「あれ、雨降ってたのかな……アスファルトが濡れてる」
SOHOのダイニングバーを出て、真っ先に気づいたことだった。お店に入る前は、アスファルトは乾燥していたのに。
「今日、天気予報は晴れやってんけどなあ」
「ね。でも、今は雨上がってるみたい。雨に降られなくてラッキーだったね」
「ああ。せやけど空見てみ。何や怪しい雲かかっとるわ。また降るかもしれへん」
「そっか……それなら、今日は外で観光するより、早めにゲストハウス帰ったほうがいいかなぁ」
「明日の天気予報、一旦見てみるわ。明日一日晴れやったら、早めに帰ってもええけど、もし明日も雨やったら、今日雨上がっとるうちに観光しといたほうが良いやろ? ビクトリア・ピーク、行きたがっとったやん」
蔵は、早速スマートな所作でスマホを操作している。このセリフ一つとっても、頭の回転が速く、気が利く人だ。昨日、私が何気なく言ったビクトリア・ピークのことも、彼は覚えているらしい。
「お。明日は一日中、晴天らしいで」
「そっか、よかった」
「ほな、今日は早めに帰ろか。早め言うても、もう八時半やし。俺ら、ここから九龍側まで帰らなあかんしな」
確かに蔵の言う通り、山の上のSOHOから、ふもとのMTR中環駅まで戻るには、二十分ほど。ゲストハウスに戻るには、さらにそこからバスに揺られて約三十分。バスの乗り換え時間も含めたら、小一時間はかかりそうだ。
「帰りは、行きと違てエスカレーターは乗れへんさかい、下り、足元気ぃつけや」
「うん」
行きはヒルサイド・エスカレーターのおかげでだいぶ楽をさせてもらったけれど、帰りは歩くしかない。スニーカーを履いてきて大正解だった。高いヒールでのこの坂道は、厳しい。
そのまま、先導してくれる蔵の一歩後ろをついていくような形で坂や階段を降りていく。きっと前を歩いてくれているのは、万一私が転んだりしたときのための、リスクヘッジだろう。彼が前にいれば、私が頭から転げ落ちることは防げる。
本当に優しいな、蔵は。改めて彼の背中を見つめながら思う。香港二日目の夜が終わろうとしている。本来だったら、夜は観光できないはずだったのに、昨夜に引き続き今夜もこんなに楽しい時間を過ごさせてもらっている。何かちゃんとお礼がしたいな。そう思った時、ふと思い出した。
「あっ!」
「わ! どないしたん」
「エッグタルト、忘れてた」
「エッグタルト?」
「うん。アビーに教えてもらった店で、朝、エッグタルト買ったんだけど、蔵の分も買ったの。でも渡すの忘れてた。朝買ったやつだし、もう美味しくないかもしれない……」
「俺の分買うてくれたんや。ありがとう」
「ううん、こんなに夜の観光付き合ってもらってるんだもん。こんなんじゃお礼として足りないよ」
「別に礼なんてええのに。せやけど、折角買うてくれたんやったら、ゲストハウス帰った後でもらおうかな」
少しこちらを振り返りながらそういう蔵は、なんだか嬉しそうで、そんな様子を見ていると、自分の中で引いていた線が崩れてしまいそうになる。
まだ会って二日目の人だ。それに、日本に帰ったらきっともう二度と会わない人だ。そう自分に言い聞かせる。でも、この二日で、私は彼の人となりがよく分かってしまった。優しくて、気遣いができて、いつも周りのことを考えていて、常に真摯に物事を捉えて、迷いながらも前に進もうとしていて。その容姿から、女性にモテないわけないとは思っていたけれど、中身もこれならもう無双なんじゃないか。
そんなことを考えながら歩いていたせいかもしれない、不意に右足が濡れた石段のせいでズルッと取られてしまった。
「ひゃ、」
思わず変な悲鳴が出る。転びそうになって反射的に目をぎゅっと瞑ったけれど、次に予測していた衝撃は来なかった。その代わり、私の腰あたりにグッと腕が回される。
「危っぶな……! 万一のために一歩前歩いとったけど、ほんまに転ぶとはなぁ」
「……ごめんなさい、ありがとう」
前から抱き止められたので、不可抗力とはいえ、蔵と正面からハグするような格好になってしまった。香港は基本的に暖かい国だ、お互いそんなに着込んでいるわけでもなく、服の布越しにダイレクトに蔵の体温や筋肉を感じて、心臓がぎゅっとなった。
「足、挫いてへん? 痛ない?」
蔵はそんな私の動揺には(たぶん)気づいておらず、そのまま素直に足の心配をしてくれている。
「ダイジョブデス」
「はは。何で片言やねん」
そのまま蔵は腕を緩めて、「俺の歩くペースもちょお速かったかもしれへん、堪忍な」なんて言う。いやいや、どこまで優しいの。胸のあたりが、きゅんとする。——って、ちょっと待って。きゅんとしちゃだめだって。理性はそうわかっているのに。でも、そうやって違う異性に動揺するくらいまでには、前の恋をちゃんと終わらせることもできているのかな。
*
MTR中環駅まで戻ってきて、バス停に向かう途中、香港トラムが私たちの横を抜けていった。香港トラムというのは、百年以上歴史のある、二階建ての路面電車だ。
「トラム、乗りたい?」
ふいに蔵が話しかけてくる。きっと私の視線の先を見てそう問いかけてきてくれたのだろう。
「乗ったら帰るの遅くなっちゃうかな? でも、乗ってみたいは乗ってみたい」
「まぁ、言うてまだ九時前やし。大丈夫やろ」
「……じゃ、つきあってもらってもいい?」
「ええよ。ほな銅鑼湾まで乗って、そこからバスで帰ろか」
*
トラムに乗り込んで、二階の二人がけ席に腰掛けた。地下鉄だと景色は楽しめないけれど、トラムだと街の景色がしっかり楽しめる。
「どうや? トラムは」
「なかなか趣があるね」
「何やその古文みたいな感想」
蔵は笑いながらそう言うけれど、本当に趣があるのだ。夏の夜風がトラムの中へ吹き込んできて気持ち良い。そして、車窓から見える夜の香港の風景が、また日本とは全然違っている。
さっきのアクシデントも相まって、蔵と隣の席でこうして座りながらトラムに乗っている時間がなんだかデートのようで内心動揺する。ちょっと触れ合っただけで意識するなんて、今どき、中学生でももうちょっと大人なんじゃないか。とはいえ悲しいかな、私自身は、元彼としか付き合ったことがなく、恋愛経験が圧倒的に少ないので仕方ない。
その時、不意にスマホが震える音がした。私のではなく、蔵のスマホだ。音が一回で止まらないから、どうやら電話らしい。
「電話みたいだけど、大丈夫?」
「ああ。どっちにしろ今トラムの中やし出られへんけど……誰やろ」
「確認した方がいいんじゃないかな」
「せやな。ちょお、ごめんな」
蔵はそのままスマホを出し、電話の主を確認すると、ケンヤか、と少し呆れたような、安心したようなため息をつく。そして、電話を切った。
「親友からやった。ちょお今出られへんってメッセージ打っとくわ」
「別に銅鑼湾で降りるまで、私に気にせずやりとりしてくれていいよ。車内で電話はマナー違反だけどメッセージ送るのは大丈夫でしょ? 私もスマホ見たり車窓見たりしてるし」
「……おおきに。ほな、お言葉に甘えて」
そのまま彼はスマホでやりとりをはじめたので、私も久しぶりにスマホを開いた。香港に来てから、ちょこちょこスマホで写真を撮っている。朝のエッグタルトでもストーリーに上げとこうかな〜なんてアプリを開いたその時だった、衝撃的な写真が飛び込んできたのは。
「……っ」
声を上げなかった自分を褒めたい。フィードの一番上に載っているのは、大学時代の後輩の女の子がアップした写真だ。記念日を祝うようなケーキを挟むように、男女が写真に写っている。もちろん、女の子の方は後輩だけれど、隣の男の人の方は。顔は隠されているものの、五年も付き合っていれば、服や身につけている腕時計やその首から下の出で立ちですぐにわかってしまう。これは、元彼だ。震える指でスクロールすると、キャプションが現れた。
『3ヶ月記念日♡』
本文はシンプルにそれだけで、あとはハッシュタグがいくつか付いているだけだったけれど、それだけで全てが見えてしまった。元彼と別れたのは二ヶ月弱前。今日は三ヶ月記念日。彼は、他に好きな人ができたと言っていたけど——その時は既にもう彼女と付き合っていたのだ。
各種SNS、すべて彼との繋がりは絶ったつもりだったけれど、共通の友人や知り合いも多い中、こういうことは起こりうる。大方吹っ切れたつもりでいたけれど、これはなかなかにボディブローが入った。
「……麻衣、どないした?」
不意に話しかけられて、我に返った。蔵は親友(たぶんケンヤさんという人なんだろう)とのやりとりを終えたのか、スマホをポケットにしまって、私の顔を覗き込む。
「……っあ、いや、何でもないよ」
「何でもないことないやろ」
いつも笑顔で穏やかな雰囲気の蔵が、珍しく真剣な声色と表情になる。
「……自分、今、めっちゃ泣きそうな顔してるで」
蔵のばか、そんなこと言われたら、本当に泣いちゃうから、やめてほしい。じわり、と瞳に涙が溜まっていく感覚、そしてそれを我慢しようとすると、胸の奥が支えて痛い。そんな私の様子を見た蔵は、何も言わずに、そっと私の背中をさすった。だから、ダメだって。優しくしないで。ついに耐えきれずに、膝の上に水滴が落ちた。ジーンズに染みができる。二ヶ月前は同じようにスカートに染みを作っていたな、と思い出す。そして、トラムは銅鑼湾を過ぎてしまった。降り損ねた。でも、蔵は何も言わずに泣いている私の背中を、トントンと子どもをあやすように叩いている。
だんだん落ち着いてきた私に、蔵は「一旦降りるで」と声をかけてくれて、降り立ったのは終着駅の北角(ノースポイント)だった。ビルとビルがせめぎあう間にトラムの線路があり、ビルの窓では、夜でも洗濯物が棚びいている。まるで映画の世界だ。
「……ごめんね、本当は銅鑼湾で降りるはずだったのに」
「ええよ。北角は初めて来てんけど、めっちゃローカルでええ感じやん」
「うん、香港島より、九龍みたいな雰囲気」
そう答えると、蔵は私の顔を見つめるなり、猫の頭を撫でるかのように私の後頭部を撫でて、ちょっとは落ち着いたみたいやな、と安心したように微笑んだ。蔵にとっては、ちょっと自分がスマホで親友と連絡を取っている間に、偶然知り合った同行者が隣で泣き始めて、全く謎の状況だというのに、一言も責めず、そして無理には何も問わずに、慰めてくれている。この人、人生何周目? 人間でき過ぎでは?
「北角、ちょお観光してくか? それか、早よ帰る?」
どちらにせよ、私のことを考えてくれている選択肢だとわかる。気分転換に観光していくのか、それとも早く帰って心を落ち着かせたいのか。赤の他人の私にすらここまで気遣ってくれるのだ、そりゃこれまでの人生、気遣い過ぎて自分を見失うこともあっただろうな、と、なぜかこのタイミングで腑に落ちた。
「……もう夜遅いし、バス乗って帰ろっか」
「わかった。せやけど、バスでええの?」
「え?」
「バスやったら、騒々しゅうて気持ち落ち着かんやろ。タクシーでもええよ」
確かに、バスは騒々しくなってしまう。今の気持ちとしては、タクシーに乗りたい。何と言っても、香港のタクシー、安いし。それに涙の理由を問わずにいてくれる蔵に、落ち着いた環境で説明をしておきたかった。きっと優しい彼は、心配している。決して大した理由ではないのだと、伝えなければ。
*
「……ごめんね。突然泣いちゃって。大したことじゃないの。SNSで、大学の後輩と元彼が付き合ってること知っちゃって。今日三ヶ月記念日だったみたいで」
タクシーの後部座席でそう告げる。
「ん? 三ヶ月?」
「うん、三ヶ月」
隣に座る蔵は「……そうなんや」とだけ呟いた。きっと蔵は頭が良い人だ。これだけで、何が起きたのかきっと理解したのだと思う。
「……っその、ごめんね、気を遣わせちゃったよね」
空気を変えようとなるべく明るい声色を作ったのに、蔵から返ってきた言葉は意外だった。
「——やっぱりな」
「え?」
「キミが泣いた理由もそうやし、キミの元彼がキミを突然振った理由もや。ほんまにただ単に他に好きな子できただけやったら、五年も付き合うた彼女と簡単に別れへんやろ」
「……そっか」
「あ、いや、スマン……キミを傷つけるつもりはなかってん」
「大丈夫! 最初はショックだったけど、でもほら、そのおかげで改めて人生見つめ直すきっかけにもなったし! 香港来れたし! ジャックにもアビーにも蔵にも出会えたし! ね!」
空元気で捻り出した言葉ではあったけれど、自分で自分の言葉に納得する。もう元彼とのことは過ぎたことだ。彼と別れなければ、今この瞬間は無かった。
「……キミ、かっこええな」
「全然かっこよくないよ……泣いちゃったもん」
「泣けることも強さやと俺は思う。ちゃんと現実を受け止めたからこそ、そうやって感情が出てくるんやろ。現実逃避してへん証拠や」
「……そうかな。ありがとう」
「俺も、キミに出会えて良かった。そう思ったら、キミの元彼と、ケンヤに感謝やな」
——出会えて良かった、なんて。
元彼のことは心から信じていたので正直ショックだったけれど、逆にこれで何の未練もなくなって良かったかもしれない。私も、蔵に出会えて良かった。
この瞬間、私は自分の感情に抗うのをやめた。出会ったばかりとか、これから先に望みがあるのかとか、そんなの関係ない。
ただ、この瞬間、彼に惹かれている。ただそれだけ。