03. 夏の終わり

 ――夏が終わっていく。
 あの日、四天宝寺中テニス部は、全国大会準決勝で立海大附属に惜敗した。全国ベスト4というと、世間的には偉業なのだろう。
 ただ、私たちが目指していたのは、全国優勝であって。

***

 ハラテツ先輩は、あの日、全国準決勝のシングルス3――立海の3年生・毛利寿三郎選手との試合を謙也に譲った。
 毛利選手は、中1の途中まで四天宝寺テニス部に所属しており、ハラテツ先輩の同期で親友だった。そんな彼は家庭の都合で神奈川へ引っ越し、その後、立海のテニス部員としてハラテツ先輩とシングルスで対戦。そのとき、ハラテツ先輩は毛利選手に負けている。なぜそんなことを知っているかというと、ハラテツ先輩本人から聞いたからだ。しかし、同期の様子を見るに、それを本人から聞いていたのはどうやら私だけだったようだった。
 ――選手のみんなに話したら、みんなが毛利さんに情がわいてまうから、マネージャーの私にしか言わへんかったのかな。
 真意はわからないけれど、そんな想像をしてみる。そして、選手たちとは違い、全てを本人から聞いてしまっている私は、毛利さんを前に圧倒されている謙也の試合を見ながら、鼻はつんと痛み、そして視界が歪んでしまった。

「何や麻衣、泣きそうやん」
「……泣いてません」
「嘘下手やなぁ。その涙は何の涙や?」

 隣に立つハラテツ先輩は、怒るでもなく、心配するでもなく、ニュートラルにそう問う。私はそれに答えられず、くちびるだけが震えた。
 ハラテツ先輩は、謙也の勝利を信じて、この試合を謙也に託した。顧問のオサムちゃんも、部長の白石も、ハラテツ先輩の意志を尊重した。そんなこと百も承知なので、今私が心に思っていることは、絶対に言葉にしてはいけない。わかっている。わかってはいるけれど。
 ――ほんまは、ハラテツ先輩、この試合、自分で出たかったんちゃうかな。中学最後の試合かもしれへんかったのに。せっかく毛利さんとの試合やったのに。
 言葉の代わりに溢れてきた涙が頬を伝うのを感じて、慌ててジャージの袖で顔を隠した。

「……麻衣、お前は優しい子やな〜」
「ハラテツ先輩……」
「全部伝わってる。おおきに。せやけど、謙也がアイツに勝てばええだけのことや」

 ふと、頭の上に、ぽん、と温もりが落ちてきた。ハラテツ先輩の手が私の頭を撫でる。その優しさに、また涙が出そうになった。

「一緒に謙也の応援、しよな」

 ――こういう人やから、私は、もう1年以上、ハラテツ先輩を好きなままなんや。

***

 3年生の引退式が終わった後、部室のイスに座り、泣きすぎて腫れた瞳を、水で濡らしたタオルで冷やしていた。謙也は未だにあの毛利さんとの試合の敗戦を引きずっているようだったけれど、引退式でのハラテツ先輩はとてもすっきりした顔をしていた。「来年の四天宝寺は、お前らに任せたで」とさらっと言い残し、そのあとは出し物のユウジと小春の漫才に爆笑したりと、あまりにいつも通りのハラテツ先輩だった。だからこそ、ハラテツ先輩や、3年生の先輩方が次の練習からいなくなるなんて信じられなくて、寂しすぎたのだ。

「ハハ、麻衣、泣きすぎや。今生の別れってわけやないんやで?」
「そんなんわかってます……」
「麻衣はホンマに可愛いな~。妹みたいや」

 その言葉に、胸の奥がきゅっとなった。「妹」。家族みたいに大切に想ってもらえていることはとても嬉しい。けれど、それと同時に、やっぱり彼の中で私は「妹」でしかないのだと認識してしまった。
 ――わかってたことやろ? ハラテツ先輩が好きなんは、白石のお姉さんやし。今更傷つくこともあらへんやん。
 なのに、今度は呼吸がうまくできない。涙が溢れて止まらない。私が泣いているのは、”先輩たちが引退して寂しいから”。それだけの理由に見えていることを心から願った。
 しかし、一人だけ、ごまかせなかった人物がいる。

「……少しは、落ち着いたか?」

 そう問いかけてきたのは、白石だった。白石以外の部員はもう帰路についていて、部室に残っているのは彼と私の二人だけだ。

「……うん。ありがとう。タオル、明日洗って返すな」
「ハハ。急がんでもいつでもええよ」

 ずっと泣きっぱなしの私を見かねて、これで目元冷やしや、と濡れタオルを提供してくれたのも白石だった。そして部室の鍵を持っているのも白石なので、こうして私の様子が落ち着くまで、最後までつきあわせてしまっている。申し訳ない気持ちもありながら、今だけは白石の優しさに甘えたい気持ちもあった。おそらく彼だけが、私の涙の本当の理由を知っている。

「……妹みたいなんやって」
「ああ。そう言うてはったなぁ」
「白石も、妹……友香里ちゃんがおるやろ」
「ああ。おるで」
「お兄ちゃんとしては、妹にどんな気持ちを持ってるもんなん」
「……せやなぁ……ちょっと生意気なとこもあるけど、可愛くて、いつも笑顔でいてほしいって感じかな」
「……そっか」

 白石のそんな回答に少し救われつつも、やはり心の重さはなかなか消えない。
 しばしの沈黙。ただ、それを破ったのは、意外にも白石だった。

「それにしても『妹』なぁ。ハラテツ先輩も、結構酷やな」
「……」
「麻衣。自分、前に言うてたやろ。『こんな気持ちなくなってしまえばええのに』って」
「……うん」
「もう、無理やりなくすんやめて、正直に気持ち伝えてみたらどうや?」
「え!?」

 まさかの提案に、思わず涙も引っ込んだ。白石は続ける。

「無理やり気持ちなくそうとして、けど、なくならへんくて、今日かてこんなに泣いて。見てるこっちも辛いで」
「白石……」
「それやったら、いっそのこと告白してみるのもありなんちゃう? たとえハラテツ先輩がうちの姉ちゃんのこと好きやったとしても、告白することで意識してもらえるとか、ワンチャンあるかもしれへんやろ。それに……俺自身の話で恐縮やけど、気持ちに応えられるかは置いておいて、女の子に『好きや』って真剣に告白してもらえることは、ホンマに嬉しいで」
「……そうなんや」
「――正直言うと、俺が断るのわかってて気持ち伝えてくる子のが多いし。気持ち伝えたいだけやった、ってはっきり言われることも結構ある。そうやって自分の中で区切りつけてく方法もあるんちゃうかな」

 白石のそんな言葉に、思わず納得してしまう。確かに彼の言う通りかもしれない。こんな気持ちなくなってしまえばいいと思っていたのに、結局1年以上もずっと私はハラテツ先輩を好きでいることをやめられなかった。区切りをつけるには、思いを伝えるのも一つの手段かもしれない。白石は、私のまんざらでもない表情を確認すると、言葉を続ける。

「ハラテツ先輩がどんな返事するかは知らんけど、少なくとも麻衣や俺の知るハラテツ先輩は、後輩の女の子に真剣に『好きや』言われて、迷惑に思ったり、無碍に扱うような人ではない。違うか?」
「……うん。全部白石の言うとおりやと思う」
「麻衣……」
「今すぐ、は、まだ勇気出ぇへんけど……先輩が卒業するまでずっとこのままやったとしたら、そのときはちゃんと伝えてみる」
「おいおい、卒業て。あと半年あるで?」
「うん。せやけど、きっと半年なんてあっという間やで。現に今年の4月から今日の引退式までの間も、振り返ったらあっという間やったもん」

 そう言うと、白石は「言われてみたら、そうやな」なんて笑っていた。

***

 夏至から2か月が過ぎ、いつの間にか日が落ちるのが早くなっていた。夕焼けに染まった空の下、自転車を押しながら、天王寺駅までの裏道を久しぶりに麻衣と歩く。彼女のスクールバッグを収めた自転車のカゴの重さが、どこか心地よかった。彼女の涙は今でこそ引いているが、いくら濡れタオルで冷やしたとはいえ、目元は少し腫れている。そんな彼女が不意に「なぁ、白石」と話しかけてきた。

「ん、何?」
「ほんまに……ありがとう」
「……何やねん、藪から棒に」
「ふふ。改めてお礼言いたなってん。白石しか私の気持ち知らんのもあるけど……今日は特に白石に救われたなって」

 彼女はそう言いながらこちらを見上げる。その夕陽に照らされた笑顔を見て安堵した。やっと笑えるところまで戻ってきたんやな。

「ハハ。大したことしてへんで」
「大したことしてるよ。白石のことを好きになる女の子たちはホンマに見る目あるなぁって思う」
「おっと、いきなり持ち上げるやん?」
「もう、茶化さんといてよ。真面目に話してんねん」
「そら、すまんかったな」

 そう口では謝りながらも、内心動揺していた。いきなり何を言い出すねん、この子は。

「やっぱり、白石は優しいし、めっちゃ頼れる人や。かっこええなぁって、今日改めて思ってん」
「……。そないほめられても、なぁんも出ぇへんで」
「別になぁんも出んでええよ、そういうつもりで言うたんやないし。……って、あれ、ごめん変なこと言うた……?」
「え?」
「……白石、ちょっと困った顔してるから」

 麻衣に言われて初めて、自分の感情が表情に出てしまっていたことに気づいた。慌てて「いきなりドストレートにほめられすぎて困っただけや」なんてごまかしてみたものの。
 ――これ、結構キツイな。
 彼女は常に『俺』を見てくれている。彼女は、俺のことを好きになる女の子たちは見る目があると言ってくれるが、実際は、その女の子のうち、『俺』を好きでいてくれる子はほんの一握りであって。大半は外見やテニスの腕など表面的なところしか見ていない子ばかりだ。ただ、麻衣は、常に俺の本質を捉え、中身を見てくれる。そんな彼女だから、他の部員には言えないような弱音もこぼせたし、そんな彼女だから、俺は彼女を好きになった。
 なあ、麻衣、そんなん言うてくれるんやったら、――ハラテツ先輩やなくて、俺でええんちゃうの?
 そんな本音が喉まで出かかったが、理性で抑えこんだ。彼女にとって俺が対象外だからこそ、こんなセリフが出てくることもわかっている。だからこそキツイ。
 胸が、痛い。

to be continued.
2025.10.28