第3話 1日目・夜

 上司から急遽、有休取得命令が出た。俺があまりに有休を取得しなすぎて、平均有休消化日数が、人事の目標を達成できない見込みだからだそうだ。突然の五連休には正直戸惑った。
 研修医である親友・謙也に『突然の五連休、何すればええと思う?』なんてメッセージを送ってみる。既読がついた瞬間、間髪入れずに返事が返ってくるのは、学生時代から変わらない。さすが、浪速のスピードスターや。

『一人旅で海外でも行ってくればええやん』
『海外一人旅なあ……』
『前にみんなで卒業旅行で行った香港とか、ええんちゃう? 安いし』
『一人で行っても特にすることもあらへんのやけど』
『どうせ日本におっても何もせえへんのやろ。それやったら海外でぼーっとしたらええやん』

 そのような経緯で、俺は今、香港にいる。金曜から、土日月の日本の三連休を挟み、火曜までの四泊五日。航空券と宿泊先のゲストハウスだけ予約し、他は何も決めてこなかった。

 気づいたら、二十代も半ばを過ぎていた。十年ほど前、テニスコートを一緒に駆け巡っていた親友たちは、それぞれに仕事をもち、中には家庭まで持ち、すっかり自立した生活を歩んでいる。俺はというと、中高とテニスに明け暮れた学生生活を送った後、地元の国立大学の薬学部に進学し、製薬会社へ就職した。香港は、四回生から五回生になる春休みに、中学時代のテニス部の同期たち(仲間の多くが大学卒業のタイミングであった)と彼らの卒業旅行で訪れた以来、二回目である。
 ——あの頃は、もう少し人生、楽しんどったような気がすんねんけどなぁ。
 姉も妹も結婚し、既に新しい家庭を築いている。そんな中、親からは「蔵ノ介はええ人おらんの?」と問われ、表面的には「おらんなぁ」と軽く流したのだが。
 社会に出て二年目。毎日職場と家の往復、一人で生活するには申し分ない給料が毎月入り、休日にはたまにテニスをしたり、旧友と飲みに行ったりするくらいだ。恋愛もしばらくしていない。結婚願望も特にない。こんな毎日を繰り返して、いつの間にか爺さんになって、死んでいくんやろか。

「蔵は、今夜はどのあたりを観光する予定だったの?」
「ノープランや。自分は行きたいとこ無いん?」
「私も、夜は観光できないって諦めてたから調査不足。でも、百万ドルの夜景は見たいかなぁ」

 縁で知り合った彼女からはあっけらかんとそんな回答が返ってきた。
 香港に来て二日目、土曜日。夕方、ゲストハウスに戻ってきた俺をジャックは迎え入れるなり、「今日から日本人が三泊四日でもう一人泊まるよ」と告げた。彼が「she」という代名詞を使うので、その日本人が女性であることを察した。ここが日本だったら、女性と出会うことに少し苦手意識があったかもしれない。ただ、香港という異国での出会いは俺の気持ちをフラットにしてくれたし、実際出会った彼女も、俺の容姿に騒ぎ立てるタイプではなく、人対人で接することができ、安堵した。

「自分、ガイドブック持ってるやん。それ見てみる?」
「ガイドブックによると、やっぱり定番はビクトリア・ピークみたい。行ってみたいけど……混んでそう」
「せやな。今日土曜やしな」

 尖沙咀(チムサーチョイ)に向かうバスに揺られながら、そんな会話をする。流れで行動を共にすることとなったが、意外とこの時間を楽しんでいる自分がいることに気づく。ここ最近、平凡な毎日の繰り返しだった。きっと、いつもと違う場所、初めて会う人——そんな要素が日常に彩りを与えているのだろう。

「あ、スターフェリーっていうのがあるよ」
「スターフェリーな。ええんちゃう? ちょうど尖沙咀から出るやろ」
「詳しいね」
「前、香港来たときに乗ってん」

 香港は、主に香港島と九龍半島に分かれている。その間のビクトリア湾を繋ぐ交通手段は、バス、地下鉄等複数あるが、百年以上の歴史があるのがスターフェリーだ。九龍側の尖沙咀と香港島側の中環(セントラル)、もしくは湾仔(ワンチャイ)を結ぶこのフェリーは、乗船時間は十分にも満たないが、香港らしい景色を望むにはうってつけだ。特に夜の乗船は、『百万ドルの夜景』と呼ばれる香港の夜景を堪能することができる。

「蔵、香港初めてじゃないんだね」
「二回目や」
「そっか」

 前は誰と来たの、などと、あまり詮索してこない彼女には好感が持てた。なので、逆説的に饒舌になってしまう。

「前来たんは、大学の卒業旅行——って言うても、俺は四回生から五回生になる春休みやってんけど。男ばっかで色気も何もない旅やったわ」
「ふふ。蔵もちゃんと学生らしいことしてたんだね」
「何やそれ」
「まだ会ったばっかりだけど、何か年齢の割に落ち着いてるな~って思ってたから。ちょっとほっとした」
「年齢て。俺まだ年、言うてへんやん。ほんまは九十の爺さんかもしれへんで」
「あはは、どこから出てきたの、その数字。長生きだね」

 そんな冗談を言っている間に、バスは九龍半島一の賑やかな通り・彌敦道(ネイザンロード)に入っていく。車窓を眺めていた彼女のテンションがみるみるうちに上がっていく。

「……すごい! 香港来たって感じする」
「さよか」
「うん。お昼も楽しいけど、やっぱり夜は夜の魅力があるなぁ」

 彼女の目は、まるで子供のようにキラキラとしていた。それが少し羨ましく思う。なぜ羨ましく思うのかはわかってはいるが、気づかないふりをした。気づけば尖沙咀に到着していたバスから降り、スターフェリーのターミナルまで徒歩で向かう。東京や大阪とは全然雰囲気の違う大都会。すっかり暗くなった空、街には煌々とネオンが灯る。彼女は、その瞳に初めて映したこの夜景をどう捉えただろうか。

「……本当にありがとう」
「突然どないしたん」
「私、蔵がいなかったら、この景色見なかったんだなって思って」

 彼女は自分の身長よりもずっと背の高い九龍側のビル群を見上げながら、そして、ビクトリア湾の対岸に見える香港島の夜景を臨みながら、息を呑んでいた。静かに感動している彼女の様子を見て、連れ出して良かったと思った。彼女がなぜ一人で香港へ来たのか、その理由は聞いていない。ただ、特に女性であれば、海外旅行は、友人や恋人、家族と行くのが一般的だろう。彼女の英語力や旅慣れていない様子を見る限り、バックパッカーというわけでもなさそうだ。自分が詮索されるのを好まないので、他人を詮索したくもないが、おそらく彼女にとってこの旅は、人生で何らかの大きな意味を持つ旅なのだろうと、直感的に思った。

「——どういたしまして。ほな、早速乗ろか。次来るの湾仔行きやけど、それでええ?」
「うん。何でもいいよ」
「何でもええんかい」
「おっ、良いツッコミ」
「関西人やからな」
「ふふ。元々夜は観光できないって諦めてたから、私にとっては全てがボーナスステージなの。私にとって今晩は、最初で最後の香港の夜! だから、観光できるだけで本当に幸せだし、何でもいい」

 満面の笑みでそう言う彼女があまりに純粋なので、俺の、ついお人好しな部分が疼く。俺と彼女にはあと二泊残されている。その二泊の夜も彼女を連れていけば、彼女にとって今日は最後の香港の夜にはならないが、それこそ今日出会ったばかりの女性にそこまでする義理もない。一旦、様子を見ることにした。

「……スターフェリー、最高だった」
「はは。そら良かった」

 湾仔側のフェリーターミナルに着いたというのに、未だ彼女は夢見心地で意識がここにあらずだ。確かにスターフェリーから望む香港の夜景はとても綺麗だった。特に彼女は初めてのスターフェリーだ、感動もひとしおなのだろう。

「せやけど、その割にあんまり写真とか撮ってへんかったなぁ」
「写真、ちょっとはスマホで撮ったけど。目で見る景色には敵わなくて。それならこの目に焼き付けておこうって」
「確かに、そう言われてみるとそうやな。目で見るんが一番綺麗や」
「蔵は結構写真撮ってたよね」
「写真が趣味の友達おって。その影響かもしれへん」

 中学最後の団体戦の試合の対戦相手かつU-17合宿で同室だった不二クンの趣味が写真だった。今でもたまに連絡を取り合う仲ではあるが、やはりお互い社会に出ると、学生時代のように頻繁に会うことも難しい。よう考えたら不二クンとも幸村クンとも、もう一年以上会うてへんのとちゃうか。同じ大阪におる謙也ですら、月に一回も会わんし。

「どんな写真撮ったの?」
「別に普通やで」

 スマホのカメラを用いて一般的な構図で撮影した香港の夜景。彼女にそれを見せると、彼女は「上手!」とお世辞を言う。

「私、そんな上手く撮れなかったよ」

 彼女はそう言って、自分で撮影した写真を俺に見せる。確かにシャッタースピードの影響なのか、ネオンがぶれていて、お世辞でも『ええんちゃう』とは言えなかった。

「……あー、すまん、なかなかコメントし難いわ」
「だよね〜……」

 目の前の彼女は、肩を落としている。

「……送ろか?」
「え?」
「写真。こんなんで良かったらやけど」
「いいの?」

 言葉の調子は控えめだが、打って変わって目をキラキラさせている。普段ならあまり女性に連絡先を教えたくないところではあるが、そのまま自然と、メッセージアプリの連絡先を交換する流れとなった。
 まず彼女から、『支倉麻衣です。よろしくお願いします』とテキストメッセージが着て、そのあとスタンプが送られてきた。へぇ、名前、こういう字書くんや。口頭でしか自己紹介していなかったので、新鮮だった。そのあと俺からも簡単な名乗りと挨拶を送り、そのままさっき撮影した写真を数枚送る。もちろん彼女は彼女で、自分のスマホで俺とのトークルームを開きっぱなしなので、すぐに既読がついた。

「一生の思い出になりそう。ロック画面に設定しようかな〜」

 何気なく発した一言だと思うが、そこから、やはり彼女にとってこの旅は何か大きな意味を持つものなのだと、確信に変わった。

「この後は、どうする?」

 湾仔の街をあてもなく歩くのも無駄が多い。そう問うと、彼女は、んー、と口元に手を当てながら考え、「お酒飲みたい」と答える。

「さっき、ジャックとアビーと飲んどったやん」
「いや、あの時実はお茶しか飲んでなくて……っていうかあの二人がめちゃくちゃ飲んでたよね? 気づいたら缶ビール全部開いてたんだけど」
「確かにな。せやけど、二人ともザルやったな」
「蔵もそんなに飲んでなかったよね」
「俺は、元々夜も外出る予定やったし」
「そっかぁ。じゃ、蔵もまだ飲めるね?」
「まあな」
「じゃ行こう!」
「どこに」
「飲めるとこ! ……って、調べてないけど」
「……麻衣、自分結構適当な性格しとんな?」
「ごめん、大雑把で……ガイドブック見てみるね」
「はは。別に責めてへんて」

 彼女が広げたガイドブックを隣から覗き込む。

「ルーフトップバーっていうのがあるみたい。湾仔にあるかはわかんないけど」
「湾仔にあるルーフトップバーな。検索してみるわ」

 スマホで検索すると数件ヒットした。そのうちの一つが近そうだ。

「ここでええか? 混んでるかもしれへんけど」
「うん」

 ルーフトップバーは、混雑はしていたものの、幸い、入店することができた。天候に恵まれていたため、俺達は、屋上のフロアで飲むことを選択した。観光客も地元の人間も垣根無く、様々な人種が、アルコールとクラブミュージックを楽しんでいる。端の方の席がちょうど二席空いていたので、そこを確保した。彼女はカラフルなカクテルを、俺はシンプルにビールを注文し、二人で乾杯をする。
 ビルの三十階以上の高さから望む香港の夜景は、スターフェリーから眺める夜景とはまた違う魅力を放つ。彼女はその夜景に魅入っていたようだが、ふと呟く。

「……こうして香港で夜景見てると、日本で悩んでた色んなこと、飛んで行っちゃうな」
「そうなん?」
「うん。色んなことあったけど、あまりに目の前が非現実的な景色だから、現実のこと忘れちゃう」

 そう言いながらカクテルに口をつける彼女に、俺はつい聞いてしまった。

「……何で、一人で香港来よう思ったん」

 聞いたあと、あ、と思った。結局、詮索してもうてるやん。ただ、彼女は特に嫌な顔もせずに、すっきりとした様子で答える。

「人生をもう一度見つめ直すため、かなぁ」
「人生?」
「うん。五年くらい付き合ってた彼と、私は結婚するつもりでいたんだけど、二ヶ月前に突然振られちゃって」

 何や、傷心旅行か。よくある話やな。少し興醒めしたが、自分から振った話だ、最後まで話を聞かなければ。

「で、その時に気づいた。もちろん彼に振られたことはショックだったけど、それ以上に、自分の人生が彼次第になっていた自分に気づいたのがショックだった」

 その言葉に、再び興味がわく。どうやら彼女にとって、この旅は、ただの失恋を癒す旅ではないらしい。

「本当はもっとやりたいこと、行ってみたい場所、チャレンジしたい仕事、たくさんあったはずなのに、彼と結婚すると思ってたから諦めてたことたくさんあった。例えばこうやって海外に一人で来るとか。だから、まずは自分自身を充たしてあげて、見つめ直そうと思ったの。何も制限がなかったら、私は何がしたかったんだろう、何が幸せなんだろう、って」
「……」
「でもね、今日一日で、たくさん気づきがあった。ジャックやアビー、蔵の優しさに触れて、香港の美しい景色に心が動いて。一般的に何歳までに結婚したら幸せとか、お金持ちになったら幸せとか、色々幸せの定義はあるのかもしれないけど、特別なことは、特に必要なかった。幸せって、日常にたくさんあるって気づけたよ」

 彼女のそんな言葉に、俺の心が刺激された。ずっと心が動かない日々を過ごしてきた。何を見ても、何を聞いても、今一つ何も感じられない。香港という異国に来たってそうだ。だからこそ、彼女が一つ一つに心を動かしている様子を近くで見ていて、俺は羨ましかったのだ。俺にもそんな時代があったはずだ。少なくとも中学時代は、仲間とともに、ポジティブな感情もネガティブな感情も毎日ビビッドに感じて過ごしていた。いつからこうなった?

「——あれ、ごめん、何か気に障ること言った……?」
「全然。むしろその逆。俺は麻衣が羨ましいわ」
「え? 五年付き合った彼氏に振られるとか、体験しない方が幸せだと思うけど」
「そこちゃう。キミは何でもない日常で幸せをちゃんと感じられるやろ」
「どういうこと?」
「いつからか、俺は感情がなーんも動かんようになってしもた。香港の夜景見ても『綺麗やなあ』とは思うけど——それ以上でもそれ以下でもないっちゅうか、何やどこかで冷めとるっちゅうか」

 そこまで話して、はたと気づいた。初対面の女性に何をペラペラと話しとるんや、俺は。普通、知り合ったばかりの人間にこんなん言われたら困るだけやろ。ただ、彼女はそんな俺の発言に困った様子はなく、むしろ、じ、と無言で俺の瞳を見つめる。

「……きっと、蔵は頑張り屋さんなんだよ」
「?」
「蔵は、初対面の私を夜の香港に連れ出してくれるくらい優しい人だから。自分を差し置いても、色んな人の期待にたくさん応えようって頑張ってきたから、自分のやりたいこととか、好きなものとか、嫌いなものとか、よくわかんなくなっちゃったんじゃないかなぁ」

 勝手な憶測だけどね。と、照れ隠しなのかそう付け足し、彼女は笑っていた。ただ、そんな彼女の言葉に、なんとなく納得している自分がいる。別に自分の意志を無理に押し殺してきたつもりもないが、どちらかというと、これまでの人生、周りのことばかりを考えて過ごしてきたような気がする。

「……自分、すごいな。初対面やのに、何や言い当てられた感じあるわ」
「ちょっと似てるなと思ったから。ほら、私も元彼との結婚を意識しすぎて自分のやりたいことわからなくなってたじゃない? 種類は違うけど、事象としては重なるというか」
「確かに」
「蔵も、香港にいる間に、何か良いきっかけがあるといいね」

 彼女はそう言って笑う。その頬は、アルコールが回ってきたせいか、少し赤みを帯びていた。ふと、昼にジャックが言っていた言葉が脳内を駆けていく。「今日から日本人が三泊四日でもう一人泊まるよ」。彼女と俺がそれぞれ香港で過ごす夜は、あと二回残されている。ただ、俺が連れ出さない限り、彼女はきっと残り二回の夜を、あのゲストハウスの中で過ごすことになるのだろう。

「なあ、麻衣」
「ん?」
「……明日と明後日は、夜、どないするん」
「え? あんまり考えてなかったけど……ゲストハウスで、のんびり過ごそうかなと」
「——もし良かったらやけど、明日明後日も、夜一緒に外行かへん? せっかくの香港の夜、ゲストハウスに籠りっぱなしは勿体無いやろ」
「いいの? 今日だけでも色々付き合ってもらっちゃってるのに」
「ええよ。俺も、麻衣と話してると、色んな気づきが起こんねん」
「……正直、夜外に出られないのは残念だったから、そう言ってもらえて嬉しい。お言葉に甘えちゃうね。本当にありがとう」

 改めてビルの屋上から香港の夜景を臨む。心なしか、先ほど眺めたときよりも、世界が煌めいているような気がした。