「すまんっっっ!!!!この通りや!!」
ホテルのドア越しに聞こえるそんな情けない彼の声に、怒りを通り越して呆れてしまった。
記念日にいっしょに夜景の見える素敵なレストランでおいしいディナーが食べたいと持ちかけたのは私。そして二人で選んで決めた、大阪の街の真ん中にあるこの素敵なホテルの最上階のレストラン。予約を入れていた時間は、謙也の仕事の時間を考えて、余裕をもって午後8時だった。素敵なディナーの後、このホテルのスイート――というわけにはいかないけれど、ベイサイド側の少しグレードの高いダブルで二人だけの時間を過ごして……そんな完璧な記念日を迎えるはずだったのに。
――謙也が悪いってわけじゃないのはわかってる。だけど。
午後11時、ドアガードをかけっぱなしのドアを少しだけ開くと、その隙間からしゅんと項垂れた謙也が見えた。彼がこのホテルに姿を現したのは、つい5分前だ。仕事で急な残業が入ってしまうとか、そういうこともあるのかもしれないけど、今日くらい断ってくれたっていいじゃない。どうして今日なの。そんな気持ちがむくむくと私の心の中を覆い尽くす。
「麻衣、お願いやから、部屋入れてくれ」
「……やだ」
「……このままやったら俺、このホテルの他の宿泊客に迷惑かけてまうやろ?」
「だったらしばらく下のラウンジでも行っててよ」
「麻衣。そろそろ怒るで俺も」
「だって、遅れてくる謙也が悪いんじゃない。ディナーだって、謙也があまりに遅いからキャンセルしちゃった。謙也が私を怒る資格なんてないもん」
「せやから、遅れたことに関しては謝る。ほんまに悪い思ってる。けど仕事やし……」
謙也の言うことは正論だ。こんなところで言い争いを続けていても他の人に迷惑だし、謙也だって何も寝坊とかくだらない理由で遅れてきたわけじゃない。しかも、スーツのままダッシュで来てくれたというのはそのスーツの着くずれ具合からよくわかった。首元で撓んだネクタイは、去年の謙也の誕生日に私がプレゼントしたものだ。
そのまま、沈黙は続く。普段はこんなことで怒る私じゃないから、謙也も戸惑っているのだろう。明らかに彼の声色には困惑が見えた。しかし、一番困惑しているのはこの私自身だった。自分でもどうしてこんなに怒っているのか、いらいらするのかわからない。ただ、今日のディナーを、私は本当に心待ちにしていたのだ。小学生のときの遠足だって、中学校の修学旅行だって、こんなにわくわくした気持ちで待っていただろうか。仕事で忙しい謙也と久し振りにゆっくり話して、甘い時間を共有して――そんなことを考えていたら、自然に頬が緩んでしまうほどだった。当日は何を着ていこうかな、そんなことを初デートに向かう中学生の女の子みたいに真剣に悩んでいた。けれど、結局、謙也は来なかったのだ。
そんなことを考えていたら、なんだか急に視界が揺れた。まさか。自分につっこみたくなるけれど、鼻にのぼるつんとした痛みを抑えられない。涙腺が緩んできてしまった。
「――え、麻衣」
「……ごめん、なんか自分でもわかんないけど涙出てきた」
つうっと涙が頬を伝っていくのがわかってなんだか笑える。どうして私、泣いてるんだろう。
謙也はそんな私を見て、さっきとは違う神妙な声色で言う。
「なあ、麻衣」
「なに、」
「――ドアガード、開けや」
その言い方と、隙間越しに見える謙也の瞳になんとも言えない凄みを感じ、私は言われるがままにドアガードを元の位置に戻す。その瞬間、謙也はドアの内側に入ってきたかと思うと、その勢いのまま私を正面から抱きしめた。あまりの勢いで、そのまま私は部屋のふかふかのカーペットの上に倒れこんでしまう。私の上には謙也という筋肉のかたまりが乗っていて、非常に重い。しかも腰のあたりにぎゅうと力をこめられたため、呼吸も苦しい。
「お、重いんですけど謙也さん…」
「すまん」
「だから謝る前に早くどいて――」
「そうやなくて」
――さびしい思いさせてもうて、すまん。
私の耳元で謙也はそう言うと、押し倒すような格好で、私に体重がかからないように体を浮かせた。
「自分ではわからん言うとったけど、麻衣がこないなるほど俺がさびしい思いさせまくってもうたっちゅーことやろ。普段の麻衣やったら絶対こんなことで怒ったりせえへんもん」
そうか、いらいらと怒りと涙の理由はさびしさにあったのか。と謙也に言われるまで気づかなかった。確かに最近は電話もLINEも週に数回あるかないかで、デートだって月1できればいいほうだった。ふ、と目の前の謙也と目を合わせる。こんなに近くで謙也を見るのも久しぶりだった。たぶん謙也も似たようなことを考えているのだろう。彼の瞳を見ていればわかる。
「――そのネックレス、前に俺があげたやつやんな」
「うん。でもそれってお互い様でしょ?」
「ああ、ネクタイな。これ気に入ってんねん。赤やし」
謙也は目の前で笑う。その笑顔を見て胸の奥がじわりと熱くなる。その熱で、さびしさが融解していくのがわかる。デートの回数や、電話の回数なんてどうでもいい。ネクタイからも、その表情からも、謙也の気持ちが伝わってくる。そう思ったら、言葉が先に口をついて出た。
「謙也、」
「?」
「――さっきはつまんないことで意地張っちゃって、ごめんね」
素直にそう謝ると、謙也は少し目を丸くしたかと思うと次の瞬間、私の頬に子供のような触れるだけのキスを落とした。
Fin.
2010.2.17