忍足謙也に情緒を乱される

「麻衣、聞いた?」
「んー何?」
「謙也、四組の鈴木さんと付き合いはじめたらしいで」

 そんな友人の言葉に、加えていたミルクティーの紙パックのストローから思わず口を離してしまった。

「その様子、聞いてへんかったんや」
「いや、鈴木さんてあの鈴木さんやろ? ミス四天宝寺」
「そうそう。どっちから告白したとか知らんけど」
「へえ~」

 興味がないふりをするのに、平然としているふりをするのに、精一杯で。その後の友人との会話の内容はあまり覚えていない。忍足謙也は、私の幼馴染であり、そして、誰にも言っていないけれど、密かに、何年も片想いしている対象の人物だったからだ。

 謙也とは小学校からの付き合いだ。小学校六年間でも同じクラスになることが多かったし、家が近所なので、防犯対策も兼ねてほぼ毎日一緒に登下校していた。そんな付き合いだから、親同士も仲が良くて、謙也の母親経由で謙也が中学受験をすると知った母から「あんたも四天宝寺中受けてみぃひん?」なんて唆されて、私自身も四天宝寺中に進学することになった。
 中学に入ってから、結果として謙也と同じクラスになることはなかった。ただ、廊下で会ったら挨拶もするし、忘れ物をしたときに貸し借りもしていたので、入学当初は「忍足くんと付き合うてるん?」なんて聞かれることも多かった。もちろん、付き合っていないから否定してきたし、謙也も謙也で同じようなことを聞かれていて否定していたのだろう、しばらくするとそんなことも聞かれなくなって。謙也の部活が忙しくなったから、登下校を一緒にすることもなくなって。
 そして、謙也との物理的距離が離れてしまって、寂しいと思っている自分に気づいたことが、私の恋の目覚めだ。謙也のことが好きだったんだと気づいたのは中学に入ってからだけれど、いつから好きだったかと言われると、これはもうかなり前からなのかもしれない。ただ、物理的距離が離れるのとは反比例して、謙也との連絡回数は増えた。学校では一言も話さなくても、毎晩他愛のない会話がスマホの画面上で繰り広げられている。その吹き出しが増えるたび、私の心の奥はじわりと温かくなった。
 謙也と手を繋ぎたい、とか、キスしたい、とか、あまりリアルなことは、恥ずかしくて考えたことがない。それだけ友達のような家族のような関係でいる期間が長すぎたのだ。ただ、謙也と私の間のこの特別な関係が、特別なままだったらいいな、と願っていた。そんなこと、叶うわけないのに。

「ただいま」
「おかえり。って、何や暗いな? 学校で何かあったん」
「何もないよ」
「そう?」

 母親は鋭い。すぐに見抜かれてしまうので、帰宅後、二階の自室まで急いだ。そのまま制服から着替える気力もなく、ベッドに倒れこむ。謙也、彼女できたんや。しかも、四組の鈴木さん。謙也に好きな子がおったんも知らんかった。鈴木さん、めっちゃ可愛いし、何や品あって、しおらしくて。私と正反対やん。うわ、あかん、ちょっと泣きそう。
 謙也のアホ、彼女おるんやったら、別の女と毎晩他愛のない連絡取ったらあかんやろ。
 それとも、私のこと、もはや「女」とも思ってへんのかな。
 いや、それあるな。六才からのつきあいやし、性別とか忘れ去られてるんちゃうかな。
 瞳にたまってきた水分が憎くて、思わず手でごしごしと擦った。こういうときに、ハンカチやタオルを使わないガサツな私。そんな私なんて、謙也にとっては、女としては箸にも棒にも掛からへん存在やったんやろな。
 なのに、だ。
 私のスマホは、制服のポケットの中で震えていて。どうせ何かの宣伝の通知だろうと高を括って取り出して驚いた。
 謙也からの通知だった。四組の鈴木さんの彼氏である忍足謙也から、なぜか私にメッセージがきている。
 昨日までなら、喜ぶ気持ちを抑えながら平然を装ってスマホを開いていたけれど、今に至ってはとても複雑な気持ちだ。謙也からの連絡は嬉しいけれど、謙也はもう他の人の彼氏であり、私にとっては失恋の対象で。そんな謙也から、一体何のメッセージなんだろう。恐る恐るトークルームを開く。

『鈴木さんと俺、付き合ってるって噂、聞いた?』

 うーわー。ど真ん中の質問やん。謙也が質問してきた意図は知らんけど。
 既読をつけてしまったので、あまり間を開けずに、いつも通り返信する。

『聞いたよ。おめでとう』
『いや、付き合うてへんけど』
『は?』

 え? 付き合うてへんの?
 もう何が真実かわからず、感情が迷子になる。さっきまで失恋して悲しくなっていたけれど、それは間違いだったらしい。だからといって謙也が私のことを好きになったわけでもないのだけれど。

『麻衣の耳まで入ってるっちゅーことは、ほんまに噂んなってるんやな……』
『どういうこと?』

 そう送った瞬間、謙也から今度は電話がかかってきた。あ、これ文字打つのめんどくさなったパターンやな、と悟る。

「もしもし?」
『突然スマン! 文字打つより話したほう早いと思って電話してもうた』
「そんなことやと思った。で、何?」
『……鈴木さんと俺、付き合うてへんねん』
「うん。さっき聞いたで。せやけど、それなら何で逆に噂んなったんやろ」
『ここだけの話やけど。この前、鈴木さんに告られてん』
「えっ!?」
『いや、俺もびっくりしたわ。そこまで話したこともあらへんかったし。体育祭のリレー見て好きになってくれたんやって』
「まあ、あの時の謙也は確かに速かったしなあ。足の速い男は、中学でもモテんねんな」

 リレーのアンカーを務めていた謙也は、最下位でバトンを渡されたのにも関わらず、その圧倒的な速さで他の選手をごぼう抜きして、最終的に一位でゴールテープを切っていた。あの時ばかりは、四天宝寺の全女子生徒が謙也に心を奪われていたと思われる。

『有難い話やけどな。せやけど、俺ちゃんと断ってん。俺が告って、鈴木さんが振ったことにしよって言うて』
「何やそれ、かっこええな」
『かっこええかは知らんけど、万一、俺に告白して振られたって広まったら可哀想やん。鈴木さん、校内でも有名人やし。せやけど鈴木さんもええ子やから、それをスッキリ受け入れへんかったんやろ。そっからはようわからへんけど、何や噂上では俺らが付き合ってることになってしもた。鈴木さんも困惑しとると思うわ』
「そうなんや……そら、謙也も鈴木さんも災難やな」

 そんな会話をしながら、少しずつ失恋のショックから癒されるとともに(というより、そもそも失恋していなかった)、冷静になった頭から二つの疑問がわく。
 一つ目、謙也は何で、鈴木さんの告白を断ったのだろう。私が男だったら、あんな可愛い子から告白されたら即OKしてしまいそうなものだけれど。他に好きな子でもいるのだろうか。だとしたら、私は本当の意味で失恋することになる。なので、怖くて聞く勇気が出ない。
 二つ目、謙也は何で、私に電話でこんな話をしているのだろう。別に、私が、謙也と鈴木さんが付き合っている噂を聞いているかどうかなんて、謙也にとってどうでもよいことなのでは? こっちの疑問なら、本人に聞くことができそうなので、聞いてみることにした。

「でも、何で?」
『?』
「何でわざわざ、そんなこと私に電話で弁明するん?」

 そう尋ねると、一瞬、電話の向こうで謙也が息を呑んだのがわかった。そのあと、あー、とか、うー、とか、歯切れの悪い声が聞こえてきたので、謎がさらに深まる。ただ、何か決心したのか、謙也はふう、と息を吐くと言った。

『……麻衣にだけは、誤解されたなかったからや』
「へ……」
『ほ、ほな! またな! 今まだ部活中やねん』
「え、部活さぼってまで連絡してきたん? 白石くんに怒られるで」
『そんなん俺のほうがわかっとるっちゅー話や! また連絡するわ!』

 そして、嵐のような電話が切れた。通話時間、約三分。ただ、この三分で色んな事ががらっと変わった。とりあえず私は失恋していなかった。良かった。数分前に流したあの涙は何だったんだろう。そして最後に謙也が言い残していった言葉。私にだけは誤解されたくないって、どういうことだろう。そこまで鈍い方ではないとは思う。ただ、自分に都合の良い解釈をしてしまっているのではないかと、勘違いしそうになっているのではないかと、思ってしまって。
 いやいや、まさか。でも、もしかして。
 謙也も、私と同じ気持ちでいてくれているのかな、なんて。

Fin.
2024.1.27