Martini

 定時に仕事が終わることは、俺の場合奇跡的だ。18時過ぎにコンビニで買ってきたゼリー飲料を飲んでから、会議ばかりで日中に片付かなかった資料作りを行う。

「財前さん、最近毎日遅いですね」

 20時を回った頃話しかけてきたのは、隣の席で、同じチームに所属する2年後輩の支倉だった。

「……日中が会議で埋められすぎやねん。今日は昼メシ食う暇もあらへんかったわ」
「仕事って、できる人に集まっちゃうんですよね。さすが財前さん」
「褒めても何も出ぇへんで。それに自分かて最近残業しとるやん」
「財前さんと違ってちゃんとお昼休憩は取れてますし、こんなの忙しいうちに入らないですよ」
「次長に聞いたで。来週の経営会議に諮る案件のプレゼン資料つくっとるんやってな。えらいやん」
「え、財前さんに褒められた!雪でも降るかも?!」
「7月やで。降るわけないやろ」

 そんな会話をしながら、お互いに仕事をこなす。20時を過ぎると多くの社員が退勤済みだ。人の少ないオフィスに、カチャカチャとキーボードをタイプする音が響く。

「……財前さん」
「何や」
「今日何時くらいに帰れそうですか?」
「……21時目標やな」
「じゃ私も21時まで頑張ります」
「別に俺に気ぃ遣わんと先帰ってええで」
「そうじゃなくて。財前さん、今日ランチも食べれなかったんですよね?夜くらいおいしいお酒飲みません?」
「……自分が飲みに行きたいだけやん」
「残業頑張った日ってパーっと飲みに行きたくなるんですもん」
「ま、ええわ、俺もストレス溜まってきとったし。いつものバーでええか」
「わーい」

 残業終わりに支倉と飲みに行くのは、今までも何回かあった。職場近くの居酒屋は上司や同僚に遭遇する可能性があり、巻き込まれると面倒なため、数駅離れた俺の行きつけのバーに連れて行くのが定番となっていた。

「1杯目、ヒューガルデンで」
「あ、私はフルーツ使ったさっぱり系のカクテルでお願いします」

 お互いに1杯目が揃ったところで乾杯をする。

「お疲れ様です」
「おん。お疲れさん」
「あと、お誕生日おめでとうございます」
「え?」
「あれ?今日じゃなかったでしたっけ」
「……今日何日やったっけ」
「7月20日」
「……合うてるわ。俺の誕生日なんてよう知っとるな」

 言われて初めて思い出した。日々の忙しさですっかり抜け落ちていた。昼メシもまともに食えなかった今日は、28回目の誕生日だったらしい。

「お祝いしたくて飲みに誘っちゃいました。いつもごちそうになってるし、今日は私、出しますから」
「アホ。後輩に出させるなんてダサいことできるかいな」
「えー……喜んでもらえるかと思ったのに……」
「その気持ちだけでええわ」

 注文していたオリーブや軽食が目の前に運ばれる。久々の固形物を摂取し、少し体に活力が戻ってきた。隣にいる支倉は、さっそく酒が回ってきたのか、頬がほんのり赤くなっている。
 彼女は、仕事中はどちらかというと真面目で隙のないタイプだが、酒が入ると、纏う空気が一気に柔らかくなり、そのギャップに毎回驚く。いやいや、コイツは後輩やーー毎回そう言い聞かせてみるものの、支倉からほんのり放たれる色香に、自分が動揺していることを認識せざるを得なかった。

「今更ですけど、今日飲みに誘っちゃって良かったんですか?」
「……ほんまに今更やな。別にええで、帰っても適当にメシ食って寝るだけやったし」
「……そっか、良かった、誕生日だし彼女が家で待ってるとかそういうんじゃなかったんですね」
「彼女おったら、いくら支倉が仕事の後輩とはいえそもそも女子と二人では飲みに行かへんわ」
「へー!財前さんって意外と彼女大事にするタイプなんですね」
「『意外と』って失礼やな」
「ふふ、ごめんなさい」

 支倉は機嫌良さそうに笑う。彼女が俺に対して、会社の先輩以上の好意を寄せてくれていることには、なんとなく気づいている。そして俺自身、彼女に対して、ただの後輩以上の気持ちを抱いていることも。
 2杯目を注文する。俺がマティーニを頼むと、隣で支倉が「私も」と言った。

「支倉、自分、マティーニなんか頼んでええん?明日も平日やで。潰れても知らんで」
「大丈夫ですよたぶん」
「たぶんて…」
「今日は酔いたい気分なんです」

 彼女はそういうと度数30度ほどあるであろうマティーニを呷った。俺はザルなので特に問題ないが、彼女は特に酒に強いわけでもない。そして彼女はいつもはこのような無茶な飲み方をするタイプではない。

「……なんかあったん?」
「……何もないです。あるとしたらこれから」

 そう言うと彼女は少し赤くなった目で俺の顔をじっと見つめる。その上目遣いが、素直に可愛いと思ってしまった。

「今日、朝から決めてました。財前さんのお誕生日に飲みに誘って、もし財前さんと2人で飲みに行けたら『伝える』って。でも素面じゃ無理なので、お酒の力借りますね」

 そして彼女はグラスに残ったマティーニをくいっと飲み切ると、言った。

「私、財前さんのこと好きになっちゃいました」

 流れ的に、もしや、と思ったが、そのもしやだった。ついさっきまで自分の誕生日すら失念していたのだ、まさか今日このように想いを伝えられるとも思っていなかった。

「……財前さんが私のこと後輩としてしか見てないのわかってます。だから今すぐつきあってくださいなんて言わないです。でももし少しでも可能性があるなら、私のこと、真剣に考えてほしいなって思ってます」

 彼女がそう言葉を紡ぎ終わると、俺たちの間に少し沈黙が訪れた。BGMでかかっているジャズがやけに耳に入る。ーーほんま支倉らしい控えめな告白やわ。いつも甘いカクテルばっかやのに、慣れないマティーニなんか飲んで、相当勇気振り絞ったんやろな。そう思うと、やっと驚きの次の感情が出てきて、口元が緩みそうになる。

「……なんとなく気持ちには気づいとったけど、まさか今日言われるとは思ってへんかったわ」
「えっ、気づいてたんですか」
「別にそんな鈍いほうやないし。まず、俺んことそんなふうに思ってくれておおきにな」
「い、いえ」

 支倉は恥ずかしくなったのか、それともこれから俺から伝えられる答えが怖いのか、俯いた。

「それから、すまんな、女の子に先言わせてもうて」
「……え」
「支倉のこと、別に俺も『ただの後輩』とは思ってへん。ただ知っとるやろ、俺、仕事ばっかであんま構ってやれへんで。お互い年齢的にも真剣に考えなあかんやろ。それでも俺でええの?」

 彼女に対して積極的にアプローチできなかった理由はそこにあった。こんな朝から晩まで仕事しかしていない男と付き合っても彼女は幸せなんだろうか。

「……そんなの当たり前じゃないですか。なんだかんだ言いながらも、大きな仕事からも逃げずに真剣に向き合ってる財前さんを、私はとても尊敬してるし、好きになったんですよ。それに幸い同じ会社だし。構ってもらえなくても同じ空間にいてくれれば良いです。ーー財前さんが良いんです。財前さん以外じゃだめです」

 そんな彼女の素直な回答に反省した。俺、ほんま男らしなかったわ。

「……わかった。ほな今日からよろしゅう」
「へ?」
「俺も支倉が好きやってこと」
「え?!嘘ですよね」
「何で嘘つかなあかんねん」
「だって、財前さん、私のことそんなふうに思ってるなんて微塵にも感じさせなかったから」
「……そもそも何も思ってへん奴、行きつけのバーなんて自分の大切な場所に連れて行かへんで」
「……言われてみるとそうですね」

 えへへ、と彼女は柔らかく笑った。今この瞬間から、コイツ、俺の彼女やねんな。ついさっきまで先輩後輩だったため気恥ずかしいが、守るものができて、心があたたかくなっていくのを感じた。

Fin.
2021.7.20