日付が変わる直前にゲストハウスに戻ってきた。つい一、二時間前に恋人同士になったばかりの私たちは、気恥ずかしさを残したまま、誰もいない共有スペースのソファに座る。
「日本に帰ったら『やっぱり冷めた』とかないよね……?」
「どんだけマイナス思考やねん。そのままそのセリフ返すで」
「もう、まさか、冷めないよ。でも夢みたい……」
まさか、このゲストハウスで偶然出会った日本人と恋に落ちるなんて思わなかった。きっとそれはお互い様だ。
「蔵は明日早いんだよね。もう寝る?」
「寝てもうたら、俺らしばらく会われへんやん」
「……確かに。会えるとしたら、最短で次の土曜日かなぁ。ねえ、蔵、良かったら、私が大阪行きたい」
「お、来てくれるん? 案内するで」
「わーい、楽しみ!」
「しーっ。一応消灯時間過ぎてんねんで」
「ごめんなさい……」
フロントが開いているのは二十三時までなので、共有スペースの照明も、間接照明だけに抑えられている。窓からは、香港の夜の街並みが見える。ゲストハウスの前のバス通りは、まだまだたくさんの車が行き交っている。でも、香港の夜はこれで最後だ。
「新幹線、時間決まったら教えてな。新大阪まで迎えに行くわ」
「えっ、来てくれるの?」
「当たり前やろ。彼女がわざわざ東京から来てくれんねんで」
彼女……! そんな響きに感動する。私たち、本当に、恋人同士になったんだ。
「大阪やったら、ガイドブックなしでも案内できそうやわ」
「ふふ。そうだね、楽しみにしてる」
そういえばこのソファは、蔵に出会ったあの日、一人でおにぎりを齧っていた時に座っていたソファだ。あの時も隣にこうして蔵が座ってくれたんだっけ。そう思い返すと、この三日間がいかに濃い時間だったか。ふと視線を感じて顔を上げると、蔵がこちらをずっと見ていたようで、目が合った。
そのまま、無言で見つめ合う。心臓がとくん、とくんと、音を立てる。もうお互い大人だ、この雰囲気で次に起こることは予想できる。
そのまま、蔵の右手が私の左頬に伸びてきて、彼の整った顔がゆっくりとこちらに近づいてきたので、私はそっと瞳を閉じた。最初は触れるだけだったキスも、お互いに離れるのが名残惜しい気持ちを交換するように、どんどん深いものへ変わっていく。どんな言葉を交わすよりも、口づけ一つで伝わる気持ちがあるのだと、このとき学んだ。
*
「ちょ、お前、どういうことやねん!?」
『せやから。香港で彼女できてん』
「待て待て。大事なところ端折りすぎや。何でどうしてそうなった?」
中学からの親友・白石が、有休を使って香港へ旅をしていた。旅行中も連絡は取ったが、その時はトラム乗車中とのことだったので、帰ってきた頃合いを見て再度連絡を取ったところ、まさかの発言に俺は驚いた。白石に彼女!? 何年振りや!? もはや独身貴族極めたるくらいの勢いやったのに。
「白石、ついにお前、イマジナリーフレンドでも見えるようになったんちゃうか……」
『失礼やな。でもまあ、しゃーないか。香港行く前の俺やったら、見えかねんわ』
「香港で心境の変化でもあったん?」
そう尋ねると、白石は香港での出来事の一部始終を、簡単に要約して俺に話した。なるほど、最近の白石の無気力さは、親友の俺から見ても少々心配になるくらいだったが、彼女との出会いが白石を変えたらしい。とはいえ、や。
「彼女の写真無いん?」
『……あー。言われてみたら、撮ってへんわ』
「なあ、ホンマに実在するん? やっぱりイマジナリーフレンド、いや、イマジナリーガールフレンドちゃうんか」
『上手いこと言ったみたいな感じ出すのやめや、ケンヤ。何も上手ないで』
「彼女、大阪来ること無いん? 会うてみたいねんけど」
『今週末、来るっちゃ来るけどな』
「ほな、土曜、俺にも紹介してや」
そんな流れで、土曜日。白石の彼女と白石と俺は、天王寺で会うこととなった。未だにイマジナリーなんちゃうか、という疑念は晴れない。待ち合わせ場所のスタバに先に着いた俺は、白石と彼女を待っていた。すると、だ。
「ケンヤ。待たせたな」
そんな声がして顔を上げると、白石と、その隣には、ちゃんと女性が実在していた。うわ、ホンマに彼女できとるやん!? また、何や雰囲気も、白石の好きそうな感じの子やな。そんな彼女は俺に対して頭を下げる。
「お待たせしちゃってすみません。あと、これ良かったら、東京のお土産です」
そう手渡された、東京ばな奈。礼儀正しくて、手土産の気遣いがあって。何やめっちゃええ子やないか、白石。お前、ようやったな。おめでとう。急に祝福の気持ちがわいてくる。
「改めて、コイツが、忍足謙也や」
白石は彼女に俺を紹介する。そして俺にも彼女のフルネームを伝える。支倉麻衣ちゃん言うんや。
「ケンヤさん。お名前だけずっと伺っていたので、お会いできて嬉しいです」
「麻衣ちゃん、俺も会えて嬉しいわ。ええ子見つけたなあ、白石」
「せやろ。もうイマジナリーフレンドとか言うたらしばくで」
「スマン。もう言わへんから」
その後しばらく三人で会話を楽しんだが、白石と彼女にとっては、付き合ってから初めての週末デートという貴重な時間だ。俺はさっさとお暇したほうが良いだろう。
「ほな、俺、この後仕事やから。またな」
「もしかして、夜勤?」
「せや。研修医ケンヤさんは大忙しやで」
そう告げて、スタバを去る。ホンマはもう少し時間の余裕はあんねんけど。
*
「お腹いっぱい! やっぱり大阪と言えば粉もんだよね」
「せやな。満足したんやったら良かったわ」
たこ焼きとお好み焼きをたらふく食べた後、向かう先は、俺の家だ。付き合ってまだ一週間も経っていないのに泊まりもどうかとは思ったが、彼女は、東京から高い新幹線代をかけて大阪へ来ている。それを思うと、日帰りも勿体無いし、かといってホテルを取ると宿代も勿体無い。そんなわけで、最初は百パーセント善意で申し出たのだ。俺んちに泊まっていったらどうや、と。ただ、その時の電話口の彼女の反応で、しまった、と思った。きっと変な意味で取られてもうた。ただ、彼女としても特に断る理由がなかったのか、数秒の沈黙ののち、『うん、じゃあ、お言葉に甘えて』と言ったので、今この状況が実現している。
彼女には、リビングのソファに座ってもらった。二人とも粉もんとともに少しお酒を嗜んだので、部屋ではノンアルコールだ。テーブルの上に、彼女の分と俺の分、それぞれお茶の入ったマグカップを置き、俺自身も彼女の隣に腰を下ろす。いつもの部屋に、彼女がいる。それだけで、何だかこの部屋が特別な空間に生まれ変わったような感覚だ。
「ここが、蔵のお部屋なんだね」
「せやで」
「……何か不思議。一週間前は、香港のゲストハウスのソファで座ってたんだよね」
「せやんな」
「で、この写真を蔵にもらった」
彼女はスマホのロック画面を見つめる。俺が撮った、スターフェリーからの夜景だ。
「なんかまだ夢みたい」
「ケンヤにも会うたのに? 俺はそろそろちゃんと実感してきてんけどなあ」
「蔵は現実適応能力が高いんだよ」
「はは。せやけど、いつまでも夢にされたら困んねんけど。早よ実感してや、俺の彼女やって」
今日のデートで行った場所は、新世界に、道頓堀と、そんなにロマンチックな場所ではないので、なかなかこういう雰囲気にはならなかったが、今がチャンスや。ソファで隣に座る彼女。前から回り込むような形で、触れるだけのキスをする。それだけで、びっくりしたような表情で真っ赤になる彼女が可愛い。
「——どや? 実感できた?」
「……まだ夢みたい」
「それは足りひん、っちゅうこと?」
「えっ、そんなこと言ってな、」
反論する彼女の口を、また自分の唇で塞いだ。今度は触れるだけではなく、大人のキスを。彼女とのキスは、甘くて、溶けそうだ。過去も未来も考えられず、ただ今この瞬間だけを味わう、この行為が俺はとても好きだ。ただし、彼女はどうだろう。胸のあたりをトントンと叩かれ、そろそろ彼女の限界を悟る。
「……蔵、も、無理」
「はは、すまん、つい」
つい。彼女の存在が愛おしくて、どこまでも欲しくなってしまいたくなる。さすがに今日は、これ以上求めたりはしないが、その代わり、彼女の頭を撫でて、そのまま手を繋いだ。
今ここに俺がいて、彼女がいて、想いが通じ合っていること。俺の左手に、彼女の右手の温もりが感じられること。今この一瞬一瞬の幸せを、かけがえのないものとして受け取れていること。ある人から見れば、なんてことないことなのかもしれない。けれど、今の俺にとっては、何て素晴らしい世界だ。
Fin.
2023.2.18