01. ひみつの共有

 秋の新人戦も終わり、季節は冬へと移ろっていく。三年生が引退し、一・二年生だけが残された四天宝寺中テニス部は、来年に向け他校と練習試合を組んで実戦を積んでいた。
 練習試合を組むということは、当然マネージャーの仕事も増える。今回は相手の学校がこちらに来てくれるということで、諸々気を遣った。だから私は、練習試合が始まって初めて、フェンス越しに試合を眺めているその人の存在に気づいたのだ。

(わあ、きれいな人……)

 おそらく道を歩けば誰もが振り向くような美人。人生で見た女性の中でおそらく最も綺麗な人。どうしてさっきまでその存在に気づかなかったのか不思議なくらい、彼女はオーラを放っている。
 一方で、その女性になぜか既視感があるのも事実だった。こんな綺麗な人、一度見かけたらもう二度と忘れないような気もするのに。

***

 その人が、白石のお姉さんだとわかったのは、練習試合が終わって、相手の学校が帰った後だった。
 私が部室に戻ると、彼女は部室にいた。決して出しゃばるわけでもなく控えめなのに、きちんとその存在感は醸し出している絶妙なバランスで「弟がいつもお世話になってます」と挨拶をしている。そうか、どこかで見かけたことのある気がしたのは、その二重の目元や、通った鼻筋、色素の薄い髪が、白石と似ていたからだった。こういう立ち振る舞いも、言われてみたら白石に通ずるものがある気がする。
 そのうち、あの人も部室へ戻ってきた。原哲也――通称・ハラテツと呼ばれている彼は、私にとっては一つ上の先輩で、今は四天宝寺中テニス部の部長をしていて――そして、誰にも言ってはいないけれど――私の、好きな人だ。

「ハラテツ部長。白石の姉さんが部長に挨拶したいんやって」
「白石の姉さん?」

 謙也が部長にそう言うと、彼ははじめて彼女――白石のお姉さんが部室にいることを認識したようだ。そして。

「うちの蔵ノ介がいつもお世話になってます」

 そう頭を下げた白石のお姉さんが、顔を上げた瞬間。ハラテツ部長は――少なくとも私が四天宝寺中テニス部にマネージャーとして入ってから今日まで、一切見せたことのない表情をしていて。
 瞬間、私は、気づいてしまった。
 ハラテツ部長のことを、密かにずっと見つめてきた私だからこそ、本当は気づきたくなかったことに、気づいてしまった。
 ――今この瞬間、彼は、白石のお姉さんに、恋に落ちてしまったのだ。

***

「麻衣。そろそろ鍵、閉めるで」
「ごめん白石。私のせいで遅なった?」
「いや、気にせんでええよ。俺もさっきまで自主練してたし」

 あの日から月日は流れ、私は中学二年へと進級していた。相変わらずテニス部のマネージャーを続けていたけれど、この春、大きく変わったことがある。それは、部長の座が、ハラテツ部長から、同期の白石に明け渡されたことだ。
 部室の鍵の管理も今は基本的に白石がしているので、こうして遅くまで残っていると白石に迷惑をかけてしまう。慌ててデスクの上を片付けていると、彼は「焦らんでええって」と笑うので、余裕のない子供じみた自分が少し恥ずかしくなった。

「すまんなぁ、一年が入部してきて、麻衣の仕事も一気に増えたやろ。全然手伝えへんくて」
「もう何言うてんの。部の皆が練習に集中してもらうために私がおるんやろ?」
「……。それ言われたら頭上がらへんわ。頼りにしてんで、敏腕マネージャー」
「ん。任しとき、白石『部長』!」

 一年間テニスを通して苦楽を共にした私たちだ、そのまま「ほなまた」と別々に帰るような間柄ではない。そのまま自然と一緒に下校する流れとなった。
 自転車通学の白石は、隣で自転車を押しながら苦笑いしている。そしてそれを見て――あー、今のは地雷やったかも。と、少し反省した。

「……ごめん」
「何で謝んねん」
「いや、白石もいきなりの重責で大変やのに、茶化すようなこと言うてもうたなぁと」
「……ハラテツ先輩の偉大さが身に染みるわ」

 白石の口から出たその名前に、内心どきりとする。甘いような、苦いような、その響き。あの日から私は、ハラテツ部長、改め、ハラテツ先輩からこっそり距離を置いていた。好きな人には、別に好きな人がいる。そんな叶わない恋心はなくなってしまえばいい。自然と諦められたらいい。なのに、距離を置いたって、やっぱりハラテツ先輩は事あるごとに「うちの部があるのも、麻衣のおかげやで!」なんて褒めてくれて、いつも楽しく笑わせてくれて――この恋心はなくなるどころか、どんどん好きになってしまっていて。
 でもこの気持ちは周囲にはちゃんと隠せているはずだ。現に同期や友達から「白石(くん)のこと好きなん?」とか「白石(くん)と付き合うてるん?」とか聞かれたことは何度もあり、その都度否定してきたけれど、残念ながら(?)「ハラテツ先輩のこと好きなん?」と言われたことは一度もない。
 ちなみに白石と付き合っているように勘違いされるのは、おそらく今日みたいに一緒に帰るところが何度か目撃されているからだと思う。たまに勘違いされて、白石のことを好きな女の子たちから変に嫉妬をされて、面倒な時もあるけれど、そんなことより白石と築いてきた友情のほうが私にとっては重要で、彼を避ける理由にはなり得ないのだ。

「ハラテツ先輩は確かにすごいよなぁ」
「麻衣からは、ハラテツ先輩は具体的にどう見えてるん?」
「……何やろなあ。表面的には明るいしおもろいし優しいで、誰もハラテツ先輩のこと嫌いな人なんておらんやろ。けどそれだけやなくて、ほんまはめっちゃ部のこと考えてて、めっちゃ視野広くて。それこそ部のためやったら『部長』って肩書も何のためらいもなく後輩に渡せる器の大きさとか。そういうんは、ほんまにすごい人やなぁって思うよ」
「……ほんまにその通りやと思うわ」

 白石は私の言葉を聞くなり、少し落ち込んだような声色で言う。きっと自分と比較してしまったのだろう。

「せやけど、白石やってすごいよ」
「俺?」
「うん。白石もちゃんとみんなのこと見てるもん。その証拠に今日も自分の練習が後になってもうてるやん。部のことめっちゃ考えてるのはあえて言葉にせんでも伝わってる。それも、私だけやないと思う。同期も、先輩も――それこそハラテツ先輩にやって伝わってるよ」

 そう言うと、白石は「……せやな」とさっきよりは明るい声に戻ったので一安心だ。もちろんお世辞でも何でもなく本心である。同期の白石は、本当にすごい。テニスの腕は、教科書を通り越して聖書と呼ばれるほど完璧で強い。そしてそれが並大抵ではない努力の結果であることも知っている。

「麻衣」
「ん?」
「……自分、ハラテツ先輩のこと、ほんまに好きなんやな」

 ん? え? 今なんて!?
 あまりに突然すぎる白石の発言に頭が真っ白になる。

「えっ、ど、どういう……!?」
「そのままの意味やけど。麻衣はハラテツ先輩のこと、前から好きやろ?」

 あまりにさらっと。あまりに当然のことのように白石がそう言うので、私の中の全身の血がどくどくと音を立てて回り始めた。

「な、何で? ちゃ、ちゃうよ、そんなん!」
「ハハ。真っ赤や。全然隠せてへん」

 相変わらず余裕のない私と、余裕綽々で笑っている白石。もうごまかしたって無駄だ。観念した私は、問う。

「……いつから知ってたん?」
「一年の夏くらいから?」

 その回答に、さらに驚く。ちょうど私がハラテツ先輩を好きだと自覚した頃だった。にしても、今まで「ハラテツ先輩のこと好きなん?」なんて言われたこと、一度もなかったのに。まさか初めて言い当てるのが、白石とは思わなかった。

「……絶対誰にも言わんといてな」
「ん。言わへんから安心しい」
「でも、そんなわかりやすい? 顔出てる?」
「いや……俺以外誰も気づいてへんのとちゃう?」
「よかったぁ……ほな、何で逆に白石はわかったん」
「……。さあ、何でやろ?」
「まぁ、白石はみんなのことよう見てるもんな。部長になる前から」

 そう言うと、白石は「ほんなら、そういうことにしとこかな」と軽口をたたく。

「もう、冗談ちゃうのに……」
「ハハ、すまん。せっかく真面目にほめてくれたのに、俺こそ茶化してもうた」
「……なんで茶化したん」
「さあな」
「さっきからそんなんばっかり」

 なんとなく白石の発言が腑に落ちなくてもやっとしたけれど、それ以上突っ込んでも堂々巡りな気もして、深追いをやめた。私がハラテツ先輩を好きなことが白石にばれたところで、ハラテツ先輩の好きな人は白石のお姉さんなので、どうせ何も現実は動かないのだ。
 隣にいる白石を見上げると、白石は「ん?」とこちらに視線を返す。その整った顔は、改めてお姉さんによく似ている。そしてそう思った瞬間、やはり胸の奥がずしりと重くなるような感覚があるのだから、私の初恋はまだまだ消えてはくれていない。

to be continued.
2025.5.16