PMQは、広い。一通り巡った頃はちょうど午後六時となっていて、私達はPMQ内のレストランで早めの夕食を食べた。そして、ついに、この時間が。
「ピークトラム乗らんとな」
ピークトラムとは、一八八八年創業の香港で最も古い公共交通のケーブルカーであり、ビクトリア・ピーク(山頂)まで急勾配二十三度を上昇していくことで有名だ。まずはPMQから、ピークトラム乗り場まで、徒歩で十五分程。そこから、長蛇の列を並び、ついにピークトラムに乗車する。右側の窓側の席が、景色が綺麗らしい。
「右側乗れるかな」
「どうやろ。乗れたらラッキーやな」
「ちなみに前回は?」
「前回は卒業旅行でまあまあ人数おったから、俺は少なくとも右側やなかったわ」
「そうなんだ」
そして、私達がトラムに乗る番がやってきた。やはり右側の窓側の席はすぐに埋まっていく。ただ、そんなとき、不意に蔵から「麻衣」と呼ばれる。いつも呼ばれているはずなのに、なんだか急に胸がきゅんとした。好きな人に名前を呼んでもらえるって、こんなにきゅんとすることだったんだ。
「ココ。席取れたで」
「えっ、すごい、右側窓側!」
「ここはキミが座りや。俺は隣でええわ」
「えっ、蔵も右側初めてでしょ?」
「ええねん俺は。俺は麻衣にピークトラムを楽しんでもらいたい」
蔵がそう言うので、お言葉に甘えて右側の窓側の席に座らせてもらうことにした。木製の椅子に腰掛ける。
そのままトラムは、山頂に向かって出発した。そして、最大傾斜のところでは、あまりに角度がつきすぎて、首に重力がかかる。
「首すごっ……、でも地元の人は毎日これ乗ってるんだよね。それもすごい」
「この辺に住む人生も楽しそうやな」
「蔵が香港移住するなら、また蔵を訪ねに香港に来るよ」
「はは。いつでも待ってるで」
お互い冗談を言い合っていることはわかっている。でも、例えばそれが大阪であっても。また蔵に会いに行ってもいいのかな。いつでも待っていてくれるのかな。やっぱり、今夜を最後にしたくない。ビクトリア・ピークからの夜景を観たら最後、私たちの香港旅行は終わる。もう、本当にあと二、三時間で終わってしまうのだ。
トラムの窓からは、既に絶景が広がっている。ナポリ、函館と合わせて世界三大夜景と言われる、香港の百万ドルの夜景。写真を撮ろうと思ったその時、蔵と出会った初日に、スターフェリーで写真を撮った時のことを思い出した。あの時はまさかこんな気持ちになるなんて思わなかった。どうしよう、なんだか、泣いてしまいそう。あれから、私のスマホのロック画面は、蔵が撮ってくれた写真だ。もしタイムスリップできるなら、またあのスターフェリーの夜に戻れないかな。ずっとこの三日間を繰り返していたい気もする。
「……どや? よう見える?」
不意に背中に気配を感じる、と同時に、左耳にダイレクトに蔵の声が聞こえた。窓側に座っている私の後ろから、蔵も窓の外を覗き込んでいる。彼は何の意識もしていないだろうけれど、私は彼からバックハグでもされているような気分で、ドキドキしてしまう。ねえ、ちょっと近くないかな!? 蔵って、もしかしてパーソナルスペース狭め?
「あ、うん、おかげさまでよく見えるよ……」
「お、ほんまや。……って、何や泣きそうな顔して。もう感動したんか?」
蔵は揶揄うように笑う。だから、近いんだってば。感傷的になっていたところに、急にドキドキさせられて、感情が色々と追いつかない。
そうこうしているうちに、ピークトラムは山頂にたどり着いた。ああ、着いちゃった。だんだん旅が終わりへと近づいていく。この瞬間瞬間を楽しみたいのに、切なさが増していく。
「楽しみやな、夜景」
「うん、そうだね」
「……何や、声暗いな?」
「え!? そんなことないよ。楽しみ楽しみ!」
頑張って笑顔で楽しそうな声を作って、くるりと蔵の方を振り返った。そのせいで、肩がトスン、と道ゆく人にぶつかる。
「Sorry!」
慌てて振り返って謝ると、ぶつかった相手は六十代くらいの紳士なおじさまで、「That’s all right.」と笑顔で返してくれた。素敵な人で良かった。
「こら。ちゃんと前向いて歩きなさい」
「ごめんなさい……」
まるで子供みたいな理由で蔵に叱られる。もう二十代も半ばなのに。俯いていると、頭の上から「ほんまにしゃーないな」と少し呆れたような、でも優しい声が落ちてきて。次の瞬間、とても自然に手が繋がれた。えっ。反射的に顔を上げてしまったけれど、顔を上げたことに後悔もした。絶対、今、顔赤くなってる気がする。
「他の人に迷惑かけんように」
「はい……」
「……っちゅーのは建前」
「え」
「——嫌やった?」
嫌なわけない。けど、その質問はずるい。無言で、首を横に振ると、蔵は「ほな、行こか」と、そのまま歩き出す。手汗出そう、どうしよう、でも離したくない。そして、蔵は『建前』と言っていた。とすると、もしかして——私と、手を繋ぎたかったってこと、だよね。幼稚園児じゃあるまいし、まさか、ただの友達と、手は繋がないよね? ねえ、ここまでされたら、さすがに期待しちゃうよ。
*
ビクトリア・ピークの展望台にたどり着いた。俺にとっては、人生二回目の場所。とはいえ、前回来たのは昼だったから、夜は初めてだ。
眼下に広がる百万ドルの夜景は眩しかった。めちゃくちゃ綺麗や。今は、素直にそう思える。
「綺麗……」
隣にいる彼女も、それ以外に言葉が出てこないようだ。手を繋いだまま、俺たちは写真も撮らずに無言でずっと夜景を眺めていた。どちらかといえば俺は、現実主義者だ。だが、今この瞬間だけは、柄にもなく思う。——時が止まればいいのに、と。
そのままどれくらいの時間が経過しただろうか。俺は、意を決して、昼のスタンレーの言葉の続きを彼女に伝えることにした。受け入れてもらえるだろうか。いや、もし受け入れられなくても構わない。
「……なぁ、麻衣」
そう呼びかけると、彼女の視線は夜景から俺の顔へと移った。
「昼の話の続き、してもええか?」
「……うん。そうだったね」
彼女は少し緊張したような顔をしている。
「俺な、前に話した通り、香港来る前は、ほんまに無感動な日々を過ごしててん。こういう夜景見ても、綺麗やなとは思うねんけど、それだけっちゅーか。心が動かへんかった。せやけど、この三日間で、変われたんや」
「うん」
「麻衣は『香港すごいね』言うたけど。すごいのは香港ちゃう。すごいのは麻衣自身や。俺はキミのおかげで大事なことに気付かされた」
「——私?」
「そうや。まず、キミは、綺麗なモンは綺麗、幸せな時は幸せ、悲しい時は悲しい。嘘がなかってん。感情が動かんようになってしもた俺にとって、正直羨ましかった。せやけど、そんなキミがルーフトップバーやSOHOで俺にかけてくれた言葉で、俺自身も自分自身を見つけられたんや」
周りのことを考えすぎていたこと。でも、本当はちゃんと自分の好きなことを選んでいたこと。人生の主導権が、本当は俺自身にあったこと。彼女と出会わなければ、今だってきっと気づけていなかった。
「せやから、俺は、キミにめっちゃ感謝しとる。ほんまにおおきに」
「……こちらこそだよ。私も、蔵がいなかったらこの旅行はこんなに楽しいものになってなかった。それに、昨日の夜は、ずっとそばで慰めてくれたし、本当に感謝しかないよ。ありがとう」
彼女はそう言って俺を見上げる。その瞳は少し潤んでいる。
なぁ、何で泣きそうなん? 都合の良いように取ってまうで。
今、伝えへんかったら、俺も一生後悔しそうや。
「……俺な、今まで自分の気持ちは後回しやったけど、今日はちょお我儘になろう思て。せやから、言わせてな」
この前置きで彼女も察したのだろう。繋いだままの手。彼女の指が、微かに震えた。
「日本に帰っても、またキミに会いたい。俺のそばにおってほしい。まだ出会って三日目やねんけど——俺はキミのことが本気で好きになってもうた。どうしても、今夜、この場所で、伝えたかってん」
そう伝えると、目の前の彼女の瞳から、まるで宝石のように、ぽろっと涙がこぼれた。
「……蔵、それ、全然我儘じゃないよ。だって——すごく、嬉しい」
鼻を啜りながらも、彼女は一生懸命に言葉を紡ぐ。
「……私、もう蔵に会えるの今日が最後かも、って思ってた。だから、また会いたいって言ってくれて、本当に嬉しい。私も、まだ出会って三日目だけど——蔵が好き。大好き」
きっと同じ気持ちだろうと予測はしていたが、本人から直接言われる「大好き」は——あかん、ちょお、我慢できひんのやけど。外国やし、ちょっとは大胆でも許されるんちゃう?
そのまま彼女の身体に腕を回すと、彼女の顔が俺の胸あたりに埋まった。繋いでいた手を一度離して、彼女の後頭部を押さえ、ぐっと抱き寄せる。
「——明日は、俺、午前中の飛行機やさかい、早朝にゲストハウス出なあかん」
「……そっか。じゃ明日は残念だけど別行動だね」
「せやけど。日本帰ったら、日本で会おな」
「東京で? 大阪で?」
「どっちでもええよ。俺が東京行こか?」
「私が大阪行ってもいいよ」
「はは。要相談やな」
百万ドルの夜景が綺麗で。夜風が気持ち良くて。腕の中にいる彼女が愛おしくて。ただ、それだけで良かったんやな。俺は、今、確かに「幸せ」や。