目覚ましをかけずに起きた朝は久しぶりだ。一瞬、今自分がどこにいるのかもよくわからなくなったが、すぐに思い出した。そうだ、私は香港一人旅中で、今日は二日目、日曜の朝だ。スマホで時間を確認すると、午前八時すぎを指していた。昨晩は遅くまで蔵と湾仔でお酒を飲んでいたから、多少の寝坊は仕方ない。
帰りは二人でタクシーでゲストハウスまで帰ってきた。香港のタクシーは安い。とはいえ、蔵は「どうせ元々は一人で飲みにいくつもりやったし、一人でもタクシー使う予定やったから」と、ルーフトップバーでの飲食代とタクシー代を全部払ってくれてしまって。さすがに初対面だし、そこまでしてもらうのも申し訳なく思ったのだけれど、蔵は「初日くらいカッコつけさせてや」と冗談交じりに言うので、そのまま厚意を受け取ることにした。
軽くシャワーを浴び、身支度を整えた頃には、もう午前九時を過ぎていた。ゲストハウスのロビーに行くと、そこにはアビーがいた。
「Good morning.」
「Good morning, Abbie. You got up early.」
相変わらず中学英語だけれど、そう返すと、彼女は「私もここに泊まっていたのよ」なんて言う。そうだったんだ。ここのゲストハウスの勤務体系がよくわかっていないけれど。そのまま、私は片言ながらもなるべく英語を使ってアビーとの会話を試みた。アビーは「おなか空いたんじゃない? 朝ごはんは食べた?」と気遣ってくれた。ノー、と答えると、アビーは「なら、おすすめの朝ごはんがあるわよ」と、共有スペースのテーブルの上のメモパッドに、何やら地図を書き始めた。
「Egg tarts are one of the most famous things about Hong Kong. Why not visit a good egg tart shop nearby?(香港と言えばエッグタルト。エッグタルトといえばここのお店。近いから行ってみたら?)」
「Thank you!」
「You’re welcome. Have a nice day!」
エッグタルトのお店へ行くと、店員さんに広東語で声をかけられた。けれど、私は広東語がわからない。そんな私の様子を見て店員さんはすぐに私が観光客だと察して、英語に切り替えてくれた。
「One? Two?(一個? 二個?)」
有難いくらいに簡単な英語で助かる。さて、何個にしようかな。そう思った時に、ふと浮かんできたのは蔵の顔だった。ささやかだけど、昨日のお礼も兼ねて、蔵の分も買っておこうかな。
「Two.」
そう答えてお金を渡すと、エッグタルトが二つ入った紙袋が渡される。紙袋を抱え、ゲストハウスまでの道を戻りながら、ふと思う。昨夜知り合ったばかりの人の分のエッグタルトを買うなんて、なんだか不思議だ。彼とは、その厚意に甘えて、今夜と明日の夜も一緒に行動させてもらうことになっている。まさか異国で日本人と知り合うとも思わなかったし、その人と行動を共にすることになるとも全く想像していなかった。人生は何があるかわからない。
そういえば、今夜、具体的に何時にどこ集合というのは、決めていなかった。昼間、彼がどんな行動をしているかも知らない。あまり何も考えずに彼の分までエッグタルトを買ったけれど、これを渡すのは何時になるのだろう。早速紙袋からは油が少し染みてきている。うーん、時間によっては、美味しさ半減しちゃうかもなぁ。
無事ゲストハウスまで戻って、ロビーの共有スペースのソファに座りながら、買ってきたエッグタルトのうち、自分の分を囓る。アビーがおすすめするだけある、やさしい甘さが口の中に広がっていき、一気に幸せを感じた。美味しい。蔵にも、ちゃんとこの美味しさが伝えられればいいけど。
*
今日も天気に恵まれていたので、お昼は香港一の開運スポット・黄大仙(ウォンタイシン)へ行くことにした。一応、失恋したことがきっかけの旅行なのだ、次の良縁は願っておきたい。とはいえ、今すぐ誰かと恋愛することは、あまり想像できないけれど。
あの人生最悪の日から、二ヶ月ほど経った。最初の一週間は地獄だったけれど、時間薬という言葉がある通りで、段々と回復していく自分がいる。それでも、やっぱりまだ完全回復とはいかなくて、ふとした時に虚しさや悲しさが出てきてしまう。五年も付き合っていたのだ、仕方ないか。
MTR黄大仙駅に着き、階段を登った先に、黄大仙祠と呼ばれる、道教・仏教・儒教がミックスアップされたお寺がある。ガイドブックに書いてあるお作法の通りお参りをすると、不思議と心のもやが晴れていくような感覚があった。また気持ちが前向きになってきたら、次こそ良い恋愛ができますように。
その後は香港島側へ大移動して、銅鑼湾(コーズウェイベイ)のマッサージ店で、旅の疲れを癒した。マッサージ店のベテラン店員のおばさんは日本語が上手くて、日本語でコミュニケーションできることに感謝する。
「お姉さん、肩、ヤバイヨ。イタイ?」
「痛っ、痛いです、痛い痛い!」
「ハハハ」
ちょっと。ハハハじゃないよ。
そんな風に二日目の香港の昼を楽しみ、時刻は現地で十七時を過ぎた。銅鑼湾のそごう(なんと香港にはそごうがあるのだ!)でおみやげなどを見ながら、そろそろ蔵に連絡してみようかな。と思った時に、ちょうどメッセージアプリの通知が来た。
『今どこ?』
『銅鑼湾』
『俺は今、上環。中環集合でええか?』
『うん。MTR乗ってくね』
香港にいるのに、まるで「渋谷で待ち合わせね」くらいのテンションで、中環で待ち合わせをしていることが不思議だ。しかも、待ち合わせの相手はちょうど二十四時間前に知り合ったばかりの人物である。
銅鑼湾からMTRに乗って数駅で、中環に辿り着いた。日本でいう丸の内・銀座みたいなところだ。経済の中枢となる世界的な金融機関が集まっており、観光の中心地でもある。待ち合わせ場所へ辿り着くと、すでにそこには蔵がいた。改めて彼を見ると、随分と麗しい容姿だ。海外にもそれは通用するようで、現地の女の子たちが、彼をチラチラ見てはこっそり黄色い声を上げていた。私自身も、彼の容姿に全くときめかないことはないけれど、ある意味現実を見て、一線を引いていた。旅先で出会った人だ、きっとこの旅を終えたら赤の他人に戻るだろう。大阪から来たと言っていたし、日本に帰ったら、街中ですれ違うこともまず無い。こんなイケメンと人生で出会うこともそうそう無いだろうし、記念くらいに思っておこう。
「今日は一日何してたん?」
待ち合わせ場所で合流し、目的地に向かいながら歩いていると、ふと蔵に問われた。
「今日は、まず黄大仙行って、そのあと銅鑼湾でご飯食べて、マッサージして、そごうでおみやげ見てた」
「満喫しとんなあ」
「蔵は?」
「……俺は、本屋で本買って、そのあと適当に飯食って、あとはスタバで朝買った本読んで、みたいな感じやな」
「へー。って、それ、香港にいる意味ある!?」
「お、ナイスツッコミ」
「……蔵、何しに香港に来たの」
「……何しに来たんやろ。俺も、キミみたいにちょっとは観光したほうがええかもな」
少し困ったように彼は笑った。まさか、本当に特に目的もなく香港に来ているとは想像していなかった。ただ、思い返せば、昨日の夜も、蔵は元々ノープランだったし、ガイドブックも持っていなかったから、彼の発言はきっと真実だろう。
「せやから、今日はエスカレーター行きたいってリクエスト来て助かったわ」
「うん。世界一長いエスカレーターって聞いたら乗ってみたくて」
世界一長いエスカレーター、通称ヒルサイド・エスカレーターは、全長約八〇〇メートルのエスカレーターである。基本的には一方通行で、時間によって上りと下りが変わるそうだが、私達が訪れた時間は上りの時間だった。中環駅から歩くこと五分、エスカレーターのふもと(という表現が適切かわからないけれど)に辿り着く。上った先にはSOHOと呼ばれる地区があり、おしゃれなカフェやレストラン、ブティックなどが集まっていて、そのSOHOに行くことも楽しみだった。
そして、エスカレーターに乗り込んでみること三分。
「これ、ずっとエスカレーター繋がってるわけじゃなくて、途中途中でブツ切りになってるんだね」
「降りたいとこで降りれる方式やねんな」
「うん。そして、また、途中で降りたくなっちゃう街並みだよね、香港って。こういう細い路地とか、探検したくなっちゃう」
「気持ちはわからんでもないけど、夜は気ィつけや。ナイトライフも盛んな場所やし」
「……うん、本当にそうだね。蔵みたいに英語できるわけじゃないし、気をつける」
「とりあえず俺と行動しとるうちは大丈夫やと思うけど、女性一人での夜のSOHOは推奨できひん。はぐれんように頼むで」
蔵は優しい。まだ知り合ったばかりの人間にもこんな過保護なのだから、彼の恋人はどれだけ彼に優しくされているんだろう、と想像を巡らせる。ただ、おそらく彼には今恋人がいないだろうということも想像がついた。恋人がいたら、昨夜彼が吐露したような「感情が動かない」という類の悩みは起こりにくいだろうし、何より彼の性格上、恋人がいたとしたら、その恋人以外の異性と、こうして外出するようなタイプでもないだろう。
昨夜、私自身がなぜ香港に来たのかは、彼に伝えた。でも、私は彼がなぜ香港に来たのかを知らない。詮索することはしたくないし、きっと話したくなったら自分から話すだろうと思っているから、あえて質問はしないけれど、気になるは気になる。それ以前に、蔵って何者なんだろう。見たところ同世代だけど、英語は日常会話には全く差し支えないレベルで話せるようだし、昨日ちらっと、前回は『四回生から五回生になる春休み』に香港へ来たと言っていた。ということは、きっと六年制の学部に進学していたのだろう。今は、医療系の仕事をしているのかな。まあ、知ったところで、どうせこの旅が終わればもう会うこともないだろうし、何だって話だけど。
私たちはSOHOでウィンドウショッピングを楽しみ、そのまま近くの良い感じの店構えのダイニングバーへ入店した。まだ店はハッピーアワーの時間だったので、私達はそれぞれ一杯ずつお酒を注文した。
「蔵はSOHOは初めてなの?」
「全くの初めてちゃうけど、ここまでちゃんと巡ったんは初やな。前回はエスカレーターもこないしっかり乗らへんかった」
「エスカレーター楽しかったよね。ただ帰りはここを階段で下るのかと思うと……今からちょっと怖いかも。日頃の運動不足が……」
「はは。今晩ストレッチしといたほうがええんちゃう? 何もせんかったら、明日、絶対足痛なるで」
「蔵は余裕そうだね」
「まあ、普通の人よりは運動してるほうやと思うわ」
「へー。何かしてるの?」
「テニス。今はもう趣味程度やけど」
「逆に、昔は趣味程度じゃなかったんだ?」
そう問うと、フィッシュアンドチップスを摘まんでいた蔵は、一瞬言葉を詰まらせたけれど、その後、ポツリと呟いた。
「U-17世界大会っちゅーのがあって。それに、昔、出たことはある」
「世界大会!? え、それって日本代表ってこと?」
「そうや。あんまり人に言うてへんけど、キミやったらええかな思って話してしもた」
想像の斜め上を行っていた。世界大会って。もう、プロテニスプレイヤーになれるかもしれないレベルってことでは? 今、日本人のプロテニスプレイヤーで私達の同世代となると、手塚国光選手に越前リョーマ選手が浮かんでくる。え、待って、もしかして知り合い?
「……もしかして、手塚選手とか越前選手とか、知り合いだったりするの?」
「手塚クンも越前クンも、よう知ってるで。その流れやったら、遠山金太郎も知っとる?」
「あ、うん! 遠山選手も有名だよね」
「金ちゃんは、俺が中三で部長しとる時、テニス部入部してきたんや。中学の後輩」
待って待って待って。頭が追い付かない。本当に蔵って何者なの。だって、三人とも世界ランク○位、とか言われて、試合結果によっては、スポーツ紙の一面を飾るレベルの選手なのに。
「ちょっとびっくりしすぎて、脳が動いてない、ごめん」
「はは。三人とも、もう世界的に有名人やもんな」
一歩引いたようにそう言う蔵に、一つ、聞いてみたくなった。ただ、これを聞くのは、彼の心に土足で踏み込みすぎかもしれない。少し迷ったけれど、蔵が私の方を見て「何や言いたそうな顔しとるな」なんて言うから、意を決して私は質問をした。
*
「——蔵は、プロテニスプレイヤーにならなかったの?」
彼女とは短い付き合いだが、なかなか空気の読めるタイプだと思っている。だからこそ、彼女がその質問を俺に投げかけるのに一瞬躊躇したのもわかったし、それでも彼女が問うてきたことに意味があると思った。
「なろうと思わんかった。せやけど、なろうとしたところで、あの三人のごっつい才能見とると、あそこまではなれへんかったんちゃうかな」
「……そっか」
そのまま彼女は何も言わずに黙っていた。昨日も思ったが、あまり深く詮索してこない彼女には好感が持てた。きっと、内心は、気になることもあるのだろうが。
「俺、薬剤師やねん」
唐突にそう告げると、彼女は「そうなんだ」と合点がいったような表情をする。
「昨日、前に香港に来たのは四回生から五回生になる春休み、って言ってたから、大学生の時は六年制の学部だったのかなって思ってたんだけど、薬学部だったんだね」
「よう覚えとるな。言うとおりや」
「薬剤師さんになりたかったから、プロテニスプレイヤーにならなかったの?」
「なりたかったかって言われると微妙やな。どっちかっちゅーと『なるもんや』思っとった。オトンが薬剤師で、長男やさかい」
「……そうなんだ」
「昨日、キミから言われたこと、結構刺さったわ。こうやって振り返ってみると、俺、これまでの人生、周りのことばっか考えとった。自分のこと考えたことが全くないっちゅうこともあらへんけど、何やろ、結局周りを喜ばせることが自分の喜びみたいなとこもあって。結果、周りの期待に応える選択ばかり取ってきた。せやから、自分自身のことがようわからんくなってもうたんやろな」
なぜこんな話を、出会ったばかりの彼女にしているのか、自分でもわからない。嗜む程度の酒量で、酔っているわけでもないのに。ただ、逆に出会ったばかりの赤の他人だからこそ、こんな話ができるような気もした。あまりに近しい家族や親友、仲間は、期待に応えたい対象となる人物になってしまうからだ。
昨夜は、どちらかといえば、俺が彼女の話を聞いていた。けれど、今夜はどうやら、俺が彼女に自己開示をする番のようだ。彼女は、こんな出会ったばかりの赤の他人のどうでもいい話を、真剣に聞いている。そして、少しの間を置き、言う。
「昨日言った通り、蔵は優しいから、周りの期待に応えることを優先してきたと思うんだけど——一方で、意外とちゃんと自分で色んなこと選んでる気がするよ?」
「? どういう意味や」
「結局、蔵は、最終的には自分で選んでるはずだよ。プロテニスプレイヤーになれるかもしれないくらいの腕があったのに、テニスを選ばずに薬剤師になったのは何で? お父さんが薬剤師さんだから、だけじゃないと思うし、蔵が、薬剤師じゃなくて、テニスプレイヤーになることを望んでいた人もたくさんいると思う。例えば、小さい頃から薬に興味があったとか、薬じゃなくても、理系科目が好きだったり、医療で人を助けたいと思ったことがあったり……何かあるんじゃないかなあ。小さい頃、小学校時代、中学校時代、高校時代、好きだったものは?」
そう言われて、ふと子供の頃や、十代の頃の記憶がよみがえってきた。
毒や薬に興味があったこと。
カブトムシのカブリエルを心から愛し、可愛がっていたこと。
学校の勉強科目だと、化学が好きだったこと。
もちろんテニスには、これ以上ないほどの情熱をかけて取り組んでいたし、プロテニスプレイヤーになろうと思えばなれるタイミングはいくつかあった。それでも、俺がそれを選ばなかったのは。
「——なるほどな。キミの言う通りかもしれへん」
「?」
「テニスのことめちゃめちゃ好きやったけど、それと同じくらい、元々こういう薬学に関わる分野が好きやった。仕事になるとどうしても業務に追われて、忘れてもうてたわ」
「……そっか。誰かに言われたからとかじゃなく、蔵が自分で選んで好きなことを仕事にできてるなら良かった」
「せやな。何やかんや俺、最終的に自分で選択してたんやな」
これまでの人生、既に敷かれたレールの上を、そのまま走ってきたように感じていた。それゆえ、どこか無感動の毎日を過ごしていたように思う。ただ、それは大きな勘違いだったのかもしれない。自分の人生の主導権が自分に戻ってきた途端に、ついさっきまで自分の好きなもの、嫌いなものがいまいち何だかわからなかったはずなのに——一気に中学、高校の頃感じていた瑞々しい感情が戻ってくる。
今の現実は、全部俺自身で選んだ結果や。
それこそ、今日、香港にいることも、今、彼女と過ごしていることも。
「……キミ、何者なん? 昨日に引き続き、俺の悩み、一瞬で解決してもうた」
「いやいや、普通の会社員だよ。でも、蔵の役にちょっとでも立てたなら、すごく嬉しいな」
彼女はそう言って、裏表のないはにかむような笑顔を浮かべる。そんな彼女の顔を見て、不意に心臓がとくん、と音を立てた。——って、いやいや、とくん、て何やねん。自分で自分にツッコんでみたものの、身体の反応は正直で、みるみる体温が上がっていくのを感じる。嘘やろ、俺、単純すぎひん?
「……蔵、どうしたの?」
「いや、何もあらへん」
「そう?」
思わず顔を背けた俺に対し、相変わらずあまり詮索してこない彼女に、感謝した。今だけは、深く問わないで欲しかった。
旅先で偶然出会った女性で、バックグラウンドも何も知らんし、このまま日本に帰ったら、きっと赤の他人に戻る子やで。そもそも、彼女は失恋直後やし、そういう気分にもならんやろ。と、理性ではわかっているのだが、この感覚の正体を知らないほど、子供でもなかった。俺はきっと今この瞬間から、彼女に惹かれはじめているのだ。