そのまま、具合の悪そうなマサハルを連れて、お母さんはかかりつけの動物病院へと車を走らせた。私もついていくと言ったのに、お母さんは、「家で待ってなさい」の一点張り。今思えば、お母さんの言い分はよくわかる。私は、マサハルが心配なあまり、ひどく取り乱していたのだ。
*
元々お父さんは単身赴任中だというのに、さらにマサハルとお母さんがいなくなって、ひとり、家に取り残された私。マサハルの血尿で汚れてしまった床を雑巾で拭いていると、その手の甲にぽたりと水滴が落ちて、そのときやっと私は自分が泣いていることに気づいた。
マサハル――。
どうしよう、マサハルにもしものことがあったら。
ううん、だめだめ、縁起の悪いことは考えちゃだめ。
それでも私の中の不安はどんどん大きくなる一方だった。胸が痛い。張り裂けそうだ。
そんなとき、ふと、頭に浮かんだのが、仁王くんだった。近くにある携帯を手にとって『仁王雅治』の連絡先を呼び出す。電話をかけようとした、その指が一瞬止まる。
――仁王くんは今、高校生と混ざってテニス部の練習をしているはずだ。
――なのに、こんな電話かけたら、ただの迷惑だよね。
理性はそう訴えているのに、私の感情はそれを跳ねのけようとする。仁王くんの迷惑になるのはわかっている。でも、私は今ひとり、この夕方の薄暗い部屋で、マサハルの帰りをただただ待っているなんてできない。怖い。怖いよ。ねえ、だから、電話越しでいいから、そばにいて、仁王くん。
『……どうしたんじゃ、支倉』
3コールの後、受話器越しに、仁王くんの声が聞こえた。その声に安堵して一気にまた涙腺が緩み、何も話せなくなる。漏れるのは嗚咽だけだ。そんなただならぬ様子に、仁王くんは『支倉?』と少し焦ったような声色で私をもう一度呼んだ。
「に、仁王くん、あのね、マサハルが――マサハルが、あのね―――」
『――今、どこに居る?』
「い、家……」
『今行く』
「え?! 部活は……」
『いいからおまんはそこで待っとれ』
めずらしく強い口調でそう言ったかと思えば、次の瞬間、一方的に電話は切られていた。
*
電話から30分が経ったか経たないかという頃、私の家のインターホンが鳴った。慌てて玄関に出ていくと、そこにいたのは、カッターシャツとスラックス姿で、緩くネクタイを垂らしている、立海の中学の制服姿の仁王くんだった。肩にはテニスバッグがかかっている。いつも飄々としている仁王くんにしてはめずらしく、肩で息をしていた。
しかし、いくら急いで来てくれたにしても早すぎる。私の家から立海までは、公共交通機関を使えば1時間くらいかかるというのに。しかし、私の家と立海の直線距離は実はそんなに遠くはないのだ、交通網がないだけで。だから、タクシーや車を使えば意外と早く着いてしまう。もしかして――。
「仁王くん……ここまで、走ってきたの?」
「……いちばんそれが早かったからのう」
慌てて仁王くんを家に上げて冷蔵庫にあったスポーツドリンクを出すと、仁王くんは2リットルを一気に飲みきってしまった。それくらいの汗だったのだ。 マサハルのいない縁側に、私たちは、並んで座る。
「で、マサハルが、どうしたんじゃ」
「……あのね、仁王くん、今日マサハルが血尿をしちゃったの」
「血尿?」
「おとといくらいから、調子悪そうにはしてたんだけど、ついに今日、おもらしをしちゃって……最初は普通のおもらしかと思ってたんだけど、さっき、ついに血尿が出ちゃって……」
思い出せば、また、視界が目にたまった涙のせいで揺らぐ。
「仁王くん、私、マサハルのあんな辛そうな顔見たことない」
「……ああ」
「ねえ、仁王くん、もしかしたら、マサハル……」
どうしよう、怖い。まさか、そんな、そんなことないよね?でも、怖い。どうしよう。どうしよう。
「どうしよう、仁王くん、もしマサハルが死――」
「麻衣!」
言いかけていた言葉を、仁王くんはそう遮った。はじめて呼ばれた、私の下の名前。そのまま仁王くんは私を抱きしめて、私の頭を自分の胸に押し付ける。仁王くんの規則正しい鼓動が聞こえる。とくん、とくん。そのゆったりとしたリズムに合わせて、私の感情も少しは落ち着いてきた。
「――言っていいことと悪いことがあるぜよ。今、お前さんの大事なマサハルは病院で頑張ってるけぇ、そんな縁起悪いこと言ったらいかん」
「うん……」
「それに、もし、万に一つマサハルがそうなっても、」
仁王くんは少し腕を緩めて私の目を見つめる。私も仁王くんを見つめ返す。
「――俺も、『雅治』なんじゃけど?」
「へ?」
どこかで聞いたような台詞だ。
仁王くんはそのまま、私の耳元で、小さな声で、しかし、はっきりと、言った。
「――俺が、傍にいてやるから」