困った。雨が降ってきたのに、傘がない。
天気予報は確かに午後から雨だと言っていたのに、学校へ向かう道中で道ゆく人が長い傘を手にしているのを目にして、私は傘を家に置いてきてしまったことに気がついた。こんな日に限って、折り畳み傘も、バッグには入っていない。天気予報が外れるといいな、せめて私が帰る時間だけは小降りだといいな。そんな淡い期待をよそに、下校時刻となっても外は土砂降りの雨である。
――しょうがない。とりあえず駅前の商店街はアーケードがあるから、そこまでなんとか走って到着できれば。
生徒玄関から外を見つめながら覚悟を決めている最中、ふと、肩にトントンという感触があり振り返ると、そこには同じクラスの忍足くんがいた。
「わ、忍足くん?」
「傘ないん?」
「え、何でわかったん?」
「さっきから外見ながらめっちゃ思い詰めとったから」
忍足くんと私は、そこまで接点があるわけではない。同じクラスです以上、といった関係で、特に仲が良いわけでもない。会話したこともあまりない。だから話しかけられるとは予想していなかった。思わず緊張する。
「あ、なんやいきなり話しかけて驚かせてもうたみたいですまんな」
「い、いや、全然忍足くんが謝ることないで。忍足くんの言う通りで傘忘れてもうて……天気予報でもあれだけ雨降る言うてたのに恥ずかしいわ」
「へえ、意外と抜けてるとこあんねんな」
忍足くんの言葉には、何の悪気もないのもわかっている。だからこそ少しへこんだのだが、次に忍足くんが口にした言葉に驚いた。
「俺の傘、入ってくか?」
「え?」
「濡れたら風邪ひいてまうで」
同じクラスにいるので、忍足くんの性格は知っていた。明るくてみんなの人気者。誰にでも優しくて素直で嘘をついてもすぐバレてしまう。そんな忍足くんだから、きっと玄関で立ち尽くしている私を放っておけなかったのだろう。申し出はすごくありがたい、けど、これって相合傘なのでは……?!私が即答できずにいると、忍足くんはいつもの笑顔から、急に眉を下げて申し訳なさそうな表情になる。
「あ、でも俺と同じ傘入るの嫌やんな?」
「えっ、嫌とかちゃうねん……!忍足くんに迷惑かけてまうなあ思て」
「俺のことは気にせんでええねん。そもそも迷惑や思っとったら最初から声かけへんし」
確かにそれもそうだ。
「ほな、お言葉に甘えてもええかな」
「おん。任しとき!」
そう言った忍足くんは、いつもの弾けるような笑顔に戻っていた。
*
二人で駅までの道を歩く。共通の話題を探した結果、私たちは今日の授業の話をしていた。
「ほんま世界史は眠たなるわ」
「ふふ。忍足くん、先生に起こされとったなぁ」
「!! 恥ずかしいこと思い出さんといてくれ」
私と会話する忍足くんも、当たり前だけど、クラスで見る忍足くんと同じでコロコロと表情を変える。そんな忍足くんを見ているだけでこっちまで楽しい気持ちになり、元気をもらえた。
勝手に忍足くんには憧れの感情を持っていた。『好き』とかそんなのは畏れ多い。カッコよくて、明るくて、テニスの腕も全国レベルで、実は頭も良い。そんな彼はスクールカーストの最上位にいる。それに比べて私は、特に目立つわけでもない、どこにでもいる女子生徒で、映画に例えるとただのエキストラ。そう思ったら、憧れの忍足くんと相合傘で下校するというのは私の人生でもかなり大きなイベントなのではないか。雨が傘に当たって、バラバラと激しい音がする。気温も下がって、少し肌寒い。なのに、私の体温は少し上昇しているような気がした。
もともと1人で入るための傘だ、2人だと中は狭い。ときたま自分の肩が忍足くんの二の腕あたりに触れてしまって、そのたびに距離感にどきりとして、少しだけ彼から離れた。
「遠慮せんともっと中入りや。肩濡れるやろ」
忍足くんは心からの善意でそう言っているのだろう。でも忍足くんを意識してしまった私は、その言葉にドキドキしてしまって。「うん」と、自分の喉の奥から出た声は、おそらく誰が聞いても緊張しているのが伝わる声色だった。だって、普通に生活してたら、異性とこんな距離にならない。しかも相手はあの忍足くんだ。仕方ないではないか。心の中で色々と言い訳をする。
忍足くんはといえば、そんな私の声を聞いた瞬間、傘を持つ手が一瞬ぶれたので、傘からザザーッと一気に水滴が落ちた。そしてその水滴によって、結局お互いの肩が濡れた。
「っと、あー!すまん……!」
「だ、大丈夫」
見上げた忍足くんの顔は、赤くなっていた。お互い目が合って、そして、どちらともなくふと視線を逸らす。お互いに片側の肩はびしょ濡れなのだけれど、傘の中での距離はさっきよりグッと近くなった。忍足くんの制服のシャツの布と、私の制服の布が触れて、衣ずれの音がする。
その出来事の後から、私たちの間からなんとなく会話が消えた。雨音だけがザーーーと変わらず激しく音を立てている。早く、商店街のアーケードへ辿り着きたい。だって、緊張しすぎて耐えられない。うるさすぎる心臓の音が、忍足くんにも聞こえてしまっているのではないかと、心配になる。だって、ただのエキストラのはずだった私が、まるで忍足くんの恋人みたいな距離で、忍足くんの傘の中にいるのだから。
*
無事商店街のアーケードに辿り着いて、私たちの間に会話が戻る。
「めっちゃすごい雨やったな……」
「ホンマに。でもここまで来れたら傘なくても駅までなんとかなりそう。忍足くんのおかげやで」
「いや、俺のせいで結局肩濡らしてもうたし」
バツが悪そうな顔でそう言いながら、忍足くんは透明なビニール傘を閉じた。そんなの気にしなくていいのに。
「ううん。忍足くんに傘入れてもらわへんかったら、全身びしょ濡れやったもん。ほんまにありがとう」
そう伝えると、閉じた傘を片手でくるくると回転させて水滴を落としていた忍足くんは、例のバツの悪そうな顔から、ほっとしたような嬉しそうな表情に変わった。やっぱり忍足くんには、こういう明るい顔が似合う。
「役に立てたんやったら良かったわ」
「うん。めっちゃ助かったで」
「――ところで」
アーケードの下を二人で並んで歩きながら、忍足くんはおもむろに言う。
「その『忍足くん』言うん、むず痒いねん。他の奴、みんな俺のこと『謙也』って呼ぶやろ」
言われてみれば確かに、男子はみんな彼を『謙也』と呼ぶし、女子も、それこそスクールカースト上位の、可愛くてスカートが短くていつも香水の匂いのする女の子達は、彼を『謙也』とか『謙也くん』とか呼んでいる。
「せやから自分も、『謙也』でええよ」
え。そんなに親しいわけでもない私が、そんなふうに呼んでいいわけないと勝手に思っていた。でも本人がそう言ってくれるなんて。
「……け、謙也くん」
「おん。やっぱそっちのほうがしっくりくるわ」
そう笑った謙也くんの笑顔は、土砂降りの雨も止んでしまうのではと思うくらい太陽みたいに明るくて、その瞬間、自分の中の全身の血液がぐるりと身体を駆け巡るのを感じた。わ。ちょっと待って、これはあかんやつ。
名前を呼んだだけで距離がぐっと近づいた感じがするのに、さらにそんな笑顔を見せられては――謙也くんのことを『憧れ』じゃなく本気で『好き』になってしまいそうだ。
謙也くんはそんな私の心の変化にはきっと気づかずに、明日も雨降るんかなぁ、なんて呑気なことを言いながら、私の隣を歩いていた。
Fin.
2021.11.24