同じクラスの支倉とはそんなに会話したこともなかったが、教室の隅で他の女子たちと談笑している姿をよく見かけた。穏やかそうな女子が集まる中で、ふわりとした笑顔を浮かべている彼女のことが、ひそかに気になっていた。好きとか、そこまではいかへんけど。そんな俺に白石は気づいていて「謙也はああいう子がタイプなんや?」なんてこっそり耳打ちしてきたから、「うるさいわ」とだけ返しておいた。好きなタイプを聞かれたら無邪気な子と答えているが――確かに彼女の笑顔はいつも邪気のないまっさらな笑顔だった。
そんな彼女が生徒玄関で外の土砂降りの雨を見ながら立ち尽くしている姿を発見した。一瞬で悟った。傘、ないんやろな。幸運にも彼女も一人、俺も一人。そして俺には長い透明なビニール傘がある。今までなかなか話しかけるきっかけがなかったが、これは絶好のチャンスや。
トントン、と支倉の肩を叩いて話しかける。振り返った彼女はとても驚いた顔をしていた。
*
自分の傘の中に支倉を入れると、やはり狭い。はじめて彼女とまともに話した気がするが、話してみると案外盛り上がった。いつも気になっていたあのふわりとした笑顔が、今は自分に向けられている。
――うわ、なんやこれ、めっちゃ可愛いやん?!
意識すると何も話せなくなってしまいそうで、慌てて世界史の授業の話題を振った。あ、でも世界史の時、眠りこけてもうて先生に怒られたんやった。
「ふふ。忍足くん、先生に起こされとったなぁ」
「!! 恥ずかしいこと思い出さんといてくれ」
自爆や。ドンマイ俺。
支倉を傘の中に入れて歩く中で、何度か彼女の肩が俺の二の腕あたりを掠めるのを感じた。そして、その度に彼女は気を遣ってか、傘の外側に心なしか移動する。
「遠慮せんともっと中入りや。肩濡れるやろ」
せっかく濡れないように傘に入れたというのに、支倉が雨に濡れてしまっては本末転倒だ。そんな気ぃ遣わんでええのに。と、思っていたが。
「……うん」
彼女のその緊張した声と、赤く染まった耳を見て、俺はことの重大さに気づいた。思わず手が滑って傘を落としそうになる。そのせいでたくさんの雨粒を載せた傘が傾いて、ザザーッとそのまま大量の水が俺らの肩を濡らした。
「っと、あー!すまん……!」
「だ、大丈夫」
何してんねん俺、カッコ悪。結局、俺のせいで支倉の肩も濡らしてもうたし。それでも一気にドッドッと鳴り始めた心臓は、おさまらない。
彼女を傘の中へ引き寄せると、完全に制服の布同士が触れるし、なんとなく雨で少ししっとりとした彼女の髪からシャンプーのような香りがするのも感じて、なんとも言えない気持ちになる。そういや白石、お前シャンプーの匂いのする子が好きや言うとったな。その時、キモイ言うてすまんかった。今、めっちゃ気持ちわかるわ。
*
「めっちゃすごい雨やったな……」
「ホンマに。でもここまで来れたら傘なくても駅までなんとかなりそう。忍足くんのおかげやで」
「いや、俺のせいで結局肩濡らしてもうたし」
「ううん。忍足くんに傘入れてもらわへんかったら、全身びしょ濡れやったもん。ほんまにありがとう」
無事、駅前の商店街のアーケードに着いて、俺は傘を閉じた。俺のせいで制服の左肩部分だけびしょ濡れになってしまったというのに、彼女は俺を気遣ってか、笑顔で礼を言う。そのせいか、俺もつられて顔が緩んだ。
「役に立てたんやったら良かったわ」
「うん。めっちゃ助かったで」
遠目に駅が見えてきた。彼女との帰り道ももう終盤だ。せっかく話せたのに、このまま駅で別れるだけだと明日からの関係も何も変わらない気がしたので、満を辞してずっと気になっていたことを言ってみることにした。
「――ところで」
「?」
「その『忍足くん』言うん、むず痒いねん。他の奴、みんな俺のこと『謙也』って呼ぶやろ。せやから自分も、『謙也』でええよ」
『忍足くん』なんてそもそも呼ばれ慣れていないし、何だか線を引かれているようで寂しい気もした。ただ、冷静になって考えてみると、彼氏でもないのに名前で呼べなんて言うて、俺結構ヤバいやつなんちゃう……?!ドン引きされてへん?!そう思った時だ。
「……け、謙也くん」
遠慮がちに紡がれた俺の下の名前。
「おん。やっぱそっちのほうがしっくりくるわ」
うわ、何で名前呼ばれただけやっちゅーのに、こない嬉しいんやろ。
「最寄駅からは近いん?」
「近くはないねんけど、コンビニで傘は買えるはずやから」
「そーか。ほな気ィつけて帰りや」
「うん、ほなまた明日ね、謙也くん」
駅まで支倉を送り、その背中が見えなくなってから、俺は再び傘を開いて家の方向へと足を踏み出す。心臓が、『謙也くん』と、自然に呼ばれた名前に反応する。そして、もう一つ罪悪感でも、心臓が疼く。
――傘買う言うてたよな。
――けど、今更、言えへんよな。
本当は俺のテニスバッグの中に、折り畳み傘も入っていた、なんて。
Fin.
2021.11.24