翌日の月曜日、謙也くんと付き合い始めたことを忍足くんに報告すると、忍足くんはとても喜んでくれた。
「謙也からも聞いたで。よかったやん。おめでとう」
「本当に忍足くんのおかげ。もう足向けて寝られないよ」
「はは。何言うてんねん。俺は謙也に支倉さんの連絡先伝えただけやで」
「それがなかったら私たち出会えなかったし……」
「確かにそれもそうやな。ほな、素直に受け取っとくわ。おおきに」
そんなふうに話していたら、不意に教室の隅の方からキャー!という声が聞こえた。何だろう。振り向くと、そこには跡部様が。なるほど、跡部様のお出ましなら歓声が上がっても仕方がない。
「忍足。急用だ」
「跡部、ほんまに急やな。何の用や」
「次の練習試合の件だ。そういえば昨日、四天宝寺の忍足が偵察に来てたようだが」
「あー、謙也な。アイツこっそり偵察するっちゅー概念あらへんから目立っとったもんな」
そのまま忍足くんと跡部様の会話が目の前で繰り広げられて、ぽつんと置いてけぼりになる私。そんな私に気づいた跡部様は、さらりと言う。
「突然悪かった。忍足と会話中だったんだろう」
「あ、いえ、大した話ではないので……」
「いや。俺が悪かった」
そうスマートに謝る跡部様は格好良い。生徒会長、テニス部部長、と氷帝の中での権力を欲しいままにしている彼だが、私のような大して目立たない生徒の名前も含めて全校生徒の名前を覚えていたり、こういう細やかな気遣いができるからすごい。同い年ながら、尊敬してしまう。
「本当に大丈夫です。私はもう忍足くんへの用は済んでいるので!」
「……ほな、支倉さん、謙也のことよろしゅう頼むわ」
「う、うん」
「跡部、行こか。場所変えて話したほうが良いやろ」
そして二人は教室から去ったので、私だけが教室に残る。遠くから様子を窺っていた友人たちが「跡部様と忍足くんに挟まれるシチュエーション羨ましい〜!」なんて次々と話しかけてきたが、私は二つのことで頭がいっぱいで、それどころではなかった。
一つ。あの跡部様が、謙也くんのことを知っていた。『四天宝寺の忍足』と。忍足くんのイトコとしてではなく、彼はテニスプレイヤーとして、あの跡部様に認知されていた。四天宝寺中のテニス部が全国クラスであることは知っていたが、まさかそういうレベル感とはつゆ知らず、改めてすごい人と恋人同士になったのだと実感する。
そして、もう一つ。忍足くん、「謙也のこと、よろしゅう頼むわ」って。昨日から付き合い始めたばかりなのに照れてしまうし、何より跡部様の会話に聞き耳を立てていた周りの人たちにはそれが聞こえてしまっていただろう。
「……で、麻衣、謙也くんって誰!? 彼氏!?」
――ほら、早速だ。
*
その晩、謙也くんと電話をしながら、忍足くんの発言をきっかけにクラス中に謙也くんと付き合い始めたことがバレてしまったことを伝えると、謙也くんは『マジでありがたいわ』とホッとしたような声色で呟いた。予想外の反応である。
『侑士から、麻衣ちゃん、氷帝の中でもモテるほうや聞いててん。せやから、彼氏おるアピールしてもらえた方が安心や』
「えっ!? 全然そんなことないよ。それを言うなら謙也くんのほうが……私が謙也くんと同じクラスだったら絶対謙也くんのこと好きになるもん、心配すぎる」
『……天使? アレッ俺の彼女、天使なんか? このいい人止まり日本代表の俺をこんなん言うてくれる彼女最高すぎん? いやマジで……』
「謙也くん、心の声的なものが漏れてるよ」
そんな謙也くんも可愛い。それにしても、彼はいい人止まりと言われているのか。なんだかんだそれは照れ隠しで、実際に謙也くんのことを好きになる女の子はたくさんいると思う。
「そうそう、それとね。話は変わるんだけど、跡部様も謙也くんのこと知っててびっくりした」
『跡部って――せや、麻衣ちゃんにとっては同じ学校の生徒なんやもんな。麻衣ちゃんから跡部って聞くんも新鮮やな』
「謙也くん、跡部様に認知されるくらい、テニス、すごく強いってことだよね」
『まあ、自分で言うのもなんやけど、スピードやったら誰にも負けへんで』
浪速のスピードスター。出会った日に彼は自身をそう名乗っていたが、彼との距離が縮まるに連れ、それが彼の中学テニス界での通り名であることを知った。そんな彼のテニスを、私はまだ見たことがない。
*
彼のテニスを初めて見る機会――全国大会が訪れたのは、その約一ヶ月半後のことだった。無事に関西大会を優勝した四天宝寺、そして開催地枠で全国出場を決めた私たち氷帝。
謙也くんとのお付き合いは順調だったが、やはり私たちの間には圧倒的な距離が立ちはだかっていて。いくらビデオ通話をしても、生身の彼にはなかなか会えない。だから、本物の謙也くんに会えるのがとても楽しみだし、何より彼のテニスを見ることが何よりも楽しみだった。
氷帝の制服を着て、氷帝ではない学校の試合を観戦するのはどうやら目立つようで、大阪・四天宝寺対兵庫・岡蔵の試合に向かっている途中、ちらちらと周りの人達からの視線を感じた。謙也くんはシングルス1と聞いたので、最初の方の試合は遠くからそっと眺めていようと思ったのだけれど。仲間の試合中だというのに、そわそわと周りを見渡している様子の彼と、思いっきり目が合った。
久しぶりに見る生身の謙也くんに、胸の奥がきゅうっとする。頑張ってね、と口パクで伝えて控えめに手を振ると、フェンスの内側の謙也くんは弾けるような笑顔で拳を上げて返してくれた。そしてそんなチームメイトの様子に気づいた彼の周りの仲間が、何や何や、と彼の視線の先――つまり、私のほうを一斉に見る。
「えっ、もしかして謙也のカノジョってあの子なん!?」
「可愛いやーん♡ ロックオン♡」
「小春、浮気か!?」
「こら、今財前の試合中やで。応援に集中しぃや」
「よかよか。俺らが見とらんでも財前は勝つばい」
すごい、見るからに全員キャラが濃い……! 氷帝のテニス部もなかなかだけれども、彼らも全く引けを取らない。テニス部の仲間については、謙也くんから話はよく聞いているけれど、直接お会いするのは初めてだ。慌てていると、謙也くん本人が助けてくれる。
「ちょ、お前らほんまに彼女困らせるんだけは勘弁してや! 落ち着いたらちゃんと紹介するさかい」
「やん♡ 謙也くんったらカッコイイ」
そうこうしているうちに、シングルス3の試合はあっという間に終わっていた。もちろん四天宝寺の勝利だ。次の試合が始まるまでの間、謙也くんはフェンス越しに私の元を訪れる。
「麻衣、来てくれたんやな」
「うん、もちろん」
「さっきはうちの部員達がすまんかった。嫌な思いしてへん?」
「ちょっとびっくりしたけど、嫌な思いはしてないから大丈夫だよ」
「それならよかったわ」
ほっとしたような表情で彼は言う。謙也くんはいつも私のことを考えていてくれて、本当に優しい。お付き合いが進む中で、呼び捨てにされるようになった名前。謙也くんの声で名前が紡がれると、とても自分の名前なのに何だか特別な呪文のようだ。
「今日はあんまりゆっくり話せへんけど……その代わり、シングルス1、見ときや! 麻衣が応援してくれるんやったら勝つ気しかせえへん。カッコええとこ見せたるわ」
「ふふ、期待してる!」
「おん。ほな、俺、そろそろ戻るな」
*
そして迎えた第五試合、シングルス1。既に四天宝寺はシングルス3、ダブルス2、シングルス2、とストレート勝ちを決めているのだが、最初の試合なのでダブルス1とシングルス1も行われる。そもそも四天宝寺中のテニス部も、氷帝テニス部まではいかないにしろ、かなり部員数が多いはずなのに、その中でシングルス1を任される謙也くんの実力とは。私が想像している以上に、謙也くんってすごいテニスプレーヤーなのでは?
始まった試合、驚いたのは、彼の圧倒的なスピード。素人目にもわかるのだから相当だろう。もちろんスピードだけではなくて、テクニックやパワーも、普通の中学生のテニスプレイヤーと比較して頭一つ二つ抜けているのだと思う。一応全国大会だというのに。しかも四天宝寺はシードなので、相手校は一応一回戦を勝ち抜いてきたわけなのに。こんなにいとも簡単にゲームを主導権を握ってしまうなんて。
「……初めて見たんすか? 謙也さんのテニス」
ふとフェンス越しに話しかけてきたのは、シングルス3に出場していた黒髪の男の子――謙也くんからよく話を聞いている、二年生の後輩、財前くんだ。
「は、はい」
「敬語使わんでええですよ。俺のが年下やし」
「あ……うん。あなた、財前くん、だよね?」
「名前知っとったんや」
「謙也くんから話聞いてて……よく財前くんとダブルス組んでるって……」
「……あの人、普段ヘラヘラしとるけど、テニスしとる時はカッコええでしょ」
そんな言葉には少し毒があるけれど、彼が謙也くんを尊敬していることが伝わってきたから、全然嫌な気持ちはしなかった。
「……うん、カッコいい……すごく」
「次の試合以降も応援頼んますわ。謙也さん、アンタが応援来てはるっちゅーことで、いつにも増してキレッキレなんで」
そう言うと財前くんは「ほな」と、ベンチへと戻っていく。気づくと謙也くんは、まさにマッチポイントを決めようとしていた。浪速のスピードスターは、目の前で、輝いている。
to be continued…
2023.7.16