第7話 3日目・昼

 時間通りに私たちはゲストハウスのロビーで集合し、スタンレー(赤柱)へと向かった。スタンレーへは、まずバスで三十分かけて中環まで向かう。そして、中環からバスを乗り換えて、さらに一時間。結構な長旅だ。その長旅の間に、私たちはスタンレーの予習をした。

「ネットによると、中環に行政区が移る前はここが英国植民地政府のあった場所なんやて」
「へー、由緒ある街なんだね。ガイドブックによると、スタンレーマーケットってところがメインの観光地みたい」
「ほな、後で行ってみよか」

 こうして隣り合わせにバスに座って会話していると、まるで恋人同士のデートでしかない。昨日の同じ時間にはきっとこんなこと思わなかっただろうけれど、彼を意識してしまった今となっては、このシチュエーションにどきどきしてしまう。蔵は、私のことなんて、全くそんな対象にも思っていないだろうけれど。でも、片想いでも、決して実らなくても。元彼と別れた直後を思い返せば、こうしてまた違う誰かを好きと思えることが、幸せだ。
 車窓が、大都会の風景から、徐々に郊外のようになっていく。香港は、生活に風水が根付いている。風水に基づき、中心にぽっかり穴の空いた高級リゾートマンションが見えてきた。きっと、もう目的地は近い。

「着いた……!」
「お疲れさん」

 バスを降りると、そこは港町だった。天気が良く、キラキラと太陽の光が反射する海、そして海岸に立ち並ぶ、おしゃれなレストラン。道ゆく人は欧米人が多く、香港の中心部とはまた違った雰囲気だ。

「さすが、ジャックが勧めるだけあるね。観光地感がすごい」
「ジャックに勧められへんかったら、さすがにわざわざバス乗ってここまで来おへんかったけど、めっちゃ綺麗なとこやな。来て良かったわ」

 サラッと彼はそう言ったけれど、私は静かに感動していた。

「ん? 何や変なこと言うた?」
「ううん。蔵から『めっちゃ綺麗なとこやな』って感想出たのが嬉しい。前は、感情が動かないって言ってたから」
「……せやな。香港来て、やっと取り戻せたわ」
「そっか。私も香港来て色々と自分見つめ直せたし、香港ってすごいね」
「香港がすごいというよりは、」

 蔵はそう言いかけたけれど、そのあと言葉を紡ぐのをやめた。

「?」
「——続きは、また今度や」
「今度、って。私、明日日本に帰っちゃうよ」
「俺も明日帰るで」

 それなら、蔵の言う『今度』はあるのかな? そう問いたいけれど、怖くて問えなかった。今日で会えるのは最後なのかな。私は、友達としてでもいいから、また会いたい。でもそう思っているのは私だけかもしれない。
 ふと、黙ってしまった私の顔を、蔵は見つめる。そのまま何秒間か見つめられ、恥ずかしくなってきた。彼は、何かを覚悟したように軽く頷くと、私から視線を外して、いつもの調子で言う。

「——ほな、今度やなくて『今晩』やな」
「じゃ、今晩にはスッキリできるね」
「はは。それまでモヤモヤしときや」
「意地悪!」

 そんな私の反応を見ながら、蔵は楽しそうに笑っている。そして、簡単に話題を変えた。

「……さて。ちょうど昼やし、まずは観光する前に腹ごしらえせえへん?」
「確かにお腹は減ったかな……」
「ほな、まずは先に昼飯や」

 お昼どきではあったけれど、香港は平日、月曜日ということもあり、お店はそこまで混雑していなかった。スタンレーの飲食店は、中華料理というよりは、欧米のハンバーガーショップや洋食の系統のお店が並んでいる。そのまま雰囲気の良さそうなお店に入り、私たちは食事をした。そして、やっと、海へ。
 香港に住む人々は、海水浴でスタンレーに来ることも多いらしい。ただ、私たちはさすがに水着なんて用意していないので、他の外国人観光客に混じり、岩場を歩きながら、海を眺める。中には、岩場に大の字に寝そべって日光浴をしている人などもいる。なんて自由な時間と空間の使い方だろう。

「——そういえば、目的は、達成したんか?」
「ん? どうしたの、突然」
「自分を見つめ直す旅や言うてたやろ? 見つめ直せたんかな思て」

 ふと蔵に問われて、元々の旅の目的を思い出した。途中から、蔵に惹かれはじめたり、元彼に浮気されていたことを知ったり、色々と感情が揺れ動くことが多くて、忘れてしまっていた。ただ、改めて振り返ると——。

「私ね、本当にやりたいことが自分の外側にあると思って、最初は探してた。本当は、私は何がしたかったのかなって。でも、初めて蔵と出会った日に話した通りだよ。香港の夜景が綺麗で、エッグタルトが美味しくて。特別何かしなくても、今のままで十分幸せだって、今のままで十分満たされてるなって気づけた。仕事も、ストレス溜まることたくさんあるけど、優しい先輩にも恵まれて、今は少し職場が恋しい。失恋直後は、自分のこと、この世で一番不幸な人間くらいに思ったこともあるけど、そんなことなかった。今、私って幸せだなって気づけたから、目的は達成できたんじゃないかな」

 そう答えてから、ちょっとクサかったかもと恥ずかしくなる。ただ、彼はそんな私の言葉を黙って真剣に聞いてくれていた。

「——そういえば、蔵は、結局何しに香港に来たの? まだ聞いてなかったなって」

 もう私達の間には関係性ができていたので、私も、ずっと気になっていたことを思い切って聞いてみた。

「確かに、めっちゃ今更やけど、言うてへんかったな」
「何度か名前が出てきた『ケンヤ』さんって人がきっかけ?」
「そうや。ケンヤっちゅう親友がおって。それこそ中学のテニス部からの付き合いやねんけどな。俺が強制有休取得で五連休できたんやけど何したらええと思うって相談したら『一人旅で海外でも行ってくればええやん』言うて。前に香港来たときは、ケンヤも一緒やってん。それで、ケンヤが、また香港行ったらええやん言うさかい、言われた通りにしてみただけや」
「……本当に特に目的なく香港に来たんだね。びっくり」
「ああ。せやけど、キミのおかげで楽しめたで。俺一人やったら、ルーフトップバーも、ヒルサイド・エスカレーターも、それこそスタンレーも、どこも行かへんかったと思う」
「そっか。お役に立てたならよかった。私も蔵のおかげで香港の夜が楽しめたよ。ありがとう」
「礼を言うんは、まだ早いで。今夜もあるやろ?」
「……うん。ビクトリア・ピーク、楽しみ」

 そう、今夜はついに、ずっと行ってみたかったビクトリア・ピークなのだ。でも、逆に今夜、ビクトリア・ピークに行ってしまったら最後、この夢みたいな時間は終わってしまう。シンデレラも、十二時になる直前はこんな気持ちだったのかな。そう思ったら、少し感情が昂ってしまって。きっと今、変な顔してる。口では『楽しみ』とか言っておきながら、絶対、楽しそうな顔をしていない気がする。だから、私は蔵からそっと顔を背けた。