土井先生のことを、教師として、師匠として、尊敬申し上げている。この事実に偽りはない。
ただ、それに加えて、もう一つの特別な感情を抱いてしまったことを、私は悔いている。だって、相手は「先生」なのだ。尊敬すべき対象であるお方に、そんな感情を抱くなんて畏れ多い。なのに、十五の私は、その感情に抗うことができなくなってきている。
――まさか、土井先生のことを、お慕い申し上げている、なんて。
このことは、誰にも口が裂けても言えない、墓場まで持っていく、私の秘密。
*
「麻衣は、火薬に興味があるんだな。私で良かったらいつでも質問においで」
一年生の頃から火薬の授業が好きだった。火薬の授業は、くの一教室に土井先生が出張してきて教えてくれたので、自然と私は先生の元に質問しに行く機会が多くなった。十歳のくのたまの子供が、当時二十歳の新米教師に質問をする。自分のことながら、傍から見て可愛らしい光景だったろうと思うし、実際に土井先生はそんな私を可愛がってくれた。おかげでどんどん火薬についての知識が豊富になって、六年生になった現在、在学中の生徒の中で仙蔵の次くらいには火薬に詳しいと思う。しかし、最近は土井先生のところに質問しに行く足が、遠のいている。
本当は、もっとお伺いしたいことがたくさんある。授けていただきたい知識がたくさんある。ただ、十五歳の私が、二十五歳の土井先生のところに質問しに行くのが、どこか気恥ずかしいと思い始めたのだ。先生は私のことをただの生徒、ただの子供にしか思っていないのは、十二分に理解している。ただ、私の方が。
そして、土井先生は、そんな私の気持ちの変化に気づかないほど、鈍いお方ではない。だってあのお方は一流の忍なのだから。たかが生徒一人の心、読めないはずがないのである。そう思ったら、土井先生に話しかけるところか、土井先生の顔も見れなくなってしまって。
「……はあ」
煙硝蔵。周りに誰もいないことを良いことに、思わずため息をついてしまった。明日からの課外授業で必要な火薬の調合に必要な硝石が無くなってしまったので、取りに来たのだ。普通のくの一なら、もう少し色を使ったり、女であることを利用した術で課題を達成するのだろうけれど、どうも私に色の術は向いていないようで。それなら得意な火薬武器と頭に叩き込んだ兵法で、と思ったのである。
(それもこれも、土井先生譲りだ)
孫子、呉氏、尉繚子、六韜、三略。先生がお勧めしてくださった兵法書は私も読み漁った。勿論先生の知識には適わないけれど、学年が上がるにつれて同級生がどんどん学園を辞めていき、最終的に一人になってしまったので、これらの読書はくのたま長屋での孤独な時間を癒してくれるものでもあった。火薬も兵法も、知れば知るほど先生の知識がいかに深淵なものかが身に染みた。そして、土井半助という人も、知れば知るほど、やさしくて。強くて。格好良くて。なのに練り物が苦手で。学園長先生に振り回されていて。それがなんだか先生なのに可愛くもあって。
思春期という多感な時期に、こんな魅力的な先生をくのたまと接触させないでほしい、と逆に思う。きっと私以外にも土井先生に憧憬の念を抱いていた仲間はいたはずだ。あまりに畏れ多くて、誰も口には出さなかったけれど。そしてその仲間も、もういないから、確かめようもないのだけれど。
そんな考え事をしながら、いつもの棚から硝石を取り出す。煙硝蔵はいつも薄暗いけれど、もう六年目、何がどこにあるかはすべて把握している。――と、不意に背中に気配を感じた。殺気は感じないが、思わず振り返る。
「っ!?」
「久しぶり。私の気配に気づかないようじゃ、まだまだだな」
「先生こそ……そんな抜き打ちテストしないでくださいよ。一瞬曲者かと思いました……」
目の前にいるその人は、まさに土井先生だった。まさかこんなところで先生に遭遇するなんて、と一瞬驚いたけれども、すぐに思い直した。先生は火薬委員会の顧問である上に、火薬の授業も受け持っているのだから、煙硝蔵に出入りして当たり前だ。私の方こそさっさと用を済ませて、出ていかなくては。
「って先生に対して失礼ですよね。申し訳ありません。私の方が邪魔ですし、もう出ていきますから」
「麻衣。そんな急がなくてもいいよ。次の課題に、硝石が必要なんだろう」
「はい……」
「本当に硝石だけで良いのか?」
「……本当は、硫黄と木炭も頂けたらと思っていました」
「そんなことだと思ったよ。急がなくていいから、ちゃんと必要な分持っていきなさい」
そう言う土井先生は、いつも通りの爽やかな笑顔を浮かべていた。一年生の時はその笑顔に父性を見出していたような気もするけれど、今となっては別の感情で心臓がどきどきしてしまう。思わず直視できずに目を逸らした。棚の壺から必要な材料を必要な分だけ調達しながら、私は先生に問う。
「先生も、これから授業で必要なものを取りに来られたのですか?」
「うん。明日は一年は組で火薬の授業だから、事前準備が必要でね。みんなが麻衣や仙蔵みたいに興味を持ってくれたらいいんだけど、今から胃が痛いよ」
先生も先生で、必要な火薬材料の入った壺を棚から下ろしていく。お互いただ明日の準備をしているだけ。それだけなのに、緊張して震えそうだ。狭い煙硝蔵で、今まで避け続けてきた先生と二人きり。黒い忍び装束を身に着けた先生は、相変わらず整った顔立ちをしている。一年生の頃は先生の顔立ちなんて気にしたこともなかったが、成長するにつれて、その横顔を見るたびに毎回格好良いな、なんて思ってしまって。
普通に町娘として先生に出会っていたらもう少し違ったのだろうかとも思うけれど、こうして忍術学園の生徒になったからこそ土井先生と出会えたのだし、何より普通の町娘だったとしたら、先生の忍としての実力を知り、こんなに心から尊敬申し上げることもなかった。そんな相反する感情を抱えながらも、どうしてよいかわからない。だって、ここ数か月、ずっと先生との接触を極力避けてきたのだ。
とはいえ、何とか私の方は準備が整えられた。さっさとここから出たい。緊張から解放されたい。決して叶わぬ恋にこれ以上焦がれたくもない。
「――先生、私の方は整いましたので、先に行きますね。それでは」
先生の方に向かって最敬礼。直角に頭を下げて、そして身体を起こしたときだ。
「麻衣」
「せ、先生……?」
「私は、お前に聞きたいことがあるんだ」
珍しく鋭い声色でそんなことを言われて、肝が冷える。身体中が緊張して、動けない。
――先生、もしかして怒っていらっしゃる……?私、何かしでかしてしまった……?
「麻衣。お前は私のことを避けていただろう?」
「……はい」
「……私は、お前に何かしてしまったのかな」
そう言う先生の声色は、いつもよりも少し頼りなげで、思わず顔を上げてしまった。すると、先生の少し心配そうな、悲しそうな瞳と目が合う。
「毎日のように来ていた火薬の質問も、ぱったりなくなるし。まともに顔も見てくれなくなったし。挙げ句の果てに、は組の良い子達には『先生、麻衣先輩に嫌われちゃったんじゃないですか?』なんて言われてしまったよ」
――え。先生、もしかして、気付いてない?
そんな驚きが先に来てしまった。私の恋心などとっくに先生にはお見通しだと思っていたが、実は気づいていなかった?そうだとしたら、先生が今おっしゃった通り、私は突然先生から距離をとった生徒となり、先生がその原因を気にするのも頷ける。
先生のその悲しそうな顔を見るのに耐えられず、私は慌ててブンブンと首と両手のひらを振った。
「ち、違います! 先生が嫌いとかあり得ませんから! 先生のせいじゃないんです! 先生が何かしたとかそういうのではないんです。なので本当にお気に病まないでください。逆に、申し訳ありません」
「じゃあ、何で急にそんな態度が変わったんだ?」
「それは……その……」
どうしたら良いのだろう。先生のことをお慕い申し上げているからです、なんて本当のことが言えるはずもない。すると不意に、右手首がパシッと捉えられる。勿論捉えたのは、目の前の土井先生の左手だ。
先生の手、やっぱり大きい。そんなことに一々ときめいている場合ではないのだが、やはりどきどきするのは止められない。触れられた右手首だけが熱い。
先生はそのまま私を薬品棚に軽く縫い付けると、自身の身体と棚の間に私を閉じ込める。逃げ道を失った私が、先生の顔を見上げると。
「麻衣。お前は私のことを、好いていてくれている。違うか?」
誠実で真剣な、そしてその奥に熱情を秘めたような瞳に、吸い込まれそうになった。先程まで春の陽気のような朗らかさを身に纏いながら、明日の授業の準備をしていた『土井先生』は何処へやら――今目の前のこの人は、教師ではなく、齢二十五の一人の男としてそこに存在しているように思えたのだ。本能的に身体の芯が疼き、身体中が熱を持っていく。
――やっぱり先生、お気づきだったんじゃないですか。気づいているのに何故敢えて生徒にそんなこと言わせようとするのですか。どうせ想いを伝えたところで、叶うことのない恋なのだし、気づかないふりをしてあげるのが、大人なのではないですか。
訴えたいことが頭の中を去来するのに、一言も言葉にならない。ただ、きっと目の前のこの人は、私の顔を見るだけで、私が言いたいことなんてお見通しなのだ。だって、この人は私の想い人である前に、十歳の子供の頃から近くで見守り続けてきてくれた、私の先生なのだから。
「……違わないです」
何とか言葉にできたのはその一言だけだ。ただ、それを聞いた目の前の彼は、彼自身の身体と後ろの棚で私を挟み込む体制は崩さずに、柔らかに微笑む。
「そうか。良かった」
「良かった……?」
「……教師としては褒められた感情ではないのは百も承知だが……麻衣、お前の所為だぞ」
「私ですか!?」
「つい最近まで子供だと思っていたのに、こんなに魅力的な女性になるなんて」
え、もしかして、土井先生――。
思わず目を丸くした私の顎が、先生の右手の親指と人差し指で捉えられる。そのままクイ、と更に上を向かされたかと思うと、先生の綺麗な顔が目の前にあった。
「大人になったな」
「……先生」
「――私も好きだよ」
耳元でそう囁かれたかと思うと、先生の唇が私のそれに合わさった。そのまま彼は暫く私の唇を喰むのを楽しみ、それはどんどん深いものに変わっていく。確かにこれはもう、先生と生徒がするようなそれではない。煙硝蔵の中に、互いの吐息が、微かに漏れる。墓場に持っていくはずだった秘密も、この蔵の中で蕩けていった。
Fin.
2025.1.1
先生視点がとても書きたい。
そうじゃないとただのロリコンな気がして笑