2月14日の残業と、その対価

 バレンタイン。弊社は、部もしくはチームごとに女性陣から男性陣に合同でチョコレートを渡す文化がある。私にとっては異動して初めてのバレンタイン。そして私が部で一番下っぱ。というわけで、チョコの買い出し係は言わずもがな私。昼休みに抜け出して、オフィスの近くの百貨店でチョコレートを大量購入。部長と、次長陣にはちょっとイイものを。そして残りの方々には普通のものを。

「よし、個数も間違えてないし、完璧!」

 ふと売り場を見渡すと、大量のチョコレートが入った大きな紙袋を持った若手社員らしき女の子は、他にもたくさんいた。みんな会社は違えど役割は一緒なのだろう。お疲れ様です。
 そして一仕事終えたところで――本命チョコのことを思い浮かべる。まだ買っていない。渡すかどうかも決めていない。どうしよう。白石さんに、渡した方がいいのかな。
 三年目の春、初めての異動で訪れた部署で、一番歳の近い先輩が白石さんだった。そのため、私の教育係は白石さんで、この約一年、白石さんからずっと仕事を教わっている。白石さんは五年目の先輩だけれど、五年目と思えないほど仕事ができて、そして仕事の教え方も上手くて、優しくて、でも叱るべき時はきちんと叱ってくれて。恋に落ちない方が無理だった。しかも、別に見た目で好きになったわけではないけど、白石さんのルックスも最高にカッコイイ。そんなわけで同期からは白石さんのもとで働いていることを羨ましがられるし、実際私のことを妬んでいる人はたくさんいると思う。正直嫌がらせを受けることもあるし。
 それでも、そんなこと気にならないほど、白石さんのもとで働けることは光栄だ。白石さんの仕事に対する姿勢からはたくさん学ぶべきことがある。それに――やっぱり、好きな人と四六時中一緒にいられることが幸せだ。
 白石さん、チョコ好きなのかな。いや、この人生でチョコもらいすぎて飽きちゃったかな? 私なんかからチョコをもらっても迷惑かな。
 さっきまでは迷いなくチョコレートを買えていたのに、本命となると、途端にぐるぐると考え事をしてしまう。あんなにカッコ良くて素敵なのに、なぜか彼女がいないことは、本人から聞いたので、知っている。だから私がチョコを渡すことで彼女さんに迷惑をかけたりすることはない。でも――変に本命っぽくなって、明日から気まずくなったらどうしよう。「日頃のお礼です」って言って、いつも通りの感じで、軽い感じで渡せるかな。単純なお礼なら、白石さんも受け取ってくれそうだ。そう心に決めて、公式チョコよりも高級な、そして白石さんのイメージに合う上品なチョコレートを購入した。

「部の女性陣からです」

 会社に戻り、部長から順に部内の男性陣にチョコレートを配って歩く。毎年の恒例行事、特にお咎めもなく、みなさん「ありがとう」と受け取ってくれる。そして、白石さんにも。公式チョコを渡すのは、さすがに緊張しない。

「白石さんにも。部の女性陣からです」
「おおきに。これ昼休みに買いに行っとったんやろ? 寒い中お疲れさん」
「ありがとうございます。白石さん、すでにチョコたくさんもらってそうですし、さらに甘いもの追加しちゃって申し訳ないですけど。お一人で全部食べれます?」
「まぁ、チョコは賞味期限そんな早ないし。ゆっくり食うわ」

 サラッとそんな言葉が出てくるあたり、やっぱりこの人、朝からチョコもらいまくってるんだろうな、と思う。――本命チョコは、どうしよう。公式チョコとは違って、バッグの底にこっそり入れている。急に渡す勇気がなくなってきた。渡すタイミングもよくわからないし。まぁいいや、渡せなかったら、ちょっと悲しいけど、自分で食べよう。

「お先に失礼します」
「お疲れ様です」

 一人、また一人、と帰宅していく中、私は定時を過ぎてもモニターと向き合っていた。そんな私の様子を見た白石さんが、ふいに小声で話しかける。

「バレンタインやっちゅーのに、残業しててええの?」
「……もう白石さん、私に彼氏いないの知っててそういうこと言いますよね」
「はは。すまんすまん」

 そう言いながら、なぜか白石さんは上機嫌だ。

「白石さんこそ、バレンタインに残業してて良いんですか? 白石さんとデートしたい女の人たくさんいると思いますけど」
「好きな子とやったらデートしてもええけど。そうでもない子とデートする時間あるんやったら、一個でも多く仕事片付けたいわ」

 弊社はフリーアドレス制だけれど、今日は偶然白石さんが隣にいる(ちなみに私の方が早く出社していて、後から白石さんが隣に来たので、意図して隣を狙ったわけではないことを言い訳しておく)。隣の白石さんのモニターを覗くと、彼は何やら難しい関数を使って集計作業をしていた。

「何か難しそうな作業されてますね……」
「慣れたらそうでもないで。ただ、時間がかかんねん」
「私、お手伝いできることあります?」
「手伝ってもらえるんやったら有難いけど、自分も残業中やろ? それにもう定時過ぎてるし」
「大体キリのいいところまで終わったので大丈夫ですよ。それに、残念ながら予定もないので」
「嫌味やなぁ。さっきの、根に持ってるん? ま、俺としては、自分に予定入ってへんくて安心したけどな」
「もう、どういう意味ですか」
「言葉通りの意味やけど」

 言葉通りの意味、って何だろう。白石さん、少しお兄ちゃんみたいなところがあるから、変な男に引っかかってなくて良かったとか、きっとそんな感じかな。

 そのまま白石さんの仕事のお手伝いをしていたら、午後七時を過ぎた。

「さすがにこれ以上は申し訳ないわ。今日はここまでやな」
「え、全然大丈夫ですよ。まだ残れます」
「ええって。ここまでデータ整えられたら、後はええ感じにグラフ化するだけや。それなら明日できるし」

 白石さんはそう言うけれど、きっと私に気を遣ってのことだろう。そんな私の釈然としない表情を見て、白石さんは眉を下げる。

「ほんまに、こういうとこ頑固やな。ほな、こういう理由やったら納得できるか?『俺も腹減って疲れた。今日はもう帰りたい』。どうや?」
「それなら、仕方ないかなって思います……」
「はは。それなら、そういうことにしとこな。腹減ったのはほんまやし。自分は? お腹空いてへんの?」
「空きました」
「ほな、手伝ってもらったお礼や。よかったらこの後メシ一緒に行かへん? 奢るで」
「えっ、いいんですか!?」
「良うなかったら、誘わへんて。帰る準備しながら何食べたいか考えといてや」

 お給料日前のお誘いに二つ返事で了承してしまったけれど、よく考えたら白石さんと二人で食事なんて緊張する。でも、めちゃくちゃ嬉しい。しかも今日はバレンタインだ。良いのかな、白石さんと二人で食事なんて。色んな意味で、ドキドキしてきた。会社の人に万一見られたら、本格的に恨みを買いそうで、ちょっと怖い。それに、白石さんは先ほど、好きでもない女性とデートする暇があるなら仕事をしたいと言っていた。そのうえでこの状況は、ポジティブに考えると勘違いしてしまいそうなくらい嬉しい。ただ、その一方で、ネガティブに考えると、私と過ごす時間なんて、あまりに異性として意識しなすぎてデートという概念にもかからない時間なのかもしれない。『会社の後輩と仕事終わりにご飯』。うん、字面的にも、きっとこれデートではないんだろうな。きっとこの後は、定食屋コースかな……。
 そんな感情の浮き沈みの中、白石さんは「準備できた?」と声をかけるので、反射的に「はい!」と返事をした。まあいいや、定食屋でも。好きな人と食事に行ける、そんな現実を、白石さんにばれないようにこっそり楽しんでおこう。どうせ実るはずのない恋なのだから。

「で、何食べたいん」
「何でも良いです」
「何でも良い、が一番難易度高いんやで」
「えー……」
「ほな、和食、洋食、中華。こん中やったらどれ?」
「えっ、じゃ、和食で……」

 さっきまで定食屋のことばかり考えていたから、とっさに出てきたのが和食になってしまった。いや、和食好きだから良いんだけど。

「和食な。なんとなくアタリついたわ。ほな、行こか」

「……○戸屋とかや○い軒とか想像してました」
「そっちのほうが良かったん?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……!」
「この店な、前に接待で使たんやけど、その時にええ店や思って。また来れて良かったわ」

 すっとお店に入れたのは奇跡なのか、それとも白石さんがサクッと予約してくれていたのかはわからない。お店の中は個室になっていて、プライバシーがきちんと守られるタイプだ。白石さんと二人でいるところを会社の人に見られて恨みを買うシナリオは避けられそうでほっとした。

「こんなおしゃれなところだと思ってなくて緊張します……」
「大丈夫やって、個室やし。多少食事のマナー間違うても誰も見てへん」

 いや、マナーがどうこうとかそういう意味の緊張ではなくて、白石さんと二人きりでこんなおしゃれなところにいることに緊張しているのですが。とツッコミたいけれどツッコめず、ぐぐっと言葉を飲み込んだ。メニューを見ても、緊張してしまって、何を選んで良いかわからない。そんな私の様子を察した白石さんは、適当に注文をしてくれる。こういうさり気ない気遣いをしてくれるところが、好きだな。なんて、改めて思ってしまった。
 最初の一杯目のお酒が回ってきた頃から、少しずつ緊張がほぐれてきた。お酒の力は偉大だ。やっとまた白石さんと普通に会話ができるようになってきた。

「ここのお店、何食べても美味しいですね!」
「せやろ。俺も最初来た時感動してん」
「こんな豪華な夕ごはんになるなんて想像してなかったです。お仕事お手伝いして良かった」

 油のたっぷり乗った焼き魚を頂きながらそう言うと、向かいに座る白石さんはなぜか少し緊張したような表情で呟いた。私が緊張することはあっても、何で白石さんがこんな緊張したような表情になる必要があるんだろう?

「なあ」
「? 何ですか」
「……今日、バレンタインやろ」
「そうですけど……?」
「その……誰かに、本命チョコとか、渡したん?」
「え」

 そんな質問に、緊張し直すのは私の番だった。本命チョコ。それは、今でも私のバッグの奥底に入っている。渡したい相手は、目の前のこの質問主だ。でもそんなの素直に答えられるわけもなく、固まってしまう。

「ほ、本命ですか、いや、私、彼氏もいないし、そんなの渡してないですよ」
「……そーか」
「はい」
「でも――別に彼氏やなくても、渡したい相手とかおらんの?」

 そう聞かれても困る。えっ、何て答えるのが正解なんだろう。これで、白石さんです、なんて言ったらどうなっちゃうのかな。お酒が回っているのもあって、冷静に判断できない。そもそも白石さんは何でこんなこと私に聞いてくるんだろう。

「……って、困らせとるなあ。堪忍」
「白石さんからまさかそんなこと聞かれると思わなくて……」
「へえ、俺からそんなこと聞かれると思ってへんかったんや。何で?」
「だって、白石さん、私なんかの恋愛に興味ないだろうなって。白石さんにとって私は会社の後輩で、妹みたいなものかなって思ってて……」
「ふーん。『妹』なあ」

 いつの間にか、白石さんは少し不機嫌そうな表情に変わっている。え、何で!? 私、白石さんを怒らせるようなこと言ったのかな。

「さっき言うたはずなんやけどな。バレンタイン、好きな子とやったらデートしてもええけど、それ以外の子とはせえへんて」
「え……」
「この状況は何なんやろな。ちなみに俺は『デート』や、思ってるけど?」

 え。ちょっと。今、白石さん、何て? 私の足りない頭では追い付かない。一つずつ整理しよう、白石さんは、バレンタインは好きな子以外とはデートしないと言っていた。そして、今日はバレンタインで、今この状況を彼はデートだと定義している。ということは、えっ、好きな子イコール……え? え!? 一気に脈が速くなって、全身にドキドキが伝わっていく。もしかして、今がチョコレートの渡し時なのでは。パッとひらめいて、慌ててバッグに手を伸ばした。突然バッグの中をあさり始めた後輩の様子を見て、白石さんは少し驚いている。

「その……もし、よかったら、日頃のお礼です」

 白石さんの前に両手で突き出した、私にしては上品な箱。渡す手が震える。見るからに本命チョコなのは、きっと彼にも伝わったと思う。白石さんは少しの間を置いて、そして優しい声で言った。

「……おおきに。めっちゃ嬉しいわ」
「そ、その、喜んでもらえたなら、良かったです。チョコなんてもらい飽きてるのかなと思って、タイミングもなくて、渡せなくて……」
「もし渡せへんかったらどうするつもりやったん」
「自分で食べようと思ってました。正直こんな高級チョコ自分で食べたことないので、ちょっと楽しみにしてました……」
「はは。せやけど、これだけは分けたないわ。ホワイトデーのお返しに同じチョコ買うたるから許してや」

 白石さんはびっくりするくらい本当に嬉しそうで、驚いてしまう。どういうことなんだろう。もしかして、白石さんって、おこがましくも、私のこと、す、すす、好きだったり、するのかな。いや、まさか。さすがに調子に乗りすぎかな。いや、もう、本当だめだ。冷静に考えられない。全部お酒のせい。多分。

「まあ、色々伝えたいことはあんねんけど、何や、今日はこれ以上はキャパオーバーそうやな」
「……はい、なんかもう、頭ぐるぐるしてます」
「はは。魚に合わせて、珍しく日本酒飲んどったしな。続きは素面のときにするわ。せやけど、記憶なくすんだけは勘弁してや」

 結構攻めたのに忘れられたら困んねん、なんて追い打ちをかけられてしまっては、明日から白石さんとどう接したら良いんだろう。忘れられるわけないのだけれど、忘れたふりをしたほうがいいのかな。そして、そういう選択肢を与えてくれる白石さんはやっぱり大人で。そんなところにさらに惹かれてしまうのだった。

Fin.
2023.2.14