5つ年上の私のおねえちゃんは、綺麗で、頭もよくて、スポーツもできて、男の子にもモテて、妹の私にもやさしくて、憧れの人だった。そんなおねえちゃんには、特に仲の良い男の子がいた。
――仁王雅治くん。
仁王くんと私がはじめて出会ったのは、おねえちゃんと仁王くんが中学校3年生で、私が小学校4年生のころ。おねえちゃんは中学校に入ってからテニス部のマネージャーをはじめたせいか、家に帰ってくるのが遅くなった。けれど、おねえちゃんが遅く帰ってくる原因は部活だけではなかった。たまに部屋の窓から、おねえちゃんいつ帰ってくるのかな、なんて外をのぞいていると、男の子といっしょに手をつないで歩いているおねえちゃんを見かけたこともあった。そんなおねえちゃんは、その男の子とキスをした後、何食わぬ顔で「ただいま」と家に帰って来た。当時小学生の私でも、そのキスの意味くらいはわかって、思わずおねえちゃんの顔が見れなくなってしまった。
「麻衣、どうしたの?」
「……な、なんでもないっ」
おねえちゃんがいっしょに帰ってくる男の子は中3の夏のころからずっと同じ人になった。――銀髪が目を引いた。
「仁王雅治くんっていうの」
おねえちゃんが仁王くんを家に連れてきてママと私に紹介したのは、その秋の話だった。
*
「あ、こんにちは、におくん!」
「…その呼び方はやめんしゃい、麻衣」
「えーいいじゃない、お義兄さん」
「お義兄さん、もキモイ」
「…!じゃあなんて呼べばいいの」
「普通に『仁王』でいいぜよ」
「えーつまんない」
「それともお前の姉貴みたいに『雅治』て呼んでみるかの?」
「それはだめ。おねえちゃんの特権だもん」
冗談ぽく言いながらも、自分に言い聞かせていた。はじめて仁王くんに会ってからもはや5年の月日が経つ。あのときのおねえちゃんと仁王くんの歳に追いついて立海大附属中3年になった今も、おねえちゃんと仁王くんは、ともに立海大の2年生で、まだ恋人同士だった。中学時代から今までずっと続いているなんて、きっとふたりは“運命の人”ってやつなんだろう。だから、そんな運命に私は手出しができない――はずだった。
今、私は禁忌の恋をしている。
おねえちゃんの彼氏を、好きになってしまった。
「で、姉貴はもう帰ってるんか?」
「それが、おねえちゃん、まだなんだよね……今日サークルの集まりあるとか言ってたかも」
「へえ」
「うん。しばらく帰ってこないから、仁王くん、1回おうち帰ったほうがいいかもね」
「ここで待たせてもらうことはできんのか」
「え?!」
「俺と麻衣の仲じゃろ。話して待ってたほうが早い。それにまたココまで来るのは交通費かかるけぇの」
「っあー……だよねぇ。あはは、はは」
「何じゃ、その笑い」
「いやー実は今うち、パパが遅いのはいつものことだけど、高校の同窓会があるとか言って、ママもいなくて…。だから、おもてなしできないよ?」
「別にそんなん構わん。で、お邪魔していいんか」
「あ、え、うん、ど、どうぞ」
何を1人で動揺しているんだろう。仁王くんにとって、私は中3の子どもで、しかも彼女の妹で、恋愛対象外もいいところだというのに。それでも仁王くんに恋をする私は、家でふたりきりという環境に、そわそわしてしまう。
誰もいないことをいいことにリビングで夕方のドラマの再放送を見ながら受験勉強をしていた私は、テーブルの上を散らかしっぱなしだった。仁王くんはそんなテーブルを見て、「姉妹っちゅうのも、なかなか似ないもんやの」と呟いた。確かに、おねえちゃんは整理整頓が好きで、部屋もいつもきれいになっているけれど、私は出したものは出しっぱなし、なんてことも多い。
が。
――ああ、また仁王くんにひとつ、幻滅されてしまった。
ずきん、と胸が痛む。そんな私の内心なんて知らない仁王くんは、机の上の教科書やらノートを見て私に問う。
「……へぇ、受験勉強か。麻衣、お前さん工業と普通、どっち受けるんじゃ」
「え? たぶん、工業、だと思う」
「意外だな。勝手に文系だと思っとったんじゃが。お前さん数学苦手やきにの」
――でも、だって仁王くんは、工業高校の建築科だったんでしょう?
大事な進路に恋愛を絡めるなんて本当は言語道断なのかもしれない。けれど、この恋が叶わないことは最初からわかっているから、せめてその仁王くんの歩んできた道のりを追ってみたかった。5年前の仁王くんと同じ空気を吸いながら、5年前の仁王くんと同じ勉強がしたい。もっともっと、仁王くんが知りたい。おねえちゃんと仁王くんの関係を邪魔しようだなんて思わないから、せめて、勝手に想うくらいは許して。
仁王くんは、「さて、」とテーブルの脇に座る。私もそんな仁王くんの隣に座った。仁王くんは机の上に開きっぱなしだった私の数学のノートにさらっと目を通す。
「さっそく、ここ、説明が足りんぜよ」
「え?」
「ここで三平方の定理使ったら辺ABの長さは出る。けど、このままじゃこれは辺PQの長さと等しいとは言えん。じゃあ、どうする?」
「えー…?えっと、えっと、あ、合同の証明?」
「正解」
なるほどなるほど、と、仁王くんのアドバイス通りにそこに合同の証明を追加する。1辺とその両端の角がそれぞれ等しいから……なんて合同条件を書いている私に、仁王くんは小言を言う。
「どうせ、再放送のドラマでも見ながら解いてたんじゃろ」
「え。何でわかるの」
「集中してたらそんなところ、お前さんなら、書き忘れたりせんよ」
「へ……」
「お前さんの姉貴が、この前お前さんが数学で過去最高の90点取ってきたって喜んどったけぇの」
「あーもうおねえちゃん、姉バカなんだから……!」
「あれはシスコンの域じゃな。――っちゅうわけで、数学9割取る人間はこんなところ見のがさんよ」
「買いかぶりすぎだよ…あれ、まぐれだし。実際、この問題集の後ろの方、ぜんぜんわかんないもん」
「どれ?」
「これなんだけど……」
気づけばなぜか勉強会(といっても私が仁王くんに教えてもらうだけ)が始まっていた。テレビは消されてしまい、リビングは一気に静かになる。仁王くんは私の隣で何やら難しそうな説明をしてくれているのだけれど、私にはそれはさっぱりわからなかった。理由は2つ。本当に問題が難しいっていうのがまず1つ。けど、仁王くんは説明が上手だから、本当はちゃんと聞いていれば理解できているはずだ。しかし、もう1つの理由が、私の勉強の邪魔をする。
――心臓が、うるさい。
本当はどきどきなんてしたくないのに、左利きの仁王くんはぴったり私の左隣に座って、左手で数式をすらすらとノートに書いていく。そして、右手はなぜか、私の腰に。
「ねえ、仁王くん」
「何じゃ」
「ちょっと……近くないですかね」
「そうか?」
「そうだよ…!てかこの腰の手セクハラじゃんセクハラ!」
恥ずかしいのを隠すようにわざと冗談っぽく言うと、仁王くんはククッと喉の奥で笑う。
「真っ赤じゃな、麻衣。なら、こういうのはどうかのう?」
仁王くんはそのまま右腕だけで私を抱きしめて、左手で私の顎をクイッと上に傾ける。
――これじゃまるで、仁王くんとキスする姿勢だ。
仁王くんの端正な顔がものすごく近い。と同時に、頬と身体が、信じられないくらいに熱くなる。
「……も、もう、そういうふうにからかったりするのは私じゃなくて、おねえちゃんにしてよ」
「アイツはからかい甲斐がなくてつまらん」
「……そう言う問題じゃないでしょ。仁王くんの彼女は私じゃなくておねえちゃんなんだから……」
と、言いながら自分で傷つく私は本当にばかなのだと思う。仁王くんは自分の妹みたいな存在をちょっとからかっただけなのかもしれない。だけど、私には、それはお兄ちゃんにからかわれているようには思えない。だって、仁王くんは――いずれは“お義兄さん”と呼ばなければいけない人なのかもしれないけど――私の好きな人なのだから。
でも、どうしよう、なんでこんなときに、こんなことで、胸が痛むの。仁王くんが私をからかうことなんて、日常茶飯事なのに。
“仁王くんの彼女は私じゃなくて、おねえちゃん”。
わかってはいるのに、私はどうして、こんなにどきどきしてしまうのだろう。
――永遠に叶わない恋なのに、こんなの空しいだけじゃない。
「……麻衣?」
「あ……あはは、仁王くん、ごめんね、私ちょっとコンタクトがずれちゃって」
こんなありきたりな言い訳が、中学時代、コート上の詐欺師という異名までとっていた彼に通じるかどうかはわからない。本当は泣き顔なんて見られたくなかったけれど、仁王くんの左手で顔の角度が固定されたままの私は、うつむくことができなかった。ぽろり、と頬を涙が伝う。
「麻衣」
「…な、何?」
「――泣くのは、反則ぜよ」
そのまま、信じられないことが起きた。一瞬、仁王くんの顔が近づいたかと思えば――仁王くんのくちびるが、私のそれと重なった。好きな人にキスをされたら普通は嬉しいはずなのに、私はといえば、おねえちゃんの顔ばかりが頭に浮かんで、罪悪感でいっぱいだ。
おねえちゃん、ごめんね。でもキスしてきたのは仁王くんのほうなんだよ。
仁王くんのキスは止まらない。最初は茫然とするしかなかった私も、さすがに離れようと仁王くんの胸を叩く。しかし、仁王くんは離してくれない。角度を変えて何度も何度もキスは続く。
なんで? どうして? からかってるだけなの?
やっと解放された口から出てきたのは、仁王くんを非難する、私の震える声だった。
「ひどいよ、仁王くん…からかうにも、限度が――」
ただ、その台詞は仁王くんの「麻衣、」と私の名を呼ぶ声によって遮られた。今まで彼のこんなに張りつめた声は聞いたことがなくて、思わず息と台詞の続きをのみこんでしまう。
「気持ちはわかるが――まず俺の話を聞いてくれんか。お前さんの姉貴とは、もう1年も前に切れとる」
「え―――」
「ふられたんじゃよ俺が。何て言ってお前さんの姉貴は俺をふったと思う?」
そんなのわかるはずがない。だって、今仁王くんから真実を聞く今の今まで、おねえちゃんと仁王くんはつきあっていると思っていたのに。私は力なく首を横に振った。
「『雅治も麻衣も、ふたりでいるほうが、私といるより楽しそう』」
「……え」
「アイツの言う通り、俺はアイツよりお前さんと話しとるほうが確かに楽しかった。アイツは鋭いから――見抜いたんじゃろ。そしてアイツはアイツで今頃本当の彼氏と楽しいデートを満喫しとるはずじゃ」
「ど、どういうこと?」
「つまり。俺とアイツはもう別れて、アイツは別な彼氏がいる。だが、今まで俺はアイツの協力のおかげで、お前さんの前だけでは俺達の関係が続いているフリをしとった。――俺がお前さんとの接点をなくしたくなかったきに」
「え……」
でも、それなら、おねえちゃんは……?
「姉貴に遠慮したらいかんぜよ。『雅治が弟になるのもいいかも』なんて言い出したのはアイツのほうじゃけぇの」
仁王くんは、そのまま私をきゅ、とやさしく抱きしめる。これくらいの力で抱きしめられるのだったら、抵抗しようと思えばいくらでもできるはずなのに、私の身体は動かない。仁王くんに捕らわれてしまった。一気に状況が変わって頭の整理がつかない。けれど1つわかったことがある。
私は今までこの恋は禁忌だと思っていたけれど、それは違ったのだ。
「はぁ……それにしてもまさか中学生のガキに、こんなに惚れるとはのう、予想外じゃ」
そして、今の仁王くんの呟きが、空耳じゃないとするならば。
「麻衣。――俺は、からかったつもりはなか」
「………う、うん……」
「本当はお前さんが中学卒業するまでは手は出さんつもりだったんじゃがのう」
「に、仁王くん、わたし……」
――これは、両想いだということでいいの?
言葉にならないまま仁王くんの目を見ると、「『雅治』て呼んでみるかの?」とさっき聞いたのと同じ台詞がやさしい声で返ってきた。ねえ、仁王くん、ううん――。
「――雅治くん、」
「何じゃ」
「だいすき」
そう言うと、雅治くんは穏やかに笑って、もういちど、今度は甘い甘いキスをくれた。
Fin.
title by 星空