ。……だが、支倉、ちょっと声が大きいぞ。ここは図書室だ」
途端に両手で口を押さえて声帯を震わさずに「ごめんなさい」と素直に謝る支倉には好感が持てた。
彼女のことをよく知る前は、どちらかというとアイドルの話や恋愛の話ばかりしている女子といっしょに騒いでいるようなイメージで彼女を見ていた。しかし、もちろん女友達がいないなどということは決してないのだが、案外彼女は1人でいることを好み、もの静かで落ち着いた雰囲気をもっていた。そして、そんな彼女に、俺は惹かれ始めていた。
「そろそろ閉館時間です」
図書委員に言われて時計に目をやると午後5時を示していた。最近は随分と日が短くなって、すでに図書室は、夕陽によって、オレンジと黒の2色に染まっている。
俺達はそれぞれ貸出の手続きを済ませて図書室を後にすると、そのまま生徒玄関へ向かった。最近はほぼ毎日こんな感じだ。放課後、図書室で支倉と会う。そして気づけば閉館時間になって、いっしょに帰路につく。俺達がいっしょに帰るところは多くの生徒に目撃されているらしく、俺が元テニス部レギュラーかつ生徒会書記で校内でも多少名が通っていることもあってか、気づけば俺と支倉は密かに噂になっていた。それでも俺はその噂話に気付かないふりをするし、支倉もまた、そうしている。微妙な、いや、絶妙と言うべきか――そんな関係が続いていた。
「まだ5時半なのにこんなに暗くなっちゃった。夏なら青空なのにね」
「……そうだな」
隣を歩く支倉は、よく話す。俺はその支倉の話に相槌を打ちながら、彼女のくるくる変わる表情を見ている。他愛のない話だ。この前の日直の日にパートナーの男子に休まれてしまって仕事が大変だったとか、受験が近くなってきたけれど実感がわかないだとか。俺も支倉も立海の附属高校に内部進学する予定だが、内部進学だからといって気を抜くと、高校に入ってからが大変になる。
「柳くんにはそろそろ、おすすめの本じゃなくて、勉強を教えてもらわなくちゃいけなくなりそう」
「別に支倉だって成績は悪くないだろう」
「柳くんには及ばないもん……今度からは図書室で勉強しようかな」
「それもいいかもな」
「うん」
それからは沈黙が続いた。いつの間にか揃っている歩調、2人分の足音だけが妙に耳につく。沈黙が続くと、意識しなくていいことまで意識し始めてしまう。例えば自分の心音だとか、支倉の肩の華奢さだとか。
ふいに、触れたい、と思うときがある。そして、その身体を抱きすくめてしまいたいと。
――そろそろ、潮時ということか。
「支倉」
俺から話題を提供することは珍しい。
「――そろそろ、はっきりさせないか」
何をはっきりさせるのかなんて野暮なことは彼女は聞かないだろう。俺も彼女もお互いの気持ちはわかっている。気づけば、住宅街の電柱の脇で俺達は立ち止まっていた。支倉は少し泣きそうな顔で、意外なことを口にした。
「柳くん……あのね、私、一度柳くんに嘘ついた。本当は、はじめは漱石なんか興味なかったの。今はもちろん漱石の魅力にも気づいたし本当にハマっちゃったけど……最初は違うの。漱石に興味があったんじゃなかった。柳くんが漱石が好きだって友達づてに聞いたから読んでみようって思ったの」
「……どういうことだ?」
「好きな人が好きなものを、どんなものか知りたい、あわよくば私も同じものを好きになりたい、って、そう思った。でも柳くんが気にかけてくれたのは『漱石に興味がある私』で――だから、柳くんが好きになってくれた私は、きっと偽物の私だよ」
だからその先は言ってもらう資格ない、と俯く彼女に、フッ、と笑いが漏れる。
「そんなことを気にして泣きそうになっているのか?」
「そんなこと、って……」
「偽物も本物もない。支倉は支倉だ。――そうだな、漱石はきっかけにすぎない。俺はたとえ支倉が漱石が好きでも嫌いでも、支倉をよく知る機会さえあれば支倉に惹かれていたことには変わらないはずだ」
「――柳くん」
「どうした」
支倉は俺の右手を自分の左手で控えめに握ると、蚊の鳴くような声で言った。
「すき。だいすき」
その手を握り返して自分のほうに引っ張ると、いとも簡単に支倉は腕の中に収まった。俺は彼女のくちびるに掠めるようなキスを落として、そして、呟いた。
「ああ、知ってる」
Fin.