この道、最果て行き

 私が彼に浮気をされていると気づいたのは、ある日、街中で彼と同じ学校の制服を着た女の子が、彼とふたりで手をつないで、仲良く歩いていたことだった。そのときの彼は、すごく楽しそうに笑っていた。彼のあんな顔は、中学を卒業して以来、私は見たことがなかった。
 彼と別々の高校に進学してからというもの、私と会うとき、彼はいつも作ったような笑顔を浮かべて、そして、いつも時間を気にしては「俺、このあと予定あんねん。ごめん」なんて言って、去っていった。その時から悪い予感はしていたのだ。しかし、信じたくなかった。中学時代、彼と過ごした楽しい日々は私の中で綺麗な想い出になっていたから。
 でも、私から彼が離れていくのも仕方がない気がした。私は中学校から続けていたテニス部のマネージャー業にますます精を出していて忙しく、彼と会う暇もなかったからだ。中学時代は弱小テニス部のマネージャーだった私だけど、うちの高校のテニス部は強かった。何せ、あの関西一強い四天宝寺中のテニス部の部員が、うちの高校に進学してくる率が高かったからだ。白石くんはそのうちの1人だった。中学校時代から地区大会で会うことがあったせいか、お互いなんとなく顔見知りではあったけれど、高校に入ってから彼と私はチームメイトになった。そして3年生が引退して、2年の秋から白石くんは部長になった。ちょうど私が彼の浮気しているところを見てしまったのも、その時期だった。

「最近元気ないな、支倉」
「…あ、白石くん、ごめん。そうやんな、こんなんが部内にいたら士気下がるよなぁ……」
「ははは、誰もそこまで言うてへんて。せやけど心配はしてるで。何かあったん?」
「――まぁ、何かあったことにはあった、けど……」
「俺には言いにくい?」

 そんな訊かれ方をされると肯定しにくかった。幸い、部室には白石くんと私以外には誰もおらず、白石くんは口が堅そうで、なおかつ恋愛経験も豊富そうだった。誰にもこのことを相談できずにいた私は、誰かにこの悩みを聞いてもらいたかったのかもしれない。私は首を横に振った。

「でも、今から言うこと、他の誰にも言わんといてね」
「お安い御用や」
「――私、今は学校違うねんけど、中学時代からずっとつきおうてる男の子がおんねん」
「え――それ、ホンマなん?」
「うん。今まで誰にも言うてへんかってんけど……せやけど、その彼に、浮気されてもうて、ちょっと落ち込んでんねん――って、白石くん、さっきからびっくりした顔しすぎやで」
「せやかて……まず支倉に彼氏いてたのも知らんかったし……しかも浮気、て」

 なんや驚く通り越して軽くショックやわ、と白石くんはため息をついた。

「せやけど、支倉、その彼氏とはいつ会うてるん。見たとこ毎日部活ちゃんと出てるし」
「……うん。ご指摘の通り、ここ3カ月くらいは全く会うてへんねん。せやから自然消滅するんも時間の問題やとは思っててんけど……せやけど、実際別の子とらぶらぶしてるの目にするとやっぱりショック受けてる自分もいて……なんか自分でも自分の気持ちがようわからへんけど」

 語りはじめると、なんだか止まらなくなってしまった。白石くんはそんな私の話を黙って最後まで聞いてくれた。なんだかそれだけで少し心がすっと軽くなったような気がした。きっと白石くんは知っているのだろう。話を聞いてもらえるだけで、人の心が安らぐことを。私の話が一段落つくと、白石くんはやっぱり黙ったまま私の頭を撫でて、そしてやっと口を開いてこんなことを言った。

「話聞くくらいやったら、俺でよかったらいつでも聞いたるから、1人でためこんだらあかんで」
「……でも、今日はこないにたくさん話してもうたけど……これ以上は白石くん忙しいし、申し訳ないわ」
「何言うてんねん、遠慮したらあかん。それに、この浮気の件は俺以外の人間には言うてへんのやろ。せやったら、俺が相談にのらんかったら支倉が1人で悩むことになるやん」

 な?と言われ、やっぱり私は誰かに頼りたかったのかもしれない。首を縦に振ったこの瞬間から、きっとこの先の運命は決まってしまったのだ。

 それからというもの、私はこっそり白石くんに相談をするようになった。話を聞いてもらいたいときは話を聞くだけに徹してくれて、でも、相談したいときは的確にアドバイスをくれる白石くんは本当にありがたい存在だった。

「――いつも思うねんけど、白石くんって、ほんまにやさしいんやね」

 ある日も相談に乗ってもらったあと、そんなことを言うと、白石くんはめずらしく少し困ったような顔をして笑った。

「なあ支倉――俺、誰にでもやさしいわけちゃうねんで」
「え?」
「……さて、そろそろ帰ろか。外暗なってきたしなぁ」

 うまくはぐらかされてしまったような気はした。しかし、白石くんのその台詞にどきっとしないわけにはいかなかった。私はそんなに鈍いタイプではない。  普通、どうでもいい女の子の恋愛相談にこんなに長い時間を費やすなんて考えられない。けれど、白石くんなら本当に親切な人だから、そんなこともありえる気がした。だけど、その白石くん本人が、そんなことを言うなら――ひょっとして。
 でも、なんで私なんやろ。白石くんなんてかっこええから、黙ってても、もっとかわいい女の子たくさん寄ってくるはずやのに。
 それでも、どきどきするこの心臓を抑えることができず、その日の夜はなかなか眠れなかった。そして私は重大なことを忘れていた。私には、浮気されているとはいえ、いくら自然消滅寸前とはいえ、彼氏がいるのだ。――なのにこんなどきどきしたら、あかんやん。しかし、心臓は、落ち着くことを知らない。

 その日からほどなくして、久しぶりに部活のない日曜日を翌日に控えた土曜日、私の携帯が鳴った。一応彼には、今週の日曜が空いていることを伝えていたから、ひょっとしてデートのお誘いかもしれない。そんな淡い期待を持って携帯を開いてみたはいいけれど、表示されていた名前は彼の名前ではなかった。しかし、彼の名前が表示されていても私の脈はここまで速くならなかったかもしれない。
 メールは白石くんからだった。

 “明日、部活休みやろ?新しいシューズ見に行こう思ってんねんけどつきおうてくれへん?”

 ――これはデートやなくて、あくまでマネージャーとしてのつきあいやんな。
 自分にそう言い聞かせつつ、すぐにOKの返事をする私は、完全に恋をしていた。もちろん、相手は彼氏ではなく、白石くんに。どうしよう、これは、私も浮気をしているということになるのだろうか。

「……ほんまにおごってもろてええの?」
「ええって。今日は1日つきあわせてもうたし、いっぱい歩かせてもうたし、お礼や。好きなの選び」
「ありがとう…!わあ、どれにしたらええかなぁ……クレープもおいしそうやけど……」

 白石くんと待ち合わせたのはお昼だったけれど、シューズのついでに、部の備品で足りなかったテーピングを買ったり、白石くんが個人的に部のみんなのためにおすすめのプロテインを買ったりしていると、もう夕方になってしまった。小腹が空いてきたなんて話しているときにちょうど通りかかったサーティワン。どうしよう、季節限定のフレーバーもあるし、迷ってしまう。
 そんなときだった。休日の午後、お店には女の子の友達同士のグループはもちろん、やっぱりカップルも多い。私達の後ろに並んでいるカップルの会話が聞こえて、思わず、その声に心臓が止まりそうになった。もしかして、このカップルの彼氏のほうの声は――。

「……支倉、どないしたん」
「……麻衣、」

 白石くんと、彼の声が被った。事情を知らない彼の浮気相手の女の子が、明るい声で彼のほうに訪ねる。

「え、麻衣って誰なん? あ、わかった、もしかして浮気相手とかー?」
「何言い出すねんアホ。麻衣はただの中学時代の友達や。ほら、向こうかて彼氏連れてるやろ。――なあ、麻衣」

 確かに、今日は私も浮気めいたことをしていた。
 それでも、彼、――否、かつて彼氏だったその人が、明るい声でさも当然のように言ったその一言が信じられなくて、うつむくしかなかった。
 何で私は、今までこんな人のために、悩んでいたんだろう。
 何で私は、今までこんな人のことを、想い続けていたのだろう。
 ――どうしよう、こんなに人通りの多い街中なのに、涙が出そう。

「――アイスは、また今度にしよな」

 そんな私の腕を引っ張ったのは白石くんだった。そのまま白石くんは私の手首をつかんだまま、颯爽と歩き出す。といっても白石くんと私のコンパスの差は歴然としているから、必然的に私は小走りすることになる。ついていくのがやっとだ。
 やっと白石くんの歩調がゆっくりになって、私も落ち着いて歩くことができた。

「……支倉、家、どっちやったっけ。送ってくわ」
「白石くんちはこのへんなんやろ? 私学校の近くやから、今日はここでええよ」
「せやったら、なおさらや。もう時間も結構遅いし……それに落ち着いて話したいこともあんねん」

 そう言われ、断る理由も見つからなかった私は、白石くんに送られることにした。最寄り駅から家までは歩いて10分ほどだ。幹線道路から一本中に入れば、そこは人通りも車通りも少なく、日が暮れはじめて群青色をしている空も相まって、街中よりは随分と静かな雰囲気が漂っていた。

「この辺、公園とかないん?」
「あ、もうすこし行ったとこにあるで」
「…そか。なら、そこでええか」

 たどりついた公園には、もう子どもが遊ぶには遅い時間のせいか、誰もいなかった。ベンチに腰かけたまましばらく沈黙が続いていたけれど、それを破ったのは白石くんだ。

「今日は……災難やったな」
「……ううん、白石くん、今日はありがとう。あそこで腕引っ張ってくれて」

 そう笑顔を作るけれど、白石くんは真剣な表情を崩さない。

「なあ支倉、そんな、無理して笑顔作らんといてや」
「え――」
「見てるとこっちの胸のほうが痛なんねん。ショックやったんやろ。せやったら――今なら俺以外誰も見てへんし、気の済むまで泣いたらええやん」

 やさしい白石くんがそんなことを言うから、思わずさっきしまい込んだ涙がまた出てきそうになる。それでも、私は泣いてはいけないのだ。

「……ううん、私、ショック受ける資格もあらへん」
「? どういうことや?」
「浮気しとったのは彼だけやない。私も浮気しとったんやもん――……なあ、白石くんやったら、意味、わかってくれるやろ」

 精いっぱいの勇気といっしょに絞り出したその声は、夜の空気の中へとけていく。ああ、ついに告白まがいなことを言ってしまった。

「私自身彼氏に浮気されてあんなにショックやったのに、そんな私がつき合うてる人がいるのに浮気してたんや。我ながら、最悪や……」
「まぁ、確かに浮気とか二股とかそういうんはええことや思わへん。せやけど、支倉のは状況も状況やし、それに何より、浮気ちゃうやろ」
「え?」
「恋人とは別な人のことを“本気”で好きになってまうことは、世間的にもよくあることやで」

 白石くんは笑う。その言葉に心が晴れた気がした。そういう基準で考えると、私のは確かに、浮気ではない。だって、あの日、白石くんが意味深なことを言った日からずっと、私の心の中には、彼ではなくて白石くんが住みついているのだ。

「――なあ、支倉……俺、前の彼氏みたいなことは絶対せえへん」
「うん」

「さっきみたいな、あんな辛そうな顔も絶対させへんから」
「……うん」

「せやから、俺のこと好きになって」

 その言葉に今度は声を出さずにこくんと頷くと、嬉しいやらなにやらでよくわからない複雑な感情が高ぶって、ぽろぽろぽろぽろと涙がこぼれおちる。白石くんは私の頬に残る涙の軌跡に指を這わせて、そのまま私の頬をその大きな手で包むと、何も言わずに触れるだけのキスを、くちびるに落とした。

Fin.
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