第6話 2日目・深夜

 無事ゲストハウスまで戻ってきた。二十三時まではカウンターにスタッフがいる体制だけれど、今晩はジャックがシフトに入っていたのか、声をかけられた。

「二人とも、おかえりなさい」
「ただいま、ジャック」
「Where did you go?」

 そんな問いかけに、黄大仙から順に指折り答えていくと、ジャックは、いっぱい回ったね、といったニュアンスで笑っていた。

「How about you, Kura?」

 そのままジャックは蔵に何やら小声で話しかける。蔵は相変わらず流暢な英語で答えていた。これも、テニスの世界大会に出場したり、英語の論文を読んだりすることで培われた英語力なのだろうか。そのまま二人は何やら会話をしていたけれど、雰囲気的に二人だけの会話なのかな、とも思ったので、なるべく内容は聞かないでおいた。とはいえ、聞いていたとしても、多分スピードが速すぎて聞き取れないのだけど。ただ、途中、蔵がいきなり動揺した様子で「ちょお待ってや」と日本語でツッコミを入れていたのが気になった。一体何があったんだろう?
 その後ジャックは私にもわかるように、また日本語に切り替えて話しかけてくれる。

「明日は行くところ決まってますか?」
「ううん。結構今日たくさん回っちゃったしなぁ」
「それなら、ボクはStanleyがオススメ」
「すたんれー?」
「イエス。Stanleyは海がとてもキレイです。二人で行ってみて!」

 そう言うと、彼はそのまま「そろそろボクは仕事に戻ります」とバックヤードの方へ行ってしまったので、ロビーには私達二人が残された。とはいえ、他の利用客も、スウェットのようなくつろいだ格好で、別のテーブルで談笑していたりするのだけれど。

「そういえば、さっき、ジャックと何話してたの? 突然『ちょお待ってや』って日本語出てたけど」
「……あー。あれな。気にせんで」
「……そう?」

 蔵は少し目を泳がせている。きっと何かあるのだろうが、言いたくないことを無理に聞き出す必要もないので、そのままスルーした。

「それより。何か忘れていませんか?」
「ん? え? 何?」
「俺に、渡すもの、あったんちゃうの?」
「……あっ、そうだった! ありがとう、思い出させてくれて。エッグタルトだよね」

 手近なソファに二人で座り、私は背負っていた小ぶりのリュックを下ろした。チャックを開けると、エッグタルトの入った紙袋が入っている。やっぱり、袋にだいぶ油が浸みてきていた。随分と時間が経ってしまったけれど、美味しさは保たれているのだろうか。

「美味しくなくなってたら、ごめん」
「さあ、どうやろ。ほな、いただきます」

 渡した袋から一口分タルトを器用に取り出すと、蔵はそれを齧った。

「……普通にめっちゃ美味い」
「ほんと? 良かった!」
「ああ。おおきにな」
「お礼はアビーに言ってね。教えてくれたの、アビーだもん。有名店らしいよ」
「それもそうやけど。俺の分買うてくれたんはキミやろ? 素直に受け取りや」
「……うん、どういたしまして」
「はは。ようできました」

 そんな言われ方をしては、まるで先生と生徒みたいだ。彼と私はそう年は離れていないはずなのに。っていうか、冷静に考えて、私、蔵の本当の年齢を知らない。この前の話の流れ的に、手塚国光選手と同い年っぽいけど。そして私自身も蔵に、会社員ということ以外、何も明かしていなかった。ただ、そんな年齢や肩書は、重要なのだろうか、と疑義も出てくる。日本にいると「ご年齢は?」「ご職業は?」なんてよく聞かれるけれど、結局そういう肩書よりも、人としての本質のほうが大切なような気もして。

「蔵は、薬剤師さんなんだよね」
「まあ正確には薬剤師資格持った会社員やねんけど……急に改まってどないしたん?」
「いや、私、蔵に何の身も明かしていなかったなと思って」
「そういえばそうやな。さっきチラっと会社員言うてたけど」
「あ、うん。四年制の大学出て、社会人三年目」

 そう告げると、蔵は「ちゅーことは、社会人としてはキミのが先輩やねんな」と言う。

「俺は、六年制の大学出て社会人二年目やから、実年齢はキミより一個上ちゃうかな」
「そっか。じゃ学生としては先輩だけど社会人としては後輩で……なんかフクザツ」
「まあ、同世代やろ。ざっくり」
「ほんとにざっくりしてるね」
「誰かさんの大雑把なとこが、伝染ったみたいや」
「~~~!」

 誰かさん、って。絶対私のことのくせに! 仲良くなってくると、どうやら蔵は人をいじってくるタイプのようだ。ただ優しいだけのイケメンではなかったらしい。

「そういえば、スタンレー、ジャックのオススメらしいねんけど」
「うん」
「『二人で行ってみて!』言うてたな。どないする?」
「きっと海って言ってたし、明るいうちに行くとこだよね。私は明日の日中に行ってみたいなと思ってるけど……」

 その先の言葉がなかなか出ない。本当は蔵を誘いたいけれど、なんだかデートに誘うみたいで緊張してしまう。断られたらちょっと気まずいし。ただ、そんな不安は、次の蔵の言葉で杞憂となった。

「俺もせっかくやし行ってみたいなあ思ってん。一緒に行かへん?」
「行く!」
「ええ返事や。ほな、明日は昼はスタンレーで夜はビクトリア・ピークっちゅうことになるな。明日もめっちゃ歩きそうやし、筋肉痛残さんようにな」
「確かに……。さっき転びかけたときに変な筋肉使った感じもするし、ストレッチします……」
「ほな、明日は九時半にここ集合で。時間的に、そろそろ寝る準備したほうが良さそうや」

 掛時計が指す時間は、もう二十三時になりそうだ。

「ほんとだ、もうこんな時間。そろそろシャワー入って寝るね。おやすみなさい」

 慌てて立ち上がって、そう声をかけると、蔵は「おやすみ。また明日」と、ひらひらと手を振っていた。

 彼女が女性用のドミトリーへ去ったあと、俺も男性用ドミトリーへ向かう。それにしても、さっきのジャックとの会話は正直焦った。振り返ると、こんな内容だった。

「ところで。クラは恋しちゃったのかな、彼女に」
「!? 随分と唐突やな」
「昨日も俺たちと飲んだ後、彼女をデートに誘ってただろ? そして今晩もデートしてたようだし」
「……昨日の一部始終、見とったんや」
「ハハ。彼女可愛いもんな。俺もデートしたいくらいだけど、今回はクラの恋を応援するよ。明日も二人でデートしてきたらどう?」

 そうニコニコと捲し立てるジャックに思わず日本語で「ちょお待ってや」と突っ込んでしまった。彼女は全く英語ができないわけではないのだ、聞かれていたら気まずい。そっと横目で彼女を見ると、俺たちの会話は、空気を読んでなるべく聞かないように配慮しているようだった。こういうトコ、やっぱええ子やな。って何を早速惚れ直しとんねん、俺は。

 そんな会話の後、ジャックはスタンレーの話題を出し、「二人で行ってみて!」と言い残していったので、彼なりに俺たちをキューピッドしようとしてくれているのだと悟る。少し気恥ずかしい気もするが、地元・香港人の彼が勧める場所だ、きっとデートスポットとしては間違いないのだろうと思うと、ガイドブックすら持ってこなかった身としては助かる。
 ジャックが去った後、彼女に「『二人で行ってみて!』言うてたな。どないする?」と問うと、彼女は明日の日中に行ってみたい、と答えたので、そのまま約束をした。一方で、ドミトリーに戻ってきて思う。昨日出会ったばかりの彼女と過ごすのも、明日で最後。果たして、その先はあるんやろか。そもそも、あの子、失恋直後やねんで。今は、さすがに、タイミングちゃうやろ。
 ただ、彼女のおかげで、無感動な自分から卒業できているのは確かだし、何よりさっき彼女が泣いている姿を見て、彼女の元恋人の不誠実な態度に、無性に腹が立っている自分もいた。俺やったら、絶対泣かせへんのに——って何を彼氏面しとんねん。

「……ま、先のこと考えてもしゃーないわな」

 物事に対し、すぐに白黒はっきりつける必要がないことを、成長するにつれて学んだ。今はグレーを楽しむ時だ。人生楽しんだモン勝ちや。

 女性用ドミトリーへ戻って、シャワーなどを済ませて、私の唯一のパーソナルスペースである二段ベッドの下へ。狭いスペースでも行えるようなストレッチの動画を検索して、なるべく音を立てないように気をつけながらストレッチする。
 流れで、明日は一日中、彼と過ごすことになった。昨日偶然知り合った人と、まさかこんな展開になるとは予想もしていなかった。そして、まさか、こんな気持ちになるとも、予想していなかった。

 ——私、本気で、蔵のこと好きになっちゃったみたい。

 もう良い大人だというのに、一時の気の迷いなのだろうか。元彼に裏切られた悲しさを、彼で埋めようとしているだけではないだろうか。好きになってしまったところで、彼が私のことを好きになってくれる可能性なんてあるのだろうか。冷静なもう一人の自分がそう心の中で問いかけるけれど、彼はいつも優しくて、聡明で、器が大きくて——この二日間を通して、好きになるなという方が無理な話だ。
 明後日は朝から空港に移動して、昼の飛行機で帰国する。だから、明日は彼と過ごせる最後の日だ。どんな日になるだろう。例え彼と過ごすのがこれで最後だったとしても。この恋が、この三日間だけの良い思い出だったとしても。どうか、最高の時間になりますように。