「まさか海外とはね」
「意外でした?」
「ううん。あなたらしいわ」
有休の申請が無事に通り、旅行先も決めた。真っ先に旅行先を伝えた相手である先輩は、少し呆れたような顔をした。
「英語、話せるんだっけ?」
「中学英語レベルです」
「広東語は?」
「いえ、全く。でも日本人なので、漢字は読めます!」
「……。もう、天然なんだか賢いんだかよくわからないわね。女の子の海外一人旅か……ちょっと心配」
「大丈夫ですよ。夜は一人では出歩かないつもりですし」
「本当、そうしてよね」
「それに、そこまで治安悪くないですよ、香港は」
「……香港、ねえ。何で香港にしたのよ」
「近くて安くて、言葉も何とかなりそうだったからです。英語と漢字なら、何とかなりそうじゃありません?」
「普通に北海道とか沖縄とか国内にすればよかったじゃない」
「……北海道も沖縄も、元彼と行ったことあって」
「……ごめん。失言」
「いえ、良いんです。失恋直後よりは、先輩にイタリアンご馳走になったのもあって、だいぶ回復してきたので」
そう笑顔を作って見せると、先輩はまた眉を下げて微笑んだ。人生初めての海外一人旅、行先は香港、三泊四日。会社のカバンの中にも、ここしばらくずっと香港のガイドブックを忍ばせてある。予習は十分だ。そして、航空券と宿の予約も。
社会人三年目、まだまだお給料はそんなに高くないので、節約旅行だ。航空券はLCCで手配した。宿泊は、ゲストハウスのドミトリー。一泊二五〇〇円と破格で、評価も高く、日本人の口コミの内容も良かったので、即決してしまった。
正直ドキドキするし不安もある。でもワクワクする気持ちのほうが大きかった。この旅で、自分を見つめ直そう。今までは彼と結婚することしか選択肢になかったけれど、これからの自分の生き方は、自分自身で選択することができるのだから。
*
深夜に羽田発・香港行きの飛行機に乗り込んで約四時間。香港国際空港に無事に着陸したものの、そこからの入国審査は長蛇の列で、香港に入国するだけでどっと疲れが出てしまった。それでも、ついに。
「……私、海外に一人で来れたんだ」
空港ロビーにたどり着いて、漢字だらけの看板が目に入ると、一気にここが異国である実感がわいてくる。まずは、今日からお世話になるゲストハウスに行き、この大きなスーツケースだけ預かってもらおう。そうしないと今日の観光は始まらない。
「ゲストハウス、MTRで行けたらいいのに……バスなんだよね……」
機内で、スマートフォンのSIMを、事前に購入していた香港SIMに入れ替えたので、ネット環境は整っている。ゲストハウスへのアクセスを、改めて公式サイトと地図アプリで確認する。そしてバス乗り場まで向かい、片言の英語でチケットを購入し、日本ではあまり見ることのない、二階建てバスに乗り込んだ。
バスは、香港の街を駆け抜けていく。車窓から見える景色が、日本のそれとは全く異なり、少しだけ不安な気持ちが現れた。随分遠くまで一人で来てしまった。もちろん知り合いなんて一人もいない。言葉もほとんどわからない。降りる予定のバス停は事前に調べてきたけれど、注意してアナウンスを聞き、また、電光掲示板を目を凝らして眺めておかねば。
何とか事前に調べていたバス停で下車することができた。それだけで、ドラ〇エのレベルアップ音が頭の中で流れるくらいには達成感がある。目の前には、日本では決して見られないような、ビルとビルがせめぎ合う景色。頬を撫でる温い風や、異国の香り——全身で、香港を感じる。
独特の音がする信号を渡り、築年数の古いビルの狭い階段を、スーツケースを片手に持ちながら上る。三泊四日の荷物とはいえ、少し重い。腕をぷるぷるさせながらなんとか上り切った先に、そのゲストハウスの入口が存在していた。
「ハロー。マイネームイズ……」
まるで中一の教科書か。と自分でツッコミを入れたくなるような英語で、ドアを開けながら中へ入ると、ゲストハウスのホストを務めていると思われる、同世代のアジア人と思われる男性が現れた。
「Hello. I’m Jack. Nice to meet you!」
「な、ナイストゥミーチュー」
「ダイジョウブ。ボクは少し日本語話せます」
「え?」
「日本に短期留学してたこともあります。キミは今日から三泊の人ですか?」
「そうです。チェックインには早いけど荷物を預けたくて」
「OK。チェックインまではフロントで預かります」
「ありがとうございます! サンキュー、ジャック!」
「My pleasure. Have a nice day!」
ジャックはそう爽やかに笑うと、私の持っていたスーツケースを預かり、そのままフロントの奥の方へ持っていく。日本語が通じる人で良かった。助かった。
ジャックに荷物を預けた後、身軽な状態で階段を下り、香港の街へと戻る。女一人旅、夜の観光は控えたい。とすると、日中に一生懸命観光しておかなければ。日本との時差はマイナス一時間なので、比較的身体も元気で順応している。日本から持ってきたガイドブックを片手に、まずは行ってみたかった飲茶のお店に向かうことにした。
*
日が暮れてきた。そろそろゲストハウスに戻らなければ。夕食を外で食べていると、本格的に夜になってしまう。そうなると、一人歩きが怖い。香港まで来ておいて仕方ないが、コンビニで簡単な食事を買って、ゲストハウスに戻ることにした。そしてなぜか、香港まで来ておいて、おにぎりを選んでしまった。意外と私、既にホームシックなのかな。
ゲストハウスのドアを開けて、また「ハロー」と呼びかけると今度は二十歳そこそこくらいの美人な女の子のスタッフが出迎えてくれた。ただ、その子にはどうやら(当たり前だが)日本語は通じなそうだ。見た目は日本人っぽいのにな。片言の英語で、自分の名前と、昼にジャックに荷物を預けたことを伝えると、その子は「ああ」と気づいたような表情になり、奥の方から私のスーツケースを取り出してくれた。そして、簡単にゲストハウスでの過ごし方を、私に合わせて、ゆっくりめの易しい英語で案内してくれた。そして最後に名前を名乗ってくれた。彼女はアビーと言うらしい。
「Have you had dinner yet?」
……今、「もう夕ご飯食べた?」って聞かれたんだよね? 教科書英語と実践英会話のとんでもない差を感じさせられる。「ノー」と答えると、彼女は続ける。英語があまり正確に聞き取れないけれど、この感じはもしかして一緒に夕食を食べないかと誘われている? 彼女が案内してくれたゲストハウスのロビーとなっている共有スペースには、既に美味しそうなローカルフードが並んでいた。でも、彼女が一人で食べるには多すぎる量だ。他にも仲間がいるのかな。どうせ一人で寂しくおにぎりを食べる予定だったのだ、アビーの誘いを受けよう。
そのままアビーと片言の英語でコミュニケーションを取りながら、私たちは他の仲間を待った。アビーの話だと、飲み物の買い出しに行っているらしい。そしてその「他の仲間」というのは、二人いて、一人は朝に会ったジャック、そしてもう一人は、昨日からこのゲストハウスに宿泊している日本人とのこと。この異国で、日本人と会えるのか。少しほっとする。
そんなとき、ゲストハウスの入口のドアが開いたと思うと、ジャックが現れた。
「你遲到咗」
「唔好意思」
アビーとジャックのそんな会話の中、後ろからもう一人現れた。この人が、さっきアビーが言ってた日本人なのかな?
「Oh, that’s one more.」
「She’s the Japanese I was telling you about.」
「I see.」
……本当に日本人なのかな、なんか英語ペラペラそうだけど。缶ビールなどのお酒が入った買い物袋を持った彼は、アビーと私の座っているテーブルの方へ近づいてくる。
彼との距離が近くなって、私は気づいた。思わず「芸能人ですか?」と聞きたくなるくらいには整った容姿。普段だったらこんなイケメンと知り合う機会もないし、知り合ったところでビビッてしまい会話なんてできないのだけれど、そんな彼のほうから、話しかけられてしまった。
「日本の方ですか?」
「あ、はい。東京から来ました。あなたも日本の方で……?」
「はい。俺は大阪から」
先ほどまで流暢な英語を話していたはずの彼は、私の目の前で流暢な日本語(しかも関西弁のイントネーション)を話している。本当に日本人だったんだ。初対面のイケメンと話すのは、きっといつもならガチガチに緊張してしまうのだけれど、今回に限っては異国の地で久しぶりに同じ日本人に会えた嬉しさ、久しぶりに日本語で会話できる感動の方が大きくて、テンションが上がってしまった。そんな中、隣から不機嫌そうな声でアビーが彼に話しかける。
「Can you please not speak in Japanese, Kura? I don’t understand Japanese.(あんまり日本語で話さないでくれる、クラ? 私は日本語がわからないの)」
「Sorry, Abbie.(堪忍、アビー)」
そのまま、ジャックとアビーと日本人の彼の間で流暢な英語での会話が繰り広げられる。私は彼らが何を話しているか断片的にしかわからないけれど、どうやら、私の話をしているらしい。たぶん、私を、彼らとの食事の仲間に入れる交渉をしてくれているのだろう。彼らはアビーの話を聞くと、OK、と言っていた。
「If we keep speaking in English, now she won’t get into it. Why can’t Kura and I speak Japanese once in a while?(俺らが英語で話し続けていると、今度は彼女が話に入れないよ。クラと俺、少しは日本語を話しても良いだろ?)」
「That’s true.(それはそうね。)」
そんな会話の後、ジャックが久しぶりに日本語を話してくれた。
「アビーは日本語が話せません。でも、ボクとクラが間に入るから、キミも話してください」
「クラ?」
「あ、そうや、名乗ってへんかった」
「あ、それを言うなら私もです。支倉麻衣と申します」
「俺は、白石蔵ノ介言います」
「白石さん。よろしくお願いします」
そう頭を下げると、彼は意外な提案をしてきた。
「見たところ多分同世代やし、英語やったら敬語の概念もあらへんし、よかったら日本語でも敬語外さへん?」
確かに、彼も見たところに二十代半ばで、そう年齢は変わらなそうだし、英語と日本語を織り交ぜて会話するのであれば、敬語の概念も取っ払った方がやりやすい。
「あ、はい! じゃなかった、うん。よろしくね、白石くん」
「あー……ジャックもアビーも『蔵』呼んどるし、キミだけ俺のこと『白石』言うても二人には通じひんさかい、キミも『蔵』でええよ。俺もキミのこと、『麻衣』て呼ばせてもらうな。これからよろしゅう」
白石くん、改め、蔵は右手を差し出してきたので、そのまま握手する。握手なんて、なんだか外国っぽいな。相手日本人だけど。
*
その夜は、ジャックとアビーと蔵と四人で夕食を食べた。会話の基本は英語だったが、私に合わせてみんなゆっくりはっきり話してくれたので、片言でも交流することができ、楽しい時間となった。
夜の観光はできないと諦めていたから、夕食を食べ終わった後も共有スペースのソファで、先程コンビニで買ってきたおにぎりを片手に一人スマホをいじっていた。すると、ふと男性用のドミトリーのドアから出てきた蔵と目が合った。彼はボディバッグを身につけて、出掛けるようだ。
「……あれ、さっき一緒にメシ食わんかったっけ」
「まぁ、そうなんだけどね」
蔵の方からそう話しかけられ、ふと恥ずかしくなった。よく食べるやつだと思われただろうか。一応このおにぎりを食べることを前提に、四人で食べた夕食は控えめにしたつもりだ。
「麻衣は、夜は、観光せえへんの?」
「……さすがに、女の一人歩きは控えてこうかなって」
「香港三泊四日のうち、夜行動せえへんの、せっかくここまで来とるのに、勿体無いんちゃう?」
いつの間にか蔵はこちらへ近づいてきていて、私の隣に座った。ソファがグッと沈む。確かに彼が言う通り、勿体無いとは思う。本当は私だって、夜も自由にあちこち観光したいし、百万ドルの夜景を楽しみたい。でも、こんな片言で、しかも女なのだ。万一何かあったときには取り返しがつかなそうで、出るに出れない。私も蔵みたいに男性だったら、片言でも一人で外出できたのかな。それか、もう少し英語か広東語が堪能だったら。そう思ったら少しモヤモヤとしてきた。何も答えない私の顔を覗き込むと、蔵は色々と察したのか、「すまん」と謝る。
「別に謝ることじゃないけど」
「……いや、俺の配慮が足りひんかったわ」
「……」
「一緒に行く?」
「え?」
「俺と一緒やったら、キミも夜、香港観光できるやろ」
「嬉しい提案だけど、蔵は一人旅楽しみに来たんでしょ? 邪魔しちゃうよ」
「逆に、さすがにこれで『ほな行ってくるわ』って一人で出ていく方が、俺にとっては罪悪感やねんけど。遠慮してるんやったら、別に遠慮せんでええよ。ほんまは夜、観光したいんやろ」
「……本当にいいの?」
「良いも何も、俺から誘ったんやで」
隣に座る蔵は、そう言って微笑む。親切な人だ。気づいたら私は首を縦に振っていた。