最終話 奇跡なんかじゃない

 あの夏の日以来、謙也くんには会えていない。けれど、あの日傘の中の秘密を共有した瞬間から、彼と私の心の距離はさらに近づいたような気がする。
 お互いに部活を引退し、謙也くんは高校受験に向けて勉強に集中するようになった。私も私で、いくらエスカレーター式に進学できるとはいっても、外部から受験しても氷帝に入れるくらいには学力をつけておきたい。そんなことだから、なかなかお互いに直接会うタイミングがないまま、秋も深くなってきた頃。

「U-17合宿!? すごい!」
『俺もびっくりやけど……行ってこよ思て。せやけど、合宿参加したらほんまにしばらく会われへんな』

 画面の向こうの謙也くんはそう眉を下げた。今の時代、こうして気軽にビデオ通話ができるからありがたい。
 謙也くんはテニスのU-17日本代表を選抜する合宿に招聘されたようだ。普段から遠距離恋愛をしている私たちだから、謙也くんが大阪にいようと合宿所にいようと、気軽に会えないことには変わらないのだけれど――ただ、合宿中は行動の制限も多いだろう、こうして気軽にメッセージや電話もできなくなってしまうかもしれない。次の瞬間、私の口からはこんな言葉が飛び出していた。

「……それなら謙也くんが合宿に行く前に、大阪に、行ってもいい?」
『えっ、マジで!? 大歓迎やけど、ええの?』
「謙也くんに東京に来てもらってばかりだから、今度は私がそっちに行くよ」
『めっちゃ楽しみや。行きたいところ考えといてな! どこでも案内したるで』

 画面の向こうの謙也くんは、すっかりいつもの元気な笑顔に戻っている。さて、貯めていたお年玉で、新幹線のチケットを取らなくちゃ。

 そんなこんなで早起きをしてたどり着いた、土曜の朝九時半、久しぶりの新大阪。ここまでは大丈夫。問題はここから。謙也くんも新大阪まで迎えに行くと言ってくれたけれど、グランフロント前に一人で行くことをもう一度チャレンジしてみたくて、待ち合わせ場所を十時にグランフロント前にしてもらった。謙也くんに教えてもらった通りに乗り換えて、そして大阪駅で電車を降り、そのまま前回とは違う改札を抜け、進んでいく。

「……あ」

 そしてたどり着いたグランフロント前。そしてそこには、ずっと会いたくてたまらなかった、私服姿の金髪の男の子。謙也くん、と名前を呼ぼうと思ったのに、それよりも謙也くんが私に気づいたほうが早かった。

「……長旅お疲れさん。めっちゃ会いたかったわ」
「ありがとう。……私も、ずっと会いたかったよ」

 謙也くん、まだ待ち合わせの時間よりも早いのに、こんなに早く来て待っててくれてたんだ。待ち時間は苦手って言ってたのに。
 朝からたくさんの人々が大阪駅を行き交っている。そんな中で謙也くんと出会えて、こうして恋人同士になれたことは、どれだけの奇跡なのだろう。しばらく見つめ合ったまま、お互いに感動を噛み締めていたけれど、先に言葉を発したのは謙也くんだった。

「っと、あんまり見つめ合うててもあかんな。今日、日帰りやろ? 時間も限られるし、早よ移動しよか」
「うん。今日は謙也くんに案内任せちゃっていいんだよね?」
「勿論や! ほな、行こか」

 そんな言葉と共に、スッ、と繋がれた手。えっ!? 嬉しいけど、えっ!? びっくりして謙也くんの顔を見上げると、耳まで真っ赤にした謙也くんが「嫌やった?」なんて控えめに聞くから慌てて首を横にぶんぶんと振った。はじめて繋いだ謙也くんの手は、私のそれより大きくて、骨張っていて、やっぱり男の子なんだな、と実感する。

「ふと思ってんけど。俺ら、手繋ぐよりハグとかキスのが早かったんやな。順番めちゃくちゃでスマン……」
「全然気にしてないよ。でも手繋いでデートするのはずっと憧れてたから、嬉しい」
「……」
「あれ、黙っちゃった」
「幸せを噛み締めてんねん」
「?」
「こない優しゅうて可愛い彼女おって、俺、ほんまに幸せや」

 太陽みたいな笑顔で隣の謙也くんがそう言うので、照れてしまう。その言葉、そのまま返すよ。こんなに優しくて明るくてかっこいい謙也くんが恋人でいてくれて、本当に私は幸せ者だ。
 

 まずは、以前約束した通天閣へ彼女を連れて行き、そして、昼食を食べ、その後、四天宝寺中の場所を案内する。きょろきょろと周りを見渡しながらはしゃぐ彼女が可愛い。何でいつもと同じ景色やっちゅーのに、麻衣がおるだけで、めっちゃ新鮮に映るんやろ。彼女と過ごす大阪を知ってしまうと、明日以降、同じ景色を見ても何だか物足りなく感じてしまいそうだ。

「ここが四天宝寺中……!」

 そんな彼女は、掴みの正門の前で感動している。

「おん。ここが正門や。氷帝とはまた全然雰囲気ちゃうやろ?」
「うん、新鮮……。毎日ここで謙也くんは過ごしてるんだね」

 感慨深そうに彼女は正門を眺めている。もし彼女が氷帝やなくて四天宝寺の生徒やったら、毎日こうして手ぇ繋いで下校したり、放課後一緒にテスト勉強したり……めっちゃ楽しそうやな……。なんてアホみたいな妄想をしている俺に、ふと彼女が問う。

「そうだ、今日はテニス部練習してるの?」
「してると思うで。見てみる?」
「うん!」

 そのままテニスコートのほうへ向かうと、後輩達が部活に励んでいた。しばらくそんな様子を見つめていると、フェンス越しに財前と目が合う。財前は、徐にジャージのポケットからスマホを取り出してカメラをこちらに向けた。

「ブログネタゲット」
「おい! 俺は何でもええけどカノジョは撮るなよ」
「冗談っすわ。麻衣さん、お久しぶりです」
「わ、財前くん、久しぶり」
「えっ、二人、面識あったん!? いつ!?」
「何でもええでしょ」
「……俺が紹介する必要あらへんみたいやけど一応な。コイツが財前や。今は白石の後継いで、部長なんやで!」

 財前が部長になったことまでは彼女は知らなかったようで、へーすごい!なんて驚いていた。

「ま、俺らの練習見るんもええですけど。せっかく大阪まで彼女さん来はったんやし、ほどほどにして今日はデート楽しんでください。謙也さんがおるってわかったら、後輩たち集まってまうんで」
「謙也くん、後輩に人気あるんだね」
「男にはモテるんすわ。東京に可愛い彼女おるってみんなにバレてからは、女にはモテへんけど」
「おっ、お前、何を言うかと思ったら……!」
「事実やないですか。ほな、また」

 相変わらず飄々とした態度でひらひらと手を振ると、財前は部員の輪の中に戻っていった。財前の言葉で、俺達の間には気恥ずかしさと気まずさでどことなくぎこちない空気が流れる。しばしの沈黙の後、

「……さて、次、どうする? どっか行きたいとこある?」

 そう彼女に問うが、彼女はほぼ大阪初心者だ、何か具体的な場所が出てくるわけでもなく、うーん、と悩んでしまう。腕時計に目をやると、午後三時。彼女の帰りの新幹線は午後六時台だったので、残された時間は三時間だ。――この楽しい時間は、三時間後には終わってしまう。こうして今触れられる距離にいる彼女も、三時間後には、五百キロ先の街へ帰ってしまう。同じようなことを彼女も考えていたようだ。

「……行きたいところは特に浮かばないんだけど……謙也くんと、もっといっしょにいたい」

 そんな少し震える声と共に、ぎゅっ、と掌に彼女の握力がかかったのを感じた。何で楽しい時間ってあっという間なんやろ。俺の心臓も、柄にもなく震える。彼女のその言葉の意味するところも、理解した。――そんなん、俺も一緒や。

 昨日まではあんなにわくわくしていたのに、どうしてこんなに悲しい気持ちになるのだろう。謙也くんに会えた嬉しさと同じくらい、離れる時の寂しさが大きくて。合宿が始まったら、しばらく会えなくなっちゃうのかな。連絡も取れなくなっちゃうのかな。そう思ったら、こうして今謙也くんが触れられる距離にいてくれることが、とても尊い。
 四天宝寺中を訪れた後、謙也くんは、私を忍足家に連れてきた。ご両親はお仕事で不在で、弟の翔太くんは部活とのこと。謙也くんのおうちに二人きりというシチュエーションに少し緊張したが、謙也くんはそんな私の緊張にきっと気づいていたのだろう、「コイツが、麻衣が会いたがっとったイグアナのハヤブサやで〜!」なんて、いつもの元気な調子でハヤブサちゃんをお部屋に連れてきてくれたので、すっかり気が抜ける。

「可愛い! こんな近くでイグアナ見たのはじめて!」
「おっ、ハヤブサ良かったなぁ! お前のこと『可愛い』やて!」

 そのまましばらくハヤブサちゃんを介したコミュニケーションを続けて、謙也くんは私の緊張をほぐしてくれた。だいぶ私がリラックスしたのを見計らって、謙也くんはハヤブサちゃんを飼育ケージに戻しに行き、またお部屋に戻ってくる。これで、謙也くんのお部屋に二人きりだ。

「外やと、あんまり落ち着いて話せへんし。こういう時間も大事やろ」
「……うん。ありがとう」
「せやけど、ほんまに今俺の部屋に麻衣がおるんやな。夢みたいや」
「私も、通話の時の背景に映ってるお部屋に、今実際に来れて夢みたいだよ」

 まだ付き合い初めの頃、ビデオ通話でお互いにルームツアーをしたことがあった。そのお部屋と、当たり前に全く同じ間取り、同じ家具の配置。「いつもここで電話してくれているんだね」と隣にいる謙也くんの顔を見上げた瞬間。
 待ち構えていたかのように唇が重ねられたので、目を瞑るのを忘れてしまった。謙也くんとの二回目のキスだ。そのまま唇はすぐに離されたけれど、さっきまでのんびりとしていた空気が一気に変わる。そして、急に悲しくなった。

「……す、スマン、急に嫌やった……!?」
「ううん、違うの。すごく嬉しい。でも――今はこんなにすぐ近くに謙也くんがいるのに、あともう少しで東京に帰らなくちゃいけないのが……」

 そこまで言いかけたのに、喉の奥が支えて、言葉にならない。その代わり、鼻の奥がつんとして、気づいたらぽろぽろと水滴が頬を伝っていた。謙也くんは一瞬驚いたような表情をしたあと、その表情を何か苦虫を噛みつぶしたようなものに変え、そのままぎゅっと私を抱き寄せた。

「……寂しい想いさせて、ほんまにごめん。せやけど、こうして本音言うてくれたんは、めっちゃ嬉しい」
「謙也くん……」
「俺もめっちゃ寂しい。ほんまは、東京、帰したない」
「うん……」

 そのまま私たちは普段離れている距離を埋めるように、夢中で唇を重ね合った。触れるだけのそれでは足りなくなったのか、彼の舌が私の唇を割って口内に侵入する。その初めての感覚に、身体が震えた。どれくらいの時間が経っただろう、名残惜しそうに銀糸を引きながら唇同士が離れる。

「……好きや」
「……私も謙也くんが大好き」
「これからまたしばらく離れてまうやろ」
「うん……」
「せやから、今だけ――もっと距離ゼロにさせてくれへん?」

 その言葉の意味するところがわからないほど子供ではなかった。世間的には、まだ早いのだと思う。それでも、私たちは今離れたら、次いつ会えるかわからない。子供の私には、拒む理由が、見つけられなかったのだ。

 帰りは、謙也くんは新大阪駅のホームまで一緒に来てくれた。相変わらず新大阪駅は人が多い。朝のグランフロント前でも思ったけれど、これだけの人の中で、あの時、道に迷わなかったら。同じクラスのほうの忍足くんに、謙也くんのことを聞いてみなかったら。

「奇跡の連続だ」

 そう呟くと隣の謙也くんは、突然どないしたん? といつもより大人びたような優しい声で尋ねる。

「こんなにたくさんの人がいて、その中で、あの日あの場所で謙也くんに見つけてもらって。名前を聞くのも忘れちゃったのに、こうして再会できて、恋人同士になることまでできて……。すごい奇跡の連続だなぁって思ったの」

 そう伝えると、謙也くんは「そうか?」と意外な反応を示した。

「俺は、もしどんな時代どんな場所に生まれても、俺は麻衣と恋に落ちる自信あるで!」
「っ」
「なんて、クサすぎるな。はは、笑うとこやで」
「笑わないよ」

 そんなふうに謙也くんが言ってくれたことが嬉しくて、あと数分後には離さなくてはいけない彼の手を、ぎゅっと握った。私達の出会いは奇跡なんかじゃない――運命だったのだ。しばらく会えなくなってしまうことは寂しいけれど、心はいつだって繋がっていられる。そう思ったら、自然と顔が綻んだ。

Fin.
2023.8.5