夏休みのど真ん中、謙也くんと私は、お互いに部活の合間を縫って、謙也くんの部屋で勉強会という名のデートをしていた。謙也くんの部屋に来るのは2回目だけど、前は謙也くんのママも、弟の翔太くんもいた。でも、今日は、私たち高校生は夏休みだけど、世の中は平日。お医者さまである謙也くんのパパはもちろん、看護士さんをされているママもお仕事だし、翔太くんは部活だ。
謙也くんのおうちに着くまで、まさか今日はふたりきりだなんて知らなくて、なんだか一気に緊張してしまう。だめだめ、今日は勉強しにきたのに。休み明けの実力テストに向けて頑張らなくちゃ。
謙也くんの部屋のローテーブルに、教科書と参考書と問題集を広げて、隣同士に座る。「向かい合った状態だと、逆から文字が読みにくいねん」なんて謙也くんはのたまうけれど、本当は隣に座りたいだけなのかな。可愛いな。でも、私は逆に隣に来られるとドキドキして勉強に集中できない。
「で、ここのf(x)のxにさっきのxイコールの式を代入するやろ?」
耳元で、謙也くんが一生懸命、私の苦手な数IIの問題を教えてくれている。その声があまりに近くて、心臓がうるさい。でも私のそんな様子に気づいていない謙也くんは、本当に真面目に問題を解いている。
「するとyの式になって、yが出てくるっちゅー話や」
「……なるほど」
ごめんね謙也くん、なるほどって言ってみたけど、本当はあんまりわかってない。
「……麻衣、ほんまはわかってへんやろ」
「え?!何で?」
「顔見たらわかるで。集中できひん?」
隣の謙也くんは、そう訊いてくる。正直に言うと、その通りだ。謙也くんがかっこよすぎてドキドキして集中できません。言わないけど。
「……せっかく一生懸命教えてくれてるのにごめんね。もっと集中するね」
「いや、ええよ。集中できひん理由あるんやろ?部屋暑い?エアコン下げよか」
やさしい謙也くんは、部屋のエアコンのリモコンを取ると、少しだけ調整をしてくれた。ごめんね謙也くん、せっかく真面目に勉強教えてくれてるのに、こんなダメな彼女で……。
「……あと、もう一つ、麻衣が集中できひん理由、思いついてんけど」
そう言って謙也くんはまた私の隣に座り直すと、エアコンのリモコンを置いて、私の顔を見つめる。
「──もしかして、俺やんな?」
スイッチが入ったようにニヤリと笑う謙也くんは、悪いことを考えている謙也くんだ。いつもはさわやかでみんなの人気者の謙也くんだけど、時折りこういういたずらっ子のような、それでいて大人の男の人のような余裕をもった笑みを浮かべるから、心臓がもたなくなる。
「な、なななんで」
「今日、2人きりで緊張しとるやろ?」
「……だって、てっきり謙也くんのママも翔太くんもいると思ってたんだもん」
「おったほうが良かったん?」
「あ、いや、それは……」
「……何や、麻衣もほんまは2人きりが良かったんや?なんで?」
「も、もう、謙也くんさっきからいじわるすぎ……!」
「こういうこと、したかったんやろ?」
謙也くんは私の顎に指をかけると、そのままその端正な顔を近づけて、そのまま距離がゼロになった。くちびるが一瞬触れて、そのまま離れる。
──謙也くんの部屋で、キスしちゃった。
謙也くんとキスしたのは初めてではないけど、好きな人の部屋でのキスというのは、なんだか特別にドキドキする。謙也くんが毎日寝起きしているベッド、毎日使っているであろう勉強机、壁にかかっているテニス部のユニフォームに、夏の制服。謙也くんを感じる空間に包まれながらの本物の謙也くんとのキスは、謙也くんの過剰摂取で頭がおかしくなりそうだ。
「……ほんまはもうちょっと真面目に勉強するつもりやってんけど、さすがに俺も集中でけへんわ」
「え……」
「麻衣、もう一回」
謙也くんはそう言うと、今度は私の左肩に右手を置いて、私の後頭部に左手を持っていく。あ、これは、もっとちゃんとしたキスをされるやつだ。反射的に目をつむると、自分のくちびるに、謙也くんのくちびるのやわらかい感触を感じた。そのまましばらくは触れ合うだけのキスを繰り返していたけれど、突然、舌がぺろりと入り込んできて、思わず肩がぴくっと動いてしまう。
「……謙也くん、」
「……麻衣、好きやで」
一度くちびるを離してそんな短い会話をした後、今度はさっきのやさしいキスとは全然違うキスが降ってきた。逃げようとしても逃げられないように舌が絡め取られてしまって、真っ白になる頭の中で、そういえば昔洋画で観たキスもこんなキスだったかも、なんて微かに思う。
まだまだお昼前で、窓からは日光がさんさんと降り注いでいる明るいお部屋で、私たちは勉強もせず何をしているんだろう。でも、目の前の謙也くんがただただ愛おしくて、そんなこともどうでもよくなってきた。
そんなとき、キスをしながらも、謙也くんの右手が私の左肩から身体を滑るように降りてきて、そのまま私の左手に重なる。いつもと違う雰囲気を感じて、一瞬戸惑った。──謙也くん?
「麻衣」
謙也くんは一旦くちびるを離すと、とても真剣な目をして私を見て、そのまま気づいたら私の世界は90度回転していた。え。どうしよう。まさか、キスのその先のことまでは考えてなかった。でも、私は今、謙也くん越しに謙也くんの部屋の天井を見ている。そして、天井から、目の前の謙也くんに焦点を戻す。
「……謙也くん?」
「……あかん、キスだけじゃ足りひん」
「え、」
「……すけべ、してもええ?」
耳元に、いつもより一段低い謙也くんの声。
一瞬、思考が停止する。
え、待って待って待って。下着可愛いのつけてたっけ?そもそもダイエット間に合ってないし、いろんな準備ができてない。わかってたら昨日の夜全身にいつもよりたくさんボディクリームを塗ってきたのに。
それでも目の前の謙也くんがとても真剣な顔をしているから。気づいたら、声は出さずに黙って首を縦に動かしてしまった。そんな私を見た謙也くんは一瞬ごくりと唾を飲み込む。そして、突然、水に濡れた犬みたいに、頭をぶんぶんと振った。
「アカンアカンアカン……!」
「えっ?!」
「ほんまにこのまま襲ってまいそうや」
「え……?!」
「……いや、めっちゃしたいけど。まだ昼前やし。全然勉強終わってへんしな」
謙也くんは突然我に返ったように私の身体を抱き起すと、そのまま明後日の方向を向いて顔を真っ赤にしている。嘘、ここまでしておいて、やめちゃうの?!逆にびっくりだけど、なんだか謙也くんらしいといえば謙也くんらしい。
「……すまん。理性ぶっとんでしもて」
「ううん、謙也くん、かっこよかったよ?」
「そ、そーか…」
「うん。途中でやめちゃわなくてもよかったのに」
クスクスと笑いながら謙也くんの顔を見ると、あれ、謙也くんは笑っていない。
「──ほんまに今のは麻衣があかんやつやで」
「え」
「途中でやめちゃわなくてもよかった、って、言うたよな?」
「は、はい……」
やばい。謙也くんからただならぬ空気を感じる。
謙也くんはそのまま私を立ち上がらせて、すぐそばにある彼のベッドへ私の身体を埋めさせた。ぽすんと背中から謙也くんの掛け布団を感じる。勢いでマットレスも少し跳ねた。
「そんなん言われたら、続きしたなるやん」
そのまま、謙也くんがサッと遮光カーテンを引いたから、さっきまで明るかった部屋が一気に暗くなった。その暗い中で、謙也くんのくちびるが私の首筋を捉えたのを感じて、私はそのまま謙也くんに身を委ねることにした。
Fin.
2021.10.20