その日は、浮かれていた。学生時代から付き合っている恋人から「折り入って話がある」なんて呼び出されて、そろそろかな、なんて。最近お互い仕事が忙しくてなかなか会えていなかったから、久しぶりに会えるのも楽しみで。どんなプロポーズなんだろう、フラッシュモブだったらどんな反応しようかな。そんな妄想を繰り広げていたのに、だ。
「他に好きな人ができた。別れてほしい」
——目の前が真っ暗になるってこういうことを言うのか。もちろん目は開いているし、いきなり昼が夜になるなんてこともない。けれど、私の視界のピントはどこにも合わなくなってしまった。嘘だ。もしくは、夢だ。そう思いたいのに、彼は申し訳なさそうな表情で、私をまっすぐ見つめていて。彼と過ごした時間は長い。彼の気持ちがもう動かないこと、そして、彼の気持ちはとうに私からは離れていることを、その表情で瞬時に読み取ってしまった。ここで「別れないで」なんて縋ることは、私の中のなけなしのプライドが許さない。
「……そっか。それなら仕方ないね。今までありがとう」
「……俺、本当に勝手なこと言ってるよな。ごめんな」
「ううん。正直に言ってくれてありがとう。気持ちがなくなっているのに、だらだら付き合われるよりよっぽど良かったよ。今までありがとう。さよなら」
そんなセリフとともにカフェの席を立ち、颯爽と店の外へ出て、今までの人生でこんなに早く歩いたことあったっけ、というくらいの早歩きで街中を歩く。そして、ビルとビルの間の、人気の少ない休憩スペースにあるベンチに座りこむ。その瞬間、膝の上に水滴が落ちて、お気に入りのスカートに染みができた。一度落ちてきた水滴は、ぽたりぽたりと止まらない。まるで涙腺が壊れてしまったのではなかろうか。自分で自分が心配になるくらいに、水道の蛇口が壊れてしまったがごとく、涙はぽたりぽたりと重力に任せて落ちていく。
社会人三年目。二十代も折り返し地点、もう結婚して子供がいてもおかしくない年齢だ。そんな中、一生涯を共に過ごすと信じてやまなかった彼と別れ、独りぼっち。
大好きだったのにな。
彼と結婚すると思っていたのにな。
彼の子供を産みたかったな。
ぼんやりと描いていた人生設計が全て崩れて無へと還る。——今日は人生で最悪の日だ。
*
「ねえ、今日、一緒にランチ行かない?」
「はい! ぜひ! お誘いありがとうございます」
「ふふ。何食べたい? 特になければ私の行きたい店だけど」
「先輩の行きたいお店で大丈夫です」
「じゃ、いつものイタリアンね」
会社の同じチームにいる社員の中で、私以外の唯一の女性。彼女が、私にとって一番仲良しの先輩だ。一回り年上の彼女は、もう結婚してお子さんもいるけれど、仕事もできて、後輩の私のこともよく気にかけてくれて、おまけに美人で、私にとって憧れの女性。そんな彼女が、イタリアンで注文を終えると、おもむろに言う。
「ねえ、昨日泣いたでしょう」
「えっ」
「目、腫れてるわよ。それで隠してるつもり? うちのチーム、他は男性しかいないから、みんなこういうことに無頓着かもしれないけど。……何かあった? 私に話せることなら、何でも言って」
——やっぱり先輩には隠し事できないな。観念して、事実を話す。
「彼氏に『折り入って話がある』って言われて昨日会ってたんです。そろそろ結婚の話かな、なんて思ってたら、逆で。『他に好きな人ができた。別れてほしい』って……」
「……」
「それで、昨日別れたんですけど……あんまり気持ちの整理もついていなくて。すみません、こんな顔しているばかりに、心配かけちゃって……」
先輩はそのセリフを聞くやいなや、先輩の方が泣きそうな顔をした。
「そっか。私、彼の話、結構聞かせてもらっていたじゃない? 支倉さんが、彼のことすごく好きなんだなって思ってたから……それは辛かったね。今日、よくちゃんと会社来たね。偉いよ」
「……そんなこと優しいこと言わないでください、また涙腺おかしくなっちゃいます」
「ごめんね。ポケットティッシュ、私の分もあげるから」
先輩は眉を下げて、そのまま向かいに座る私の頭の上に軽く手をのせて、ポンポンと叩く。
「大丈夫。今は辛いと思うけど、絶対良いことあるから」
「……ありますかね」
「あるわよ。私も大失恋したことあるもん。そのあとに出会ったのが今の夫」
「えっ。そうなんですか!?」
「そうよ。大失恋したときはこの世の終わりかと思ったけど、今となってはそのおかげで夫に出会えたし、夫に出会えたおかげで娘にも出会えたから、あの時失恋してよかったって思ってる」
「……私もそう言えるようになりたいです」
「支倉さんなら大丈夫よ。良い子だもん。でも、そんなに気持ちが早く切り替えられないっていうのもわかる。次の恋愛を探す前に、まずは自分自身を充たしてあげるのが先かな」
「自分自身を充たす……?」
「そう。例えば、おいしいもの食べたり、行きたいと思っていたところに行ったり……一人旅なんかも良いかもね」
「一人旅か~。確かに面白そう」
「あなたの働き具合見る限り、絶対有休たくさん余ってるでしょ? これを機に何日か消化して普段行けないところ行ってみるのはどう?」
そんな先輩の提案に、ずっと沈んでいた心が少しだけ浮かぶ。有休をとって一人旅か。大学時代は時間がたくさんあったから、それこそ彼と色々なところへ旅行したけれど、社会人になってからはなかなか旅行にも行けず、行ったとしても彼や友達と一緒だった。一人旅という響きが、私を魅了する。
「……一人旅、行ってみようかな」
「うん。良いと思う。ほら、ちょうど来月三連休があるじゃない。そこに有休くっつけてちょっと長めに休んだら? あなたが休んでる間の仕事は私に任せて」
「先輩、何でそんなに優しいんですか……」
「ふふ。私だって、娘が熱出したりしたら保育園まで迎えに行かなきゃいけなかったりして、結局いつもあなたに頼ってるじゃない。お互い様よ」
そう微笑む先輩は、まるで女神様のように見えた。もともと憧れの女性ではあったけれど、さらに彼女への憧れの気持ちが強くなる。私も将来はこういう女性でありたい。
さて、一人旅か。どこへ行こうかな。会社帰りに、本屋さんに寄って、旅行雑誌でもパラパラ眺めてみよう。