保護中: 月の夜は眠れない

「先生、おはようございます」「土井先生、おはようございます。今朝はゆっくりですね」「……あーいや、その」「練り物ですか」「……はい」 食堂で出会った土井先生は、弱った様子で箸に挟んだはんぺんを見つめている。 私が朝食を摂りに食堂へ来るのは、他の男性の先生方よりも少し遅い。単純にお化粧など、男性よりも朝の準備に時間を要するからだ。だから、大抵私が朝食を摂る頃には、男性の先生方の姿はすでにないのだが、稀にこの人は居残りで練り物と闘っている。 「今日は生憎、生徒達がいないですものね」「そうなんですよ。いつもならは組の誰かが食べてくれるんだけどなあ」 学園長の思いつきで、全校生徒で課外授業が行われている。教師陣も八割方彼等を見守るために出払っているのだが、学園で留守番をする教師が一人もいないのもまずい。それで、残りの二割が残っているのだ。 「先生。その……」 遠慮がちにではあるが、一縷の望みに縋るように、彼はおずおずと私の方を見つめる。立派な成人男性だというのに、小動物が飼い主を見つめるようなその表情は、何かの性癖に刺さりそうになるが、だからといってその手には乗るものか。 「もう、そんな顔しても駄目ですよ。大人なんだから好き嫌いはいけません」「……。山田先生と同じこと仰るんだから」「何か言いました？」「いえ」 あえてツンと突き放すと、土井先生は目に見えてガッカリした様子で、はんぺんを箸で刻み始めた。恐らくこの人は、お茶で流し込むという最終手段に踏み込もうとしている。普段あれだけ忍として優秀な土井先生が、無心ではんぺんを刻んでいるそんな様子が可愛らしくて、思わず吹き出してしまった。そして吹き出してしまった私を見て、「どうぞ笑ってくださいよ」と隣で土井先生は拗ねている。 忍術学園では、圧倒的に私より年上の先生が多い。私にとって直属の上司にもなる山本シナ先生にいたっては、年齢不詳である。そんな中で、こういう軽口を叩くことができる唯一の同僚が土井先生だった。土井先生には「くの一に年齢はありません」と誤魔化しているけれど、私は彼と同い年だし、言わないだけで、彼もそれを知っている。あくまで同僚なので『友達』というのは違うけれど、ただ、関係性としてはそれに近いのかもしれない。だからこそ、気心が知れたこの関係性が、私は好きだった。 ＊＊＊ 時は室町、平穏な時間は、長くは続かないものだ。課外授業の留守を守っているはずだった私の任務は、今日の昼間に忍術学園に侵入した曲者を捉えることと、その曲者の親玉を確認することに変わってしまった。 「こんな時に侵入者……試験問題作らなきゃいけないのに」「全く同感です……」 大量の業務が残っていた中での急な出張に半泣きの私。その私に相槌を打ってくれたのは、朝、はんぺんと悪戦苦闘していた土井先生だった。 昼の侵入者の実力は大したことがなく（とはいえ小松田くんを振り切って侵入できた実力だけは認めるが）、捉えようとすれば直ちに捉えられた。だが逆にそれを利用して、彼に気づかれぬよう尾行すれば、誰も傷つけることなく、一番手っ取り早く親玉を掴める、という結論に至った。二割残っている教師の中で一番の若輩者は我々二名である。その為、我々二名がその面倒な任務にあたるのは、極めて自然な流れであった。 侵入者は、今は町人に紛れて町中を歩いているので、私たちもそれぞれ変装……というよりは私服に着替えて、歩いている。 「くの一教室は来週中間テストですけど、一年は組もですか？」「は組は、今週中間テストは終わったのですが……あまりに点数が目の検査で、追試でどうにかできないかと……」 そう言いながら、遠い目をする土井先生。彼も苦労人である。 「っと、そうだ」「ん、どうかされました？」「町中で紛れているとはいえ、そろそろ人も多くなってきたので、ここで『先生』と呼ぶのは避けていただいたほうが良いですね。ここでバレると色々面倒なので」 確かに、今日は市が出る日でもあり、先ほどまではまばらだった人の行き交いが一気に多くなっていた。 「そうですね。どういう設定で行きます？」「普通に夫婦が良いのではないでしょうか。一番怪しまれにくいので」「じゃあ、『半助さん』ですね」「っ――」「あれ、お顔が赤いですね。こういうの、お好きですか？」 普段は同僚だけれど、こうして任務の時は、少しはくの一らしく。再度下の名前を呼んで、ぎゅっと腕を組む。少し揶揄っただけなのに、土井先生は耳まで赤くして、初心な反応だ。そんな反応したところで、同じ忍、過去には任務上沢山の女性と夜を共にしたこともあるでしょうに。とは思うけれど、それは言わないのが礼儀だ。 「では、半助さん、行きましょうか」「はい」「……半助さんこそ、夫婦なら名前で呼んでくださいね？」「そう……ですね。ではそうしますよ、『さん』」 ――え。ちょっと、待って。何これ。自分から言い出したことであるのに、あの土井先生が私を名前で呼んだことに、一瞬でむず痒さが身体中を駆け巡った。 「あれ、さん、お顔が赤いですね」「！」「さんも、こういうのが好きなのかな」 仕返しとばかりに、楽しそうにニコニコと私の顔を覗き込んでくる土井半助が、私は嫌いである。 ＊＊＊ あの人、普通に宿取ろうとしてません？ 矢羽音でそう話しかけると、土井先生は、そうですね、とやはり矢羽音で返事をする。 曲者の後をそのまま尾けていると、宿場町にたどり着いた。どこかの頃合いで仲間と落ち合うのかと思いきや、普通に宿屋に行き、宿を取っている様子である。 「半助さん、今日は私達も宿に泊まりますか」 今度は普通に夫婦のテイで話しかけると、土井先生も今度はいつもの声で「そうですね」と答える。できれば情報を取るには曲者の隣の部屋が良いし、偽名であっても曲者の名乗っている名前を知りたい。幸い、上手いこと事前に宿の帳面を盗み見ることができたので、曲者の偽名を知ることもでき、隣の部屋を指定することもできた。 「あー、あの部屋は角部屋でしてね。眺めも良くて、あなた方のような若いご夫婦にはお勧めですよ」 何も知らない気の良い亭主は、そんなことを言う。曲者の隣の部屋だから指定しただけなのに、何故かその言葉を意識してしまう自分がいて驚いた。一応私はくの一で、忍術学園で教師になる前は、色事も扱ってきた身だ。ただ、仕事で扱うが故、相手は見ず知らずの男や、任務上数日を共に行動するだけの忍のみ。土井先生のような、数年単位で普段から付き合いがある人間と、こういう任務をするのは、初めてなのだ。とはいえ、あくまで夫婦のフリをしているだけなのだし、隣の部屋を一晩中見張る必要があるので、夜は何もないはずだけれど。 ＊＊＊ 無事隣の部屋に到着した私たちは一層演技に気をつける。こちらから隣の様子が窺えるということは、あちらからもこちらの様子が分かるということなのだから。 「半助さん、そろそろ寝ましょうか」「そうしましょう」 あくまで会話だけは夫婦のように。ただ、隣の部屋との壁に耳を寄せて、曲者の様子を窺う。（……鼾、ですよね）（そうですね……しかも、本物の……）（あんな暢気な忍者に易々と侵入されて大丈夫なんですか、うちの学園は……）（まあ、小松田くんが取り逃したって言うから……）（（うーーーーん）） 小声で会話しながら、二人で頭を抱える。この状況なら一晩中隣の部屋を見張るのも時間の無駄な気がするし、土井先生と私の実力ならば、隣の曲者が何か動こうとした瞬間に気配を察知して、すぐに動けそうでもある。土井先生は何かを決断すると、ため息混じりに言った。 「さん。本当に寝ましょうか。明日も早いし」 適切な判断力と体力を保持するために、睡眠は不可欠だ。嫌でも何日も眠れない任務が多々ある中、眠れる時に眠っておくことは重要である。（私は起きていますので、先に先生から仮眠をとってください）（いえいえ、土井先生こそ先に……） コソコソとそんなやりとりをしつつも、土井先生の押しが強く、結局私が折れた。灯りをフッと消すと、部屋は月明かりのみとなる。今日は満月が近い。忍者としては避けたい夜だけれども、宿の亭主が言っていた通り、部屋からの眺めはよかった。部屋から見える月が美しい。 「綺麗な月夜ですねえ」 布団に入りながら、今は夫役である土井先生にそう話しかけると、彼は「そうですね。でもさんの方が綺麗だ」なんて呟くから、一気に恥ずかしくなった。夫婦のフリをしているのだから、本気にしてはいけないのは分かっている。ただ、このままやられっぱなしも悔しくて、昼間のように再度揶揄ってみようと、ちょっとした悪戯心だったのだ。 「半助さん」「ん？」「……私、本当に寝てしまって、良いのですか？」 布団の中から上目遣いで、土井先生の寝巻きの袂をクイっと引っ張り、甘えてみた。すぐに冗談だとわかるような、いかにも演技です、という声色を作ったはずだったのに、何故か私自身から出た声色は、くの一の色仕掛けでも何でもなく、完全に何かを期待しているただの物欲しげな女のそれでしかなかった。え、ちょっと待って、これはやらかしたかも。 土井先生は、何にも答えない。その沈黙に、自分自身が一番焦り、そして消え入りたいほどの恥ずかしさで身体が熱くなる。いやいやいや今のはちょっとおふざけが過ぎました！本当に申し訳ありません！と謝罪の矢羽根を飛ばそうとしたのに。 次の瞬間、私は、組み敷かれていた。最初に視界に入ったのは、彼の寝巻きの緩くなった衿から見える胸板。そこから視線を上の方に動かすと、 「こら。そういう悪い子は、寝かせないよ」 混乱で、頭が真っ白になった。目の前の人が、今朝はんぺんに悪戦苦闘していた同僚と同一人物とは思えなかったのだ。 紅潮した頬。威圧的な表情。興奮を隠せない瞳。生徒に話すような口調。いつもよりも掠れた低い声。それだけで身体の中心が熱を持つ。 土井先生の男としての顔なんて想像したことがなかった。いや、想像するのを敢えて止めていた。くの一であることを選んだ私に、惚れた腫れたなんて不要なのだ。なのに。こんなのを見せられたら。 改めてしっかりと目が合った。その瞳には、欲情しきった女が映っている。土井先生から私は、今そう見えているのか。そう認識した瞬間、羞恥心が身体じゅうを駆け巡った。気の置けない同僚。友情に似た心地よい関係。そう思い込もうとしていたのに。（やっぱり、私は――ずっとこの人のことが好きだったんだ） ずっと、意識しないようにしていた。同僚の私にいつも朗らかで、優しくて、たまに母性本能をくすぐって。それでいて生徒達の前ではとても頼もしく愛情に溢れる先生で。好きにならないわけがなかったのだ。そんな当たり前のことを確信した瞬間、耳元で彼は囁く。 「あなたから仕掛けたんですからね」「ご職業柄、遊里にも行けないでしょうし……代わりになるようでしたら」 忍者の三禁と言うが、人間たるもの、時には欲に忠実になることもあるだろう。土井先生だって、いくらプロの忍だからといって、二十五の男。一応プロのくの一の私が誘ったのだし、それを受けて、無性に女を抱きたくなるときだって、きっとあるのだ。 好いた男に抱かれるのであれば、例え欲の捌け口でも良いものなのだろうか。などとぼんやり考えていると、目の前の人は明らかに不機嫌そうに言う。 「勘違いしないでください」「へ……」「私が、こういうことをしたいと思うのは、あなただけです」 あなたにとってこそ、仮初の一夜かもしれませんが。そう前置きをした彼の端正な顔が、こちらに近づいてきたと思ったら、唇が合わさった。ふに、という感触がやけに現実的だ。一瞬唇が離れ、もう一度それが触れた時には、半開きの口に舌をも捩じ込まれる。舌が絡むたびに、水音が耳の奥を刺激し、息の仕方を忘れる。口吸いをするのは勿論初めてではないけれども、こんなに甘美で何も考えられなくなるのは初めてだった。土井先生が、上手いのか。好きな人とするから、なのか。きっとその両方だ。一旦お互いの唇が離れると、どちらのものともわからぬ唾液の糸が月に照らされて光った。 「どい、せんせい」「そんな顔しても駄目ですよ。大人なんだから、自分の言動に責任取ってください」 何処かで聞き覚えのある台詞。それは、今朝、私が彼に言った台詞だった。ついに首元に口付けを落とし始めた彼は、驚くほど的確に私の性感帯を捉えるので、声が漏れるのを抑えることができない。 「……んっ。ふ、ぁ」「声、我慢しないでくださいね。隣の曲者にも、私たちが夫婦だと一層信じ込ませられますから」「……、せんせ、」「『半助』だろう？」「……はんすけ、さん」 そう呼ぶと、彼はより一層昂ったようで、首を着実に責めながらも、襟元にその節ばった手を滑り込ませる。直接胸に触れられると、思ったより熱を持ったその掌に、身体が震えた。不意に、脳裏に、一年は組のみんなと過ごすキラキラした笑顔の土井先生や、練り物が食べられずに食堂のおばちゃんに怒られている土井先生が浮かぶ。あの土井先生が、夜、こんな風になるなんて知らなかった。頭がおかしくなりそう。 「……ずっと、好きだったんです。さん」 隣の曲者に聞こえないように。というのは最早言い訳なのかもしれない。もうあの曲者の実力なんて知れていておそらく朝まで起きてこない。なのに、そんな囁くような突然の告白に思わず本能的にぎゅっと瞑っていた目を開けて、彼の顔を見上げる。 「すみません。くの一のあなたが、こんなことを言われても困るでしょうに」「……半助さん」「情けないな」 申し訳なさそうに眉を下げた彼は、いつもの『土井先生』の顔だった。なのに、その掌は私の胸を這い、そして腰を這う。いつの間にやら私の着物は乱されていて、上半身がほとんど外気に触れていた。先生に胸も何も全部見られてしまって恥ずかしいのに、そのまま触れ続けていてほしい気持ちが、恥ずかしさを上回っていた。 「……謝らないでください」「……さん？」「私も、あなたと同じ気持ちですから。だからその――仮初なんて言わないでください」 そう伝えると、土井先生の手が、わかりやすく止まった。身体への一切の刺激がなくなったので、一気に靄がかかっていた頭がはっきりする。彼は分かりやすく驚いていた。無理もない。私自身だって自分自身を誤魔化し続けて、ついさっき認めたばかりの感情なのだから。 「――そういう冗談は、好きじゃないな」「奇遇ですね。私も決死の思いの告白を『冗談』で済ませられるのは、好きじゃありません」「……本気ですか」「はっきり言わなきゃわかりませんか」 そう問うと、目の前の男は、期待と不安の入り混じるような瞳で私を見つめる。ここまでお互い着衣を見乱して、は組の良い子たちには見せられないようなことをしておいて、今更そんな可愛い純粋そうな少年のような顔をしないで欲しい。 「私も、あなたが好きです。土井先生」 ＊＊＊ 翌日、無事に任務を終えて忍術学園に戻ってくると、小松田くんが出迎えてくれた。 「土井先生、先生、お疲れ様でした」「あー、うん……」 珍しく土井先生がそんな生返事をしたので、小松田くんは不思議そうに言う。 「あれ、土井先生、お疲れですか？」「はは、少し寝不足でね」 そんな彼の回答に、思わずブーッと吹き出しそうになった。お茶を飲んでいる瞬間でなくて本当に良かった。とはいえ、小松田くんはそういうことに疎そうだが。 「私は急ぐのでお先に……」 何だか二人の会話を聞いていられなくて慌てて学園の門をくぐろうとする。そんな私に笑いを堪えられなくなったのか、土井先生はククッと喉を鳴らす。 「試験問題作り、あるんでしたもんね」「試験問題作りがあるのは、土井先生も一緒でしょう」 ジト目でそう言ったはずなのに、目の前の彼は「あっ、そうでしたね」と、笑顔でとぼけている。この上機嫌な人に、今日はどんな嫌味を言っても無駄なのだ。ただ、この人の上機嫌な理由を知るのも私しかいない。そんな事実に、私自身も悪い気はしないのだけれど。 Fin.2025.1.4 土井半助と対等な関係性になってみたい＆揶揄ってみたい＆敬語を使われてみたい欲を形にしました。解釈違いだったらすみません…！！！🙇