第7話 冬空に溶ける

 木下藤吉郎祭から数週間経ち、もう季節はすっかり冬だ。
 ――日ぃ落ちるんも早なったなあ。
 生徒玄関で、すっかり暗くなった空を見上げながら、麻衣はマフラーを巻き直した。今日は全体の部活が終わった後、顧問の先生に頼んで少しだけ練習を見てもらっていたために、帰りが遅くなってしまったのだ。今から駅まで歩いて、地下鉄に乗って、最寄り駅のスーパーで買い物をして、夕ごはんを作って――急がないと母が帰ってきてしまう。仕事を頑張っている母が家に帰るまでには、温かい夕ごはんを用意しておきたい。何人もの部下を抱え、男性と肩を並べて大企業の管理職を勤め上げる母が、麻衣にとっては自慢なのだ。

 学校から駅まで、大通りを歩くと信号も多いし人も多い。1本外れた道は、距離的には大通りを通るよりは遠くなるが、信号も人通りも少なく、結果早く駅に着くことを麻衣は知っていた。その為、今日は1本外れた道を選んで駅までの歩を進めていると、後ろからチリンチリン、と自転車のベルの音がする。反射的に振り向くと、そこには、白石の姿があった。

「麻衣ちゃん。こんな遅い時間まで学校おったん?」
「白石先輩。先輩こそ遅いですね」
「まあな」

 自転車を降りた白石は、手で自転車を押し、そうすることがあたかも自然なことのように麻衣の隣を歩く。麻衣は思わず周囲を見渡してしまった。誰かに見られてはいないだろうか。白石と並んで歩いているところを見られては、翌日学校の噂になってしまうことは予測できた。幸い、白石と麻衣以外の人影はなく、麻衣は胸を撫でおろす。
 学校祭のあの日から、麻衣は白石のことが気になってしまっていた。自分よりはるかに美人な女装をした白石に、「麻衣ちゃんには『可愛い』より『かっこいい』言われたいな思て」と言われた。白石に他意はなかったのかもしれないが、麻衣にとってはその発言の意味を考えて1週間ほど頭がぐるぐるするほどにはインパクトのある出来事だった。白石との接点はそこまで多くはなかったが、駅まで送ってもらったときのこと、わからない問題を教えてもらったときのこと、一つ一つが印象的で、反芻すればするほど、白石のことを異性として意識するには十分だった。
 ただ、親友の友香里には、この感情を相談することはできない。なぜならば、白石は彼女の兄だからだ。

「何や急いでそうやったけど」
「夕ごはん、お母さん帰ってくるまでに間に合わへんかもって思って……」
「せや、麻衣ちゃんが作ってるんやったな」

 白石はそう言うと、少し逡巡し、困ったように笑う。

「ほんまは、駅まで、後ろ乗ってくか?って言いたいねんけど、2ケツ禁止やしな」
「ふふ。その気持ちが嬉しいですよ」
「お母さんもきっと一緒やと思うで」
「?」
「たとえ夕ごはん間に合わへんくても、麻衣ちゃんが一生懸命作ってくれようとしとるだけで嬉しいんちゃうかな」

 自転車を押しながら、白石は麻衣を見る。そんな言葉に、麻衣は焦っていた気持ちが和らぐのを感じた。

「ま、だからといって早歩きを止めることにもならへんと思うけど」
「いえ、あんまり焦ったところで地下鉄の時間はそう変わらへんし」
「御堂筋線、本数多いしな」

 そのまま、夜道を二人で並んで歩く。街灯により生成される白石の影と自分の影が重なって伸びていることに、麻衣は緊張した。

「……白石先輩も、部活で遅なったんですか?」

 沈黙に耐えきれずそう尋ねると、白石は「せやな」と答える。

「まぁ、いつも帰りの時間はこれくらいやから、特別遅なったわけでもないんやけど」
「え、いつも?」

 以前友香里のお見舞いに尋ねた時、白石が帰ってきたのは午後6時前だったか。その時に白石の母は「いつもより早いやん」と言っていた。そういうことなのだ。

「部長って大変なんですね……」
「さぁ。俺の要領が悪いだけかもしれへん」
「いや、白石先輩の要領が悪いなんてこと、」

 少なくとも麻衣が知る限り、白石は何でもソツなくこなすタイプの人間だ。

「天才型ちゃうから。一個ずつ積み上げてくしかできひんねん」

 その白石の言葉に、入学当初の友香里の言葉がフラッシュバックする。『クーちゃん、今うちの2年生やねんけど。テニス部で部長しとって、めっちゃ朝早いねん』。朝も早ければ、帰りも遅い。一見人生順風満帆で何の悩みもなさそうに見えるが、白石のその見えないところで積み上げてきたものを思うと、麻衣の胸はきゅっとした。

「……その『積み上げてくこと』をできるから、白石先輩はやっぱりすごいんやと思います」
「はは。おおきにな」

 そう言う白石はよそゆきの笑顔で、麻衣は苦虫を噛んだ。もっと自分に語彙力があれば。『すごい』なんて平易な言葉では片付けられないし、そんな美辞麗句は彼は聞き慣れているだろう。

「……っ、そうやなくて!その、」

 思わず大きい声をあげてしまった。麻衣がこんな強い意志を持った声を出すのは珍しい。白石は思わず目を見開く。

「言いたいこと、全然伝わらへんのがもどかしいです」

 そう言う麻衣の悔しそうな表情に、白石は自分の胸のあたりが揺れるのを感じた。彼女が言語化できない感情が、パラドックス的に伝わってくる。そして、そんな麻衣に対し、今まで自分の中で不確定だった感情が、確定していく。――俺、やっぱり、麻衣ちゃんのこと。

「……おおきに、麻衣ちゃん。よう伝わったで」
「……白石先輩」
「友香里はほんまにええ子を親友にもったわ」

 友香里の名前を出してはぐらかしてしまった。そうでもしないと白石は冷静でいられなかった。
 あまり恋愛に興味はなかった。どちらかというと女子は苦手で、好意を寄せられることはあっても、寄せることはなかった。だが、妹の親友である彼女に、今自分は異性として確実に惹かれてしまっている。

「駅、着いたな」
「……はい」

 そうこうしているうちに、駅前の横断歩道に辿り着いた。赤信号から青信号になるのを待つ間、白石は言う。

「またこの時間になるときは、一人で帰る前に、テニスコート来てな」
「え」
「駅まで送るわ。女の子の一人歩きは危ないで。特に冬は暗いしな」

 目の前の信号が青になる。ほな気ぃつけて、と、白石は麻衣の背中を軽く押したので、麻衣は慌てて身体を90度に折り曲げて「失礼します」とその場を去った。駅構内に入ってから、白石に言われた言葉を思い返す。
 また帰りが遅なったら、駅まで送ってくれるつもりなんや。
 単純に喜びたいところだが――妹の親友、つまり妹のような存在だからなのだろうか。そう思うと複雑で胸がざわつく。それ以上考えると深みに嵌るような気がして、麻衣はあえて白石のことを考えるのをやめて、夕飯のおかずのことを考えることにした。

 麻衣の背中が駅構内へ消えたのを確認し、サドルに跨りながら、思わずため息が出た。白石にとって、人生で初めての感情が次々と溢れてくる。外は冷えているはずなのに、それが心地よいと思ってしまうほどには、頬も耳も熱を持っていた。
 世の中、歴史を振り返れば万葉集の時代から人は恋について歌を詠んできたし、今も恋愛ドラマや恋愛小説など、恋愛を題材にしたコンテンツはとても人気がある。今までその理由がピンと来なかったが、今の白石には理解ができた。
 人を好きになるって、こんなに気持ちが動くもんなんや。

「……あかんなぁ」

 そんな小さな呟きは、冬の夜空へすうっと溶けていった。

2022.8.8