朝から少し緊張している。なぜなら今日は、付き合ってから初めて迎える仁王くんの誕生日、だから。――そして、久しぶりに、仁王くんに会える日でもあるから。
仁王くんとは去年、中三で同じクラスになったのがきっかけで、知り合った。ただ、去年の彼の誕生日の時は、まだ付き合っていなくて。というより、まだお互いに気になってもいなくて。仁王くんと私の距離が急速に近くなって付き合い始めたのは、中三の終わり頃だった。
その後、立海の工業高校に二人して進学したものの、クラスは分かれてしまったし、相変わらず仁王くんはテニスで忙しくしていて。中学からの親友には「仁王くんって手早そうだよね〜。避妊はちゃんとしなね」なんて破廉恥極まりないことを言われたりするけれど(友情に基づいた冗談だとはわかっているけど!)、実際の私たちは、驚くなかれ、まだキスすらしていない。
だって、立海のテニス部って、ほぼ毎日休みがないのだ。それに加えて、仁王くんは今年もU-17日本代表に選ばれて、合宿に行ってしまって。物理的に一緒にいる時間がほぼない。
――いや、嘘。本当は、一度だけ。今日は夕方まで家族がいないから、と言われて、部活が禁止されている期末テスト期間中に『勉強会』という名目で仁王くんのお部屋におじゃましたことがある。
テスト期間中なので、学校は、早く終わる。いつもならまだ授業中の時間、手を繋ぎながら仁王くんのおうちの前まで行って。そこから、誰もいない仁王くんのおうちへ。
「明日は、物理と世界史か」
「どっちもニガテ……仁王くん、暗記パン持ってる?」
「持ってるわけないじゃろ」
「……仁王くんなら持ってそうなのになあ」
「お前さん、自分の彼氏とドラ◯もんを混同しとらんか」
あの日は、夏休み前でとても暑かった。最初は真面目に教科書とノートを開いて、勉強していたのだけれど。エアコンをいれても、部屋がなかなか涼しくならなくて。外から蝉の鳴き声が聞こえたりなんかして。
好きな男の子、ましてや、両思いでちゃんと付き合っている状態の男の子の部屋に行く時点で、正直いろんな覚悟は決めてきていた。どこまで進むか知らないけれど、もう全部受け入れよう、と。
たぶん、仁王くんも、それは同じで。
二人で横並びで勉強していたはずなのに、いつの間にか、右隣にいる仁王くんの左手は、シャープペンを握ることをやめて、私の腰に回されていて。そのまま、仁王くんの右手の人差し指が、私の顎にかかって。私の心臓は、信じられないくらい、音を立てていて。
――あ、今から、キスをされる。
そう思って、瞼を閉じたその瞬間。
「ただいまーーーー!!!!」
と。やたら溌刺した少年の声が家中に響いた。私は驚いて目を開けて、仁王くんはその瞬間気が抜けたようにガクリと肩を落として俯いた。
「だ、誰!?」
「弟ぜよ……アイツ今日友達の家遊びに行くんじゃなかったんか」
「お、弟くん!? ご挨拶しなきゃ」
……とまぁ、そんなハプニングに見舞われ。結局キスは未遂に終わり、その後のデートは弟くんと三人でリビングでくつろぎながら過ごすというまったりした時間に変わってしまったのだった。
そんなわけで、私たちの仲は、健全極まりないものであって。ただ、今日12月4日月曜日は、仁王くんの誕生日。仁王くんは先週金曜にU-17合宿から帰ってきた。そして、今週末にはまた海外に旅立ってしまう。だから、今日の誕生日は、久しぶりに直接会って、顔を見て「おめでとう」を伝えたいし――それに私なりに考えたプレゼント――あの日、未遂になったままのキスを、プレゼントできたらいいな、なんて。
久しぶりに校舎に姿を現した仁王くん。工業高校だから、女子が少なめで良かったと思う。去年同じクラスだったときは、丸井くん効果もあって、すごくたくさんの女の子たちが3年B組に集まってきていたけれど、今年は思ったより平和そうだった。そんな感想を親友にこぼしたら「そりゃ、あんた、さすがにあんだけ彼女にべた惚れしてる男にキャーキャー言うほど、世の中の女子は暇じゃないわよ」なんて言われてしまい、恥ずかしくなった。いやいや、ベタ惚れなんて、そんな。
何なら合宿中も、この土日も、ほぼ毎日電話やメッセージのやりとりはしていたけれど、直接会うのは久しぶりだ。満を持して、放課後、仁王くんのクラスに顔を出すと、仁王くんのクラスメートたちは「おっ、仁王、彼女のおでましだぜ〜!」なんて冷やかす。
「おーおー。お姫様のほうから迎えに来てもらえるとはのう」
その声も、軽口を叩く感じも、大好きなその人そのままだ。久しぶりに、本物の仁王くんが目の前にいる。
「……に、仁王くん、おかえり」
「ただいま。ほんじゃ、おまんら、俺は姫と帰るぜよ」
「おーまた明日な。久しぶりで盛り上がるかもしれねーけど、ちゃんと避妊はしろよ」
私の親友も大概破廉恥だけれど、彼の友人もまた破廉恥である。けれど彼はそんなからかいをもろともせず、プリッ、とだけ呟いて、そのまま私の手を取り教室を後にした。
*
季節は当たり前に冬で、日が落ちるのも早くなって、すでに空は真っ暗だ。今日は彼の誕生日だけれど、彼も合宿から帰ってきたばかりで、しかも週末からまた海外に飛ぶわけだから、疲れさせるわけにもいかずに、ただ、駅までの道を手を繋いで帰るだけ。ただ、その大きな手で自分の手が包み込まれる感覚が随分と久しぶりで、それだけで、実はちょっと涙が出そうになった。
「すまんのう」
「ん? 突然どうしたの」
「なかなか、近くにいてやれなくて」
隣を歩く仁王くんは、珍しく真面目なトーンでそんなことを言う。
「ううん。仁王くんがテニスで活躍することは私の誇りだから」
「……そうか」
「でもやっぱりちょっとさびしかったから、今日――仁王くんの誕生日にこうやって直接会えたのはうれしかったよ。お誕生日おめでとう、仁王くん」
そう言って仁王くんの顔を見上げると、仁王くんは珍しく目をぱちくりとさせて、その後さらに珍しく顔を紅潮させたので、こちらが驚いた。えっ、そんなに照れられると、こっちまで照れちゃうってば。そんな変なこと言ったかな。
「……おまん、意外と不意打ちじゃな」
「だって、今日絶対直接伝えたかったんだもん」
照れ隠しに、なるべくドヤ顔を作ってそう言うと、仁王くんはククッと喉を鳴らして笑っていた。この笑い方、ひそかに私が仁王くんにきゅんとするポイントなのだ。
「それじゃ、プレゼントにも期待して良いんか?」
「ちゃんと用意してるよ。喜んでもらえるかわからないけど……」
プレゼント。ちゃんと物理的なプレゼントも用意してある。仁王くんが前に欲しがってた、なんかよくわかんない、ひよこのぬいぐるみ。十六歳男子にひよこのぬいぐるみもどうかと思うけど、本人も自分では買い行きにくいだろうし、ちょうどいいかなと思ったのだ。スクールバッグから、ラッピングしたそれを取り出して渡すと、仁王くんは「お前さん、さすが俺のこと、わかっとるのう」と上機嫌だ。本当に何でこれが欲しかったんだろ。本当に謎だけど、喜んでる姿が可愛いから良しとしよう。そして。
「……あと、ね、もう一つ、ある」
勇気を振り絞ってそう伝えると、仁王くんは不思議そうに首を傾げる。
「もう一つ?」
「うん。でも、ちょっとココでは渡しにくく……」
駅までの大通りは、もちろん人もたくさんいて、とてもじゃないけれど、もう一つの方は渡せない。仁王くんは、どこまで察してくれたのかわからないけれど、「こっち」と、クイッと私の手を引っ張った。
*
仁王くんに導かれるままに着いていくと、そこは人気のない公園だった。
「ココなら落ち着けるか?」
「あ、うん、ありがとう……」
公園のベンチに横並びに座る。あの日と同じ並びだ。右隣に仁王くん。ただ、季節は180度変わって、澄んだ冷たい空気、夜空には星が輝き始めている。
「で、もう一つのプレゼントって何じゃ?」
そう尋ねる仁王くんに、私は意を決して一つお願いをした。
「……あの、目を閉じていてください」
「……敬語?」
「い、いいから! 目、閉じて……!」
訝しげに、でも目を閉じてくれる仁王くん。目を閉じた仁王くんの顔を見て、改めて信じられないくらい整ってるな、と我が彼氏ながら感動してしまう。こんな素敵な人が何で私のことを好きになってくれたんだかわからないけれど、でも彼が私をすごく好きでいてくれていることは、常に伝わってくる。本当に私は幸せ者だ。
そっと仁王くんのその唇に自分のそれを重ねて……なんて勇気はなく、もう触れるか触れないかレベルで合わせてみた。わ、私、ついに、仁王くんとキスなどをしてしまった。しかも自分から。改めてとんでもないことをしたような気がして、慌ててその唇を離そうとした、のに。
「〜〜〜!?」
仁王くんの手が、それぞれ私の頬と後頭部に回され、仁王くんの方から唇を重ねられ、そして離してもらえない。どうしていいかわからず頭が真っ白なのに、彼はそのまま味わうように、私の唇を喰んでいく。ファーストキスはレモンの味って言った人、嘘つき。レモンの味なんてしなかった。ただただ、そのまま私は仁王くんのキスに絆され、酔っていく。
「……可愛い顔」
やっと唇が離れたと思ったら、仁王くんは私の顔を見るなり、そんなことを言う。心臓が煩い。信じられないくらいに、身体が熱い。
「お前さん、なかなか大胆じゃな。積極的な女は嫌いじゃないぜよ」
「そ、それは、お褒めにあずかり光栄です……?」
「もう一つのプレゼントも、受け取ったナリ」
仁王くんは揶揄うようにそう舌をぺろっと出す。これは喜んでもらえたのだろうか……? そんな私の疑問に答えるように、彼は続ける。
「ククッ、本当は、俺から強請るつもりだったんじゃがのう。先を越されたな」
「そうだったの!?」
「夏は、弟のせいで消化不良だったしな。なかなかお前さんと物理的に会える時間も取れんし」
少し拗ねたような顔でそう言う仁王くんが、可愛いと思ってしまうのは、私が彼にすっかり骨抜きにされているせいなのだろうか。騙されないようにしなきゃ。彼はコートの上では詐欺師なのだ。まぁ、私の前では、詐欺師のふりをした、普通の誠実な男の子、なのだけど。
「……そんなわけで、仁王くん、世界大会も頑張ってきてね」
「ピヨッ」
「そこ、ピヨッで終わらせちゃうの!?」
「……世界大会から戻ってきた時にまたお前さんからちゅーしてくれるんだったら、頑張れそうじゃ」
またそういう都合の良いことを……!と、冗談を言っていたはずの仁王くんを見上げ直すと、予想外に仁王くんは真面目な顔をしていたから、驚いた。
会えない時間、私もさびしかったけど、もしかして、仁王くんもさびしかったのかな。これからまた始まる会えない時間は、時差のオマケつきだ。私が思っている以上に仁王くん、さびしかったりするのかな。
「うん。帰ってきたら、するから……だから仁王くん、頑張ってきてね」
何を、とは恥ずかしくて声に出せなかったけれど。仁王くんはその言葉を聞くなり、私をその腕の中にすっぽりと収めて、耳元で「プピーナ」と呟いた。……ねえ、プピーナって、何。
Fin.
2023.12.4