第6話 2つのベクトル

「麻衣」
「あ、財前」

 気づいたらコートから姿を消していた麻衣が、少しだけ赤い顔をして戻ってきた。

「どっか行ってたん?」
「あ、うん。ちょっとだけ部室に」
「お、支倉!」
「わ。謙也先輩」
「白石、大丈夫そうか?」

 俺と麻衣が話しているというのにも関わらず、謙也さんは会話に乱入してきた。しかし、「あ、話しとったのにすまん、光」とすぐにしゅんと項垂れた犬みたいに謝る謙也さんのことは憎めない。「ええですよ別に」と答えると、謙也さんはほっとしたような顔をした。

「そうですね、熱もなかったし、たぶんもうちょっとしたら戻ってくると思います」
「そうか、それならよかったわ」
「……部長、どうかしはったんですか」

 そういえば、さっきからコートに部長の姿も見えない。

「ああ、なんかな、体調悪いみたいやねん」
「部長が?へえ、めずらしい」
「やろ?せやから、支倉に様子見に行ってもろててん。な?」

 謙也さんからそう振られると、俺達2人が会話している間意識が飛んでいたのか、麻衣は慌てて「え、あ、は、はい!」と答えていた。何だかいつもと様子がおかしい。

「何ぼけっとしてんねん。支倉まで具合悪なったか?」
「もう、謙也先輩!」
「はは、冗談やって」

 その時、遠くから小春先輩の「ケンヤくぅ~ん、次アタシたちと銀さんと試合よ」という声がして、「呼ばれてもた。ほなら俺行くわ」と謙也さんはその浪速のスピードスターの俊足で駆けて行った。今の謙也さんと麻衣のやりとりを聞いていると、だいぶ麻衣も先輩達と打ち解けてきた印象を受ける。

「仲ええんやな、謙也さんと」
「え、そう見える?うれしいなー!最初の頃は緊張してたんだけど、最近普通にしゃべれるようになったんだ」

 そして、嬉々とする麻衣に、こんなことを言う俺は我ながら性格が悪いと思う。

「ほんで……白石部長とは仲良うなりすぎた、と」
「はい?!」
「部室から帰ってくるとき赤い顔しとった。その部室には白石部長がいてはった。この2点から推理したらそういう結論以外出てこおへんのやけど」

 淡々とそう言うと、麻衣は耳まで真っ赤にして黙った。
 そして、ぽつりと小さな声で言う。

「財前が想像してるような関係じゃないよ。白石部長が私なんか好きになるわけないでしょ。それに……」
「それに?」
「……私も、部内の人は好きになっちゃいけないと思ってる」

 それじゃ、私別な仕事があるから!
 麻衣は逃げるように、俺の元から去っていった。
 『部内の人は好きになっちゃいけないと思ってる』。
 よこしまな理由で入部してきたマネージャーといっしょにされることを何よりも嫌っていた麻衣は、きっと自分もそいつらと同じにはなりたくないという思いが強いのだろう。
 しかし、そのセリフを呟いたときの表情こそ。
 ――ああもう、こっちが恥ずかしなるっちゅーねん。
 耐えきれずに、ぐしゃぐしゃと髪をかきむしった。自分で、「好きになっちゃいけない」などと線引きをする麻衣には呆れるが、それもクソ真面目な麻衣らしいといえば麻衣らしい。

「……あいつ、ほんまアホやわ…」
「ん、誰のことか知らんけど悪口はアカンでぇ、財前?」
「部長……」

 ぽん、と肩におかれた右手。振り返ると部長がそれはそれは清々しい顔で立っていた。

「体調は大丈夫なんですか?」
「おかげさまでな。まあ、もともと頭痛と胸やけだけで大したことなかってんけど、今は完全回復やで。てなわけで、ヒマそうな財前くん」
「ヒマ、て……まあええですけど」
「俺もヒマやねん。試合せーへん?」

 疑問形ながらもストレッチをはじめる部長に対して拒否権を行使する権力は俺にはなかったし、何より勝敗はわかっていても、この人にどこまでシングルスで対抗できるか自分を試してみたい気持ちもあった。が、どことなくいつもより機嫌が良さそうな部長は、試合中でもないのに、んんーっ絶頂!などと呟いていて少しだけヒく。

「……部長。今日、いつもよりテンション高いんとちゃいます?」
「ああ。そうかもしらんわ」
「なんかええことでもあったんですか?」
「まあ、な」

 ほんの一瞬。
 遠くを見つめて、部長は呟いた。
 そしてすぐに、俺のほうに視線を戻して、コートが空くまで雑談を続ける。
 俺はその部長の一瞬遠くに移した視線の先を、目で追う。

 ―――なるほど。これはおもろいことになってきたわ。

 俺の視界には、コートの隅でスコアをつける麻衣がいた。