こうやって僕はきっと溺れてゆく

 麻衣先輩とは図書委員が一緒で、よく昼休みの図書当番が被った。彼女は誰とでも仲良くしたい性格なのか、図書室という本来であれば静寂を保たねばならぬ場所でも、小声でよく俺に話しかけてきた。最初は答えるのも面倒だったが――段々と彼女と会話するのが楽しいと思ってきている自分に気づき、気づけば、俺にとって彼女の存在が特別になっていた。ただ、おそらく彼女には他に好きな人がいる。しかもその人は、俺のよく知る人間だ。

「財前くん、お疲れさま」
「麻衣先輩。今日は当番ちゃうのに図書室ですか」
「そうなの。社会で班ごとにまとめなきゃいけない課題が出ちゃって」

 今日も図書当番でカウンターに座っていると、今日は当番ではないはずなのに先輩がカウンターにやってきた。そして、その後ろから現れたのは。

「お、財前。何や久しぶりやな」
「部長――やなかった、白石さんもおったんすね」
「はは。今の部長は自分やろ? 財前」

 3年生の先輩方が部活を引退して以来、白石さんと顔を合わせる機会は減ったが、久しぶりに顔を合わせた白石さんは、相変わらず爽やかに笑っている。

「そしたら白石くん、まずは文献探そっか」
「せやな。支倉さん図書委員やし、どこに何があるか探すん早そうや」

 麻衣先輩と会話する中でよく登場する人が白石さんと謙也さんだった。俺にとっては部活の先輩であり、彼女にとってはクラスメイト。数少ない共通の知人だ。中でも白石さんの登場回数が多かった。
 あまりに白石さんの話が多いので、以前「麻衣先輩、部長の話ばっかっすね」なんて言ってみたら、その時の彼女は「えっ、そうかな?!」なんて顔を赤くしていた。――その反応、絶対部長のこと好きやろ。
 他に好きな人がいる人間をわざわざ好きになる必要もない。麻衣先輩に惹かれる気持ちもさっさとなくなればいい。そう思っているのに、彼女と図書当番の機会が重なるたび逆に想いが強くなるから、そんな自分に半ば呆れていた。

「支倉さん、海外の政治に関する本ってどの棚?」
「あ、それならもっと奥の方。日本の政治に関する本なら手前の棚にあるよ」
「そうなんや。先生、日本と海外の比較せぇ言うてたし、どっちも必要そうやな」

 小声ではあるが、白石さんと麻衣先輩のそんな会話が聞こえてくる。そして奥の棚の方へ進んでいった彼らの会話の内容はどんどん聞き取れなくなるが、たまに控えめに笑っている声が漏れてきて、彼らの会話が弾んでいることを予測した。
 彼女から白石さんの話を聞くことは多かったが、実際こうして並んでいる姿を見るのは初めてだ。白石さんと麻衣先輩は本当に仲が良さそうだった。積極的な女子は苦手な白石さんも、そういうタイプではない彼女には心を許しているようで、リラックスしている。そんな二人が並んでいる後ろ姿を眺めながら思う。へえ、お似合いやん、と。
 頭ではそう冷静に思っているのに、体のほうは、胃の奥の方に少し不快感が走る。二人の並ぶ姿をこれ以上見ていると不快感が増す気がして、視線を逸らした。

「財前くんとの当番、なんか久しぶりだね」
「そうっすね」
「でも今日は図書室ガラガラだね……みんな昼休みは謙也くんの放送聞きたいんだろうな〜」

 隣で先輩は呑気にそう呟く。今日は久しぶりに先輩と二人での図書当番だった。ただ、今日の校内放送のパーソナリティは謙也さんだ。謙也さんの校内放送は人気があるが、静寂を保つべき図書室には放送が入らない。そのためか、図書室へ来る生徒は誰もいなかった。

「そういえばこの前の課題、まとまりました?」
「え?」
「白石さんと、本探しに来てはりましたやん」
「ああ!うん。無事終わったよ〜。他の班員はみんな協力的じゃなくてどうしようかと思ったけど、白石くんがキレイにまとめてくれて本当に助かった」
「……ふーん」
「ほんとに白石くんすごいよね。かっこいいし、頭もいいし、もちろんテニスもすごいし、性格も良いし。前世でどれだけ徳積んだのかな〜」

 先輩が、聞いてもいないのに白石さんの話をし続けるせいだ、忘れてかけていた胃の不快感が現れたのは。モヤモヤとするこの感情を消し去りたいのに、消えろと思うほどに刻み込まれていく。

「……麻衣先輩」
「ん、なあに?」
「白石さんのこと、好きやろ」
「えっ?!突然どうしたの?」
「前にも言いましたやん。先輩、白石さんの話ばっか」
「それは――」

 何かを言いたげな顔をするものの、彼女は何か言葉を飲み込んだようだった。
 先輩方が引退して部長を務めるようになってから、前部長の白石さんの偉大さが身に沁みた。遠過ぎて追いつけないその背中を、追うしかない。圧倒的な差と、焦燥感。そんな白石さんに彼女は惹かれていて。
 嫉妬なんて烏滸がましい。ただ、何の勝ち目もない自分自身に腹が立つ。二人きりの図書室、思わず隣に座る彼女の制服のタイを左手で掴み、引き寄せた。

「――これ以上アンタの口からあの人の名前、聞きたないんすわ」
「えっ、ざ、」

 財前くん、と彼女は言いたかったのだろうが、その続きを紡ごうとする唇を、俺自身のそれで塞いで、言わせなかった。本当なら突き飛ばされても良いことをしているはずなのに、なぜか彼女は抵抗せずに、それをそのまま受け入れる。初めて触れた彼女の唇は柔らかく、そのままずっと貪りたくなる衝動に駆られるが、残る理性で制した。一方で、何で抵抗せえへんねん、と彼女にとっては理不尽であろう怒りも湧く。
 ――アンタ、部長のことが好きなんとちゃいますか。誰でも良いとか、そんな軽い女やと思いたないねんけど。

「……何で抵抗せえへんのですか」

 どれくらいの時間、唇を重ねていただろうか。そう問いながら唇を離し彼女を見る。明らかに混乱、困惑している様子の彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「……財前くんこそ、何でキスしたの?」

 潤んだ瞳で問われる。この流れで、理由なんて一つしか考えられへんやろ、とは思うが――変な誤解は招きたくないので、素直に伝える。

「そんなん、決まってるやろ。麻衣先輩のことが好きやからっすわ」
「……えっ、そっち?!」
「そっち、て。そっちもこっちもあれへん」
「てっきり、私が白石くんの話ばっかりするから、イライラした腹いせかと……」
「……基本的に他人と馴れ合うの面倒や思ってる俺が、好きでもない相手にキスする思います?」

 そう問うと、先輩は「思いません」と小声で呟き、一気に顔を赤くする。え、もしかしてさっきまでほんまにただの腹いせでキスされた思っとったんか、この人。俺、そこまで最低な人間ちゃうねんけど。そして、耳まで赤く染めた先輩は、俺にとって全く予想外の発言をした。

「あのね財前くん。私も財前くんが好きだよ」
「……は?」
「白石くんには、私が部活での財前くんってどんな感じなの?とかいろいろ聞いちゃったから、財前くんを好きなことバレちゃって……だから相談に乗ってもらったりもしてて。そもそも財前くんと共通の知人って白石くんと謙也くんだけだし、中でも白石くんと話す回数が多かったから、白石くんの話題が多くなっちゃっただけ」
「……」
「抵抗しなかったのは、好きな人とのキスだったから、だよ」

 段々恥ずかしくなってきたのか、消え入りそうな声で彼女はそう言った。恥ずかしくなってきたのは俺も同じだ。勝手に勘違いして嫉妬して。それと同時に、先輩の想いを知れた嬉しさで顔がにやけそうになる。ヤバイ。思わず口元を押さえた。

「……俺、勝手に勘違いしてましたけど、結果オーライっすね」
「……白石くんへの感情は、ヤキモチって捉えていいの?」
「認めるん恥ずかしいですけど、そーいうことっすわ」

 そう伝えると、隣で彼女は、ふふ、と嬉しそうに微笑む。

「財前くん、可愛いとこあるね。でもヤキモチ妬いたからっていきなり付き合ってもいないのに、キスはダメだよ……」
「先輩の言う通りっすわ。せやから、順番逆になってもうたけど、ちゃんと言わせてください」

 まさかこの想いが実るなんて予想もしていなかったので、気の利いた台詞も何も思いつかへんけど。目の前の彼女は、期待と緊張の表情で口を真一文字に結び、俺の言葉を待っている。

「ずっと好きでした。俺の彼女になってくれませんか」

 すると彼女は、先輩のはずなのになぜか敬語で「はい、よろしくお願いします」と頭を下げ、再び顔を上げた。その彼女のはにかんだ顔に、愛おしさが溢れる。――アカン、こんなん、またキスしたなるやん。

 至近距離で彼女と目が合う。彼女の頬にそのまま手を伸ばすと、彼女は少し瞳を揺らした後、覚悟を決めたようにゆっくり瞳を閉じる。

 相変わらず二人きりの図書室。
 予鈴が鳴るまでまで、あと数分。

 右手で触れた彼女の頬は熱い。左手は彼女の髪を撫でながら後頭部へ。そのまま顔を傾け、再び彼女の唇に、自分のそれを近づけた。

Fin.
2022.9.1
title by tiptoe