第8話 3日目・夕方

 彼女に惹かれている自分がいることは確かだが、失恋したばかりで次の恋愛の準備ができていない状態の彼女に、自分の気持ちを押し付けるようなことはしたくないと思っていた。ただ、スタンレーで過ごした中で、勘違いでなければ。
 昼食を取り、海を眺め、そして彼女が行きたそうにしていたスタンレーマーケットでショッピングを楽しみ、今は帰りの中環行きのバスの中だ。隣に座る彼女は疲れてしまったのか、いつの間にか俺の肩に無防備に頭を預けて、眠っている。——そしてそんな彼女の寝顔を見ながら率直に、可愛えな、と思う。

 彼女の呼吸と温度を感じながら、スタンレーでの出来事を思い返していた。

「今度、って。私、明日日本に帰っちゃうよ」
「俺も明日帰るで」

 そう告げた後の彼女は、何か問いたそうな顔をしていたが、何かを飲み込んでいた。飲み込んだのはきっと、今度っていつ、という類の質問だろう。その時の彼女の表情を見て、もしかして——と淡い期待が過ぎる。
 自慢のように聞こえるかもしれないが、異性から好意を向けられる経験は昔から多かった。そのため、こういうことには敏感だ。いつもは、好意を向けられていることに気づいては、それ以上の好意を寄せられないように、やんわり牽制していた。ただ、今回は。
 彼女への気持ちをどう整理するか考えあぐねていた。何も伝えず、ただの思い出にすることもできる。帰国後、友人として関係を続けることもできる。しかし。

「——ほな、今度やなくて『今晩』やな」

 そう告げて、第三の選択肢を選ぶことを決めた。

 彼女が寝てしまったので、バスの中では特にすることもなく暇を持て余していた。中環まではあと四十分ほどだろうか。今日は、まだまだ長い。俺も、ちょお、寝とこかな。

 ふと目を覚ます。目を覚ましたという事実で、私は今まで自分が眠っていたことに気づいた。そして、自分が頭を預けていたのが、蔵の肩だったという事実にも。無意識とはいえ、一気に恥ずかしくなる。

「わ! ごめんね!」

 咄嗟にそう伝えて肩から頭を離したけれど、蔵からは特に反応がない。ん? え? もしかして——。
 隣を見ると、静かに寝息を立てている蔵がいた。わあああ、寝てる……! 起こさないようにそっと身体を離して、改めて彼の横顔を見つめる。鼻筋から顎までのラインはまるで彫刻のようだ。そして、伏せられた瞳を縁取る長い睫毛が、頬に影を作っている。
 その寝顔を見ながら、心臓が締め付けられるような感覚を覚えた。私が毎晩振り回しちゃったから、疲れさせちゃったかな。でも、文句一つ言わずに付き合ってくれたし、それどころか、元彼との一件のときはそっと励ましてくれて。——やっぱり、好きだな。いつもはカッコいいイメージだけど、寝顔はなんだか可愛いな。でも、今日でこうやって会えるのは最後なのかな。日本に帰っても、友達として会ってくれるのかな。
 そう思うと、今この瞬間がとんでもなく尊いものに思えて。時間が止まってほしい。でも、時間が止まるわけはなくて。そのまま、バスが中環に着くまで、私は眠っている蔵の隣で、この一瞬一瞬を味わっていた。

「起こしてくれても良かったんやで」
「だって、ぐっすり寝てたから」

 そう伝えると蔵は「そーか」と少し照れていた。バスは中環(セントラル)に戻ってきたけれど、夜のビクトリア・ピークに行くまでは、まだ時間がある。

「どっかこの辺観光してから、ビクトリア・ピーク行こか。中環(セントラル)、上環(ションワン)あたりで行きたいとこある?」
「実は、PMQが気になってた」
「あー。PMQな」
「蔵は行ったことあるの?」
「前回香港来た時な」
「被っちゃってもいい?」
「全然ええよ。何なら前回もビクトリア・ピーク行っとるし」
「ええ! ごめん!」
「はは。どっちも、別に何回行ってもええとこやろ。それに、一緒に行く人がちゃうやん」

 ほな行こか、と彼は歩き出す。そっか、PMQもビクトリア・ピークも彼にとっては二回目だったのか。PMQはさておき、ビクトリア・ピークは香港一有名な観光地なのだ、言われてみれば当たり前のような気もした。
 中環から徒歩でPMQへ向かう。PMQというのは、大型のショッピングモールだ。元々は警察官舎だった建物をリノベーションして、今は、アーティストやデザイナーによるアトリエやショップとなっている。

「へー、こんな感じのところなんだ、オシャレ! 雑貨だけじゃなくて、カフェもあるんだね。カップケーキ美味しそう……」
「腹ごしらえしとくか?」
「……うん。寄りたいです」
「はは、素直やな。キミのええとこや」

 蔵はそう言って、とても自然にその大きな手で私の頭に手を置く。いわゆる、頭ポンポンというやつだ。そういえば昨夜、トラムで泣いてしまった時にも、彼はこうして頭を撫でて慰めてくれたような気がする。あの時はときめく余裕もなかったけれど、今は状況が違う。いやいや、軽率にそういうことしちゃダメだって。こっちだって、軽率にときめいてしまう。
 でも彼の性格的に、誰彼構わずこういうことはしないだろうな、とも思う。ということは、もしかして、蔵も、私に対してちょっとは好意を持ってくれていたりするのかなぁ——って、いや、まさかね。期待はしないでおこう。期待が外れたときに悲しくなるから。

 彼女と過ごす中で、「もしかして」が、確信めいたものに変わっていく。どうやら俺の想いは一方通行ではなさそうだ。そう思ったら、今日は香港で彼女と過ごせる最後の日だ。伝えるべきことは、必ず伝えたい。そして、彼女と過ごす時間を最大限楽しみたい。
 カップケーキを食べた後(ちなみに俺はドリンクのみで、ケーキ自体は食べていない)、俺たちはPMQ内の様々なショップでウィンドウショッピングをしていた。そんな中で、地元のアクセサリー作家のショップで彼女は足を止めたので、俺も一緒に立ち止まる。

「……可愛い」

 視線の先には、ネックレスがあった。へえ、こういうデザインが好きなんや。この三日間、彼女の服装は、Tシャツにジーンズというような、かなりシンプルなものだったので、少し意外だった。ただ、女性の一人旅で、最初は夜の観光すら控えていた彼女だ、きっと服装も敢えてシンプルなものを選んだだけで、日本ではもっと違う系統の服装をしているのかもしれない。スカートとか、女の子らしい服装もきっと似合うんやろな。と、うっかり妄想してしまった。中学生か、俺は。

「似合いそうやん」
「ありがとう。でも、意外と高かったから、今回はやめとこうかな……」

 値札を見ると、七九八香港ドル。日本円にすると、一万二千円~一万三千円といったところだろう。社会人三年目の彼女の月給を想像すると、確かに、安くはないのかもしれない。ただ、俺は本当に彼女にそのネックレスが似合いそうだと思ったし、——少しエゴを出すと、この時間を一緒に過ごした物証を、持っていてもらいたかったのかもしれない。

「……ほんなら、俺が買うわ」
「え!? これ女性物っぽいけど……でも、蔵なら何でも似合うかな」
「せやな、俺やったら似合うかもな……って何でやねん!」

 いや、ほんまに。何でノリツッコミせなあかんねん。今更やけど、この子、天然なんか?

「キミ、俺がこれつける思ったん?」
「え? じゃ、彼女にお土産とか……?」

 彼女は、急に顔を曇らせる。そんな顔をされると、ますます確信してしまう。やっぱり、彼女も俺のこと。

「アホ。彼女おったら、彼女以外の女の子と二人で海外で過ごさへんわ」
「そっか、そうだよね……」
「とりあえず会計するから、ちょお待っとって」

 さっさと会計を済ませて、プレゼント用のラッピングをしてもらう。そして。

「俺から、キミに。三日間のお礼や」
「えっ!? ちょっと待って、お礼はこっちからすることはあっても、蔵からはもらえないよ」
「キミもエッグタルトくれたやろ」
「エッグタルト何個分!? え、全然釣り合ってない」
「俺としては、遠慮されるよりも、素直に受け取ってもらえるほうが嬉しいねんけどな」
「うっ」
「それに、このネックレス、欲しかったんやろ?」
「……うん」

 彼女は、ネックレスの入った袋を手に取ると、ありがとう、と呟いた。

「……一生の思い出になりそう」
「大袈裟やな」
「大袈裟じゃないよ。大事にする」

 彼女は大切そうに袋を胸に抱きしめていた。その姿が、愛おしくてたまらない。冷静な自分が、まだ知り合うて三日目やろ、とツッコミを入れるが、時間とかそういうのは、もはや関係ない。——俺は、今、彼女が好きや。