頬、瞼、そしてくちびるに感じた柔らかな感触に、まどろみからうっすらと意識を取り戻す。
――この感触は何? そこにいるのは誰?
そして自分にしかわからないくらい細く目を開けた途端、私の意識は完全に覚醒した。
え?
え?!
最後に額に柔らかな感触、そして私から離れたその人の顔は、とても安らかで。
でも、私は彼のそんな表情をはじめて見た。
こんな顔する彼なんか知らない。
私は、いつも俺様な跡部しか知らない。
*
もう一度目を覚まし体を起こすと、誰かがかけてくれた毛布が床へとずり落ちた。どうやら自分でも気づかないうちに正レギュラー用の部室のソファで熟睡していたようだ。今日は朝からなんだか熱っぽくて、放課後の練習中にはぼーっとしてしまって、何度跡部に怒られたかわからない。そんな私を庇って、宍戸が「麻衣、お前顔色悪いぞ」と言うと、跡部以外の正レギュラーのみんなが部室で休んで来いと言ってくれて、そして今に至る。
それにしても、さっきのは夢――?
途中、とても柔らかなやさしい感覚に目を覚ました。あの跡部が、なぜか、私にキスをしていた。そんなこと有り得るんだろうかと思いつつも、妙にリアルな感触が残っている。そしてあの見たことのない表情を思い出すだけで、ただでさえ熱があるのに、もっと熱が上がってしまいそうだ。
夢だとしたらなんて都合のいい夢なんだろう。妄想が激しいにもほどがある。なぜって、普段の跡部と私の関係なんて、部長とマネージャーはおろか、主人とメイドのようで、こき使われてばっかりだ。そして顔を合わせればすぐに口ゲンカをしてしまう。ケンカといっても他愛のないものでお互い悪意のないことはわかっているけれど、それでも、それはキスしたいだとかそういう気持ちに結びつく会話とは言い難い。
なのにこんな夢を見てしまう私は相当バカなのだろう。
「……やっと起きたか」
ガチャリという音とともに、跡部が部屋に戻ってくる。そういえば今、何時だろ?疑問に思った瞬間に「もう20時過ぎてる。寝すぎだバカ」と答えが返ってきた。
「20時!うわ、親に連絡入れてない…」
「それは俺が監督に頼んどいたから心配しなくていい。あと、帰りはリムジンで送ってやる。熱あんだろ」
「……なんか今日、跡部やさしいね。どういう風の吹き回し?」
「てめぇ、殺されてぇか」
「じょ、冗談だって冗談!ありがとう跡部。心配してくれてうれしいよ」
「最初からそう素直に言っとけ」
「はーいすみません」
だってこんなふうに話してないと、さっきの夢を思い出して、まともに跡部と話せなくなってしまう。
「……俺だって申し訳ねえとは思ってんだよ」
「え?何が?」
「…お前が熱あることに気づきもしねーで怒鳴っちまったからな。宍戸に感謝しろよ」
「そんな、普通気づかないでしょ。私一人にずっと注目してるんだったらまだしも、跡部は他の部員のみんなのことも見てなきゃいけないんだし」
納得した顔はしていない跡部に、思わず苦笑いをする。本当にこの人は自分に厳しい人だ。きっとマネージャーの異変に気付けなかった部長としての自分を情けないとでも思っているのだろう。
「立てるか?」
「あ、うん。そろそろ帰んないとね」
多少はふらつくが、立つことくらいはできる。と思った瞬間、ズリッ、と足元の毛布が滑って、私も足を滑らせてしまった。きゃ、と小さな悲鳴を上げるも、私の身体は跡部の腕によって強く引き寄せられた。
「……ったく、危ねーなお前。ほんとに大丈夫かよ」
そんな声とともに、耳元に吐息がかかって、思わず私の身体はびくっと震えた。不可抗力とはいえ跡部に抱き寄せられる形になってしまった。こんなときにさえ、さっきの夢を思い出してしまう。いきなり脈が速くなった。心臓の音が、跡部の耳にまで届いてしまいそうだ。
もう離してくれてもいいはずなのに、跡部の腕が解ける様子はない。抱きしめられたままの私は困惑する。
「跡部?」
「ん、どうした」
「もう、自分で立てるよ」
「ああ」
「『ああ』って。もう腕緩めてくれて大丈夫だよ」
そう言って、跡部の顔を見上げる。目が合う。
その熱っぽい視線に、どっちが熱があるのだかわからなくなった。
気付けば私の口は勝手に動いて、跡部に一つの質問を投げかけていた。
「――跡部、もしかして、さっき私に、キスした?」
「……やっぱ、起きてたんだろ、お前。バレてんだよ」
「なんで――」
「そういう野暮なこと聞くか?」
「――聞かない」
「利口だ」
そう言うと跡部は満足そうな笑みを浮かべながら私をより一層強く自分に引き寄せて、さっきのとは比べ物にならないくらい、熱い熱い口づけをした。頭がくらくらする。風邪の熱なんて、彼の口づけに比べたら全然熱くもなんともないんじゃないか。雨のように降り注ぐキスを受けとめながら、私はやっぱりそんなバカみたいなことを考えていた。
Fin.