春はすぐそこ

 3月17日、日曜日。部活帰りに、ばったりと玄関で出会ったのは、同じクラスの忍足くんだった。

「あれ、忍足くん」
「おっ、支倉さんやん。お疲れさん」

 忍足くんはいつもの爽やかな笑顔をこちらに向けてくれる。ただ、その服装が、いつもの制服ではなく、テニス部のジャージだったので新鮮だった。
 うちの高校のテニス部は、そこまで強くない。私たちの通っている高校は進学校で、特に医・歯・薬といった医療系の学部への進学が強い。強い、ということは、それだけしっかり勉強に力を入れている、ということで。勉強が最優先で、部活は二の次。部活をしっかりやりたい人は、おそらく他の学校へ進学する方が良いだろう。
 なのに忍足くんは、中学時代は中体連の全国大会や、U-17日本代表合宿に参加していたほどのテニスの腕前がある。うちの高校のテニス部じゃ、正直勿体無い。けれど彼は、うちの高校へ進学することを選んだ。その理由は、彼には明確に「医者になる」という将来の夢があるからだ。

「今日、テニス部は練習やったん?」
「午前だけな。午後は自主練しとっただけ」
「へー。えらいなあ」
「いや、そんな褒めんといてや。調子乗ってまうわ」

 少し照れたような様子の忍足くんは、その流れで、支倉さんも部活やったん、なんて問うたので、私は首を縦に振った。

「うん。ただ、私も今日は自主的に居残り組」
「せやから一人やったんや。いつも部活のみんなと一緒に帰っとるやろ」
「そうやけど。忍足くん、何で知ってるん?」
「えっ!?あー、その、偶然何度か見かけてん」

 突然慌てて目が泳ぎ出した忍足くんを不思議に思いながらも、そうなんや、と返すと、彼はほっとしたような顔をした。そして、そんな忍足くんが「せや、折角玄関で偶然会うたんやし、一緒に帰らへん?」なんて誘ってくれたので、今度は私が慌てる番だった。

「えっ、いいの……!?」
「いや、ダメやったら普通自分から誘わんやろ」
「そうやんな。……うん、ほんなら、ご一緒させてもらおうかな」
「よっしゃ! ほな、行こか」

 日曜日の夕方、ジャージ姿の忍足くんと、いつもの駅までの道を並んで歩く。忍足くんと一緒に帰れるなんて思わなくて、本当はずっと胸がドキドキしていた。
 去年の夏ごろから、忍足くんのことが好きだった。ただ、忍足くんがあまりにクラスの中で陽の存在すぎて、私には眩しすぎた。同じクラスで、友達として、他愛のない話をしたり、一緒に掃除当番をしたり、日直をしたりするだけで十分幸せ。なのに、今日は忍足くんから誘ってくれて、夢みたいな時間が実現している。

「そういえば、支倉さんは、この前の進路希望調査何て書いたん?」
「私は、明確な大学や学部は決まってへんけど、とりあえず世界史学べるとこに行きたいって書いたかなあ……唯一の得意科目やし、好きなことでもあるし」
「さすが支倉さんや。俺、世界史だけはホンマ苦手で……支倉さんが教えてくれへんかったらホンマに進級やばかった」
「それは大げさやって。せやけど役に立ててよかった」

 明るくて、かっこよくて、みんなの中心の忍足くんと、教室の中でほぼ存在感を失っているタイプの私を結びつけてくれたのは、世界史だ。1学期の中間テストで世界史だけは学年トップをとれた。それくらいの唯一の得意科目が、なんと忍足くんの唯一の苦手科目だった。そんな忍足くんが、1学期の期末テスト前に「中間で学年トップやったやろ? 世界史教えてくれへん?」なんて声をかけてきてくれたことによって、私達の間に会話が生まれはじめたのだ。

「忍足くんは、何て書いたん? やっぱり医学部?」
「せやなあ。せやけど今の成績やと受からへん」
「そう? 地頭ええし、そんなことないと思うけど」
「……おおきに。今の言葉で勉強頑張れそうやわ」

 忍足くんが医学部を目指しているのは知っていた。そして、医学部を受けるなら、世界史は捨ててよい科目であることも知っていた。彼にとって、もっと点数のとりやすい社会科の科目は他にあるはずだから。それでも、真面目に苦手な世界史に向き合って一生懸命克服しようとする、真っ直ぐなところが素敵だと思った。世界史の点数が悪いと、その分通知表や内申書に響くとか、そういうのもあったのかもしれないけど、それでも。

「せやけど、そうなると、俺ら、来年はクラス別々やな」
「うん。例年は医学部志望の生徒集めて1、2クラス作るみたいやで」
「何や、寂しなるな」

 隣を歩く忍足くんは、本当に寂しそうにそんなことを言う。社交辞令を言うタイプの人ではないことは知っているけれど、こんな私でも、違うクラスになったら寂しいと思ってくれることがありがたい。

「大丈夫。忍足くんは、新しいクラスでもまたすぐみんなの人気者になるって」
「……いや、そういうことやないねんけど」
「?」

 忍足くんは右の手のひらを額に当てて、何やらうーんと考え込むような様子だ。あれ、私、何や返答間違うたかな。

「新しいクラスで友達できたとしても、支倉さんは、おらんやろ」
「わ、私? うん、多分、おらんなあ……文系クラスやろうし……」
「支倉さんと離れるんが寂しいっちゅー話や」

 忍足くんはサラッとそんなことを言うので、さすがに心臓が波を打った。動揺して言葉が出てこない。そんな私に、忍足くんは、ハッと何かに気づいたような表情をしたあと、困ったように笑う。

「……って、スマン、そんなん言われてもって感じやんな」
「い、いや! ちゃうねん、ちょおびっくりしただけで! そ、その……私も忍足くんとクラスが離れてまうんは寂しいよ」

 そう伝えると、忍足くんは今度は目を丸くしたかと思うと、右手で口元を押さえて視線を逸らしながら、短く「おん」なんて返事をする。なんとなく忍足くんとの間の空気感が、気恥ずかしいような、くすぐったいようなものに変わって、何を話して良いかわからなくなってしまった。
 ただ、遠目に駅が見えてきて、この時間ももう少しで終わりだ。何か話さなくては、と思っていると、忍足くんのほうから「なあ」と声をかけられる。

「……来年違うクラスになってまうかもやけど、俺、支倉さんとこれからも仲良うしたいねん」
「わ、私も……! これからも忍足くんと仲良うできたら嬉しい」
「……もし良かったらやけど。春休み、どっか二人で一緒に遊びに行かへん?」
「へ」
「あ、す、スマン! 話が突然すぎたわ」
「え、いや、その、お誘いめっちゃ嬉しいねんけど、びっくりしてもうて」
「ハハ、俺らさっきもこんなくだりあったな」
「ふふ、せやなあ」

 お互い顔を見合わせて笑う。と同時に、まさかの忍足くんからのお誘いに舞い上がってしまう。二人で、って、もしかして、デート、ってこと……?

「嬉しい、って言うてくれたっちゅーことは、ホンマに誘ってええ?」
「あ、うん……! 私でよければぜひ……」
「よっしゃ! ほんなら、今晩また連絡するな」

 忍足くんは、本当に嬉しそうな笑顔でそう言うので、ますます勘違いが進んで、ひょっとして、なんて期待をしてしまう。ひょっとして――その続きは、まだ畏れ多くて、言葉にできない。

 とうとう駅に着いてしまったので、忍足くんとはここでお別れだ。

「ほな、気ィつけてな」

 改札まで送ってくれた忍足くん。ただ、改札を入る前に、私は伝えなければならない言葉がある。

「お、忍足くん、」
「ん? どないした?」
「……お誕生日、おめでとう」
「っえ」
「忍足くん、今日お誕生日やろ? 日曜日やし、会えると思ってへんくて、誕生日プレゼントも何も用意してへんねんけど……」
「そんなんええねん、え、や、その、支倉さん、俺の誕生日知っててくれたんや」
「あ、うん」
「……めっちゃ嬉しいわ」

 忍足くんはみるみるうちに顔を赤くしながらも、言葉通り本当に嬉しそうに笑ったので、こちらのほうが照れてしまった。好きな人の誕生日を押さえておきたいのは、世の中の恋する女の子に共通するものではなかろうか。私も例に漏れず、実は忍足くんのお誕生日を知っていた。
 バレンタインは勇気が出なくて何もできなかった。誕生日も、ついさっきまで、何もしないつもりだった。でも、忍足くんと一緒に帰ることができて、デートのお誘いも受ける中で――今日、伝えずにいるのは、絶対後悔すると思ったのだ。

「……ほな、改めて。気ィつけて」
「うん。忍足くんも」
「おおきに! またな」

 定期券を改札にタッチして改札の中に入る。そして振り向くと、忍足くんは笑顔で手を振ってくれた。かっこええなぁ。やっぱり好きやなぁ。偶然が重なって起きた、忍足くんとのこの時間に感謝しながら、私は小さく手を振り返して、数分後に来る電車に乗るために、ホームへと急いだ。

Fin.
2024.3.17

謙也くん→→→←夢主ちゃんくらいなイメージです
謙也くん、自分の誕生日によく頑張りました👏