あの日、どうやって家に帰ったのか記憶はおぼろげだった。謙也に抱きしめられた感覚と、「好きや」という声だけは、まるで身体に染み込んでしまったようにはっきり思い出せるのに。
その日の晩に、筒井くんからLINEが来た。待ち合わせ場所と時間が書いてあった。土曜日、11時。あんなに楽しみにしていた、そして謙也に行くなと言われたデート。
――どないしたらいいんやろ。
頭がパンクしそうだ。謙也がまさか私のことを好きだなんて想像もしていなかった。謙也のことを好きか嫌いかと聞かれればもちろん「好き」だ。しかし、その「好き」はきっと友達の「好き」で、それ以上のものではないはずだった。謙也に対する「好き」は、筒井くんに対する「好き」とは種類が違う。
なのに、どうして謙也のことばかり考えてしまうのだろう。どうしてあのとき、すぐに謙也の告白が断れなかったのだろう。どうして謙也の腕の中から、逃れたいと思わなかったのだろう。
そんなことを考えている間にも時間は無情に過ぎて行って、筒井くんとのデートに行こうかどうか迷っている間に当日の土曜日になってしまった。あの日以来、謙也とは全く会話もLINEも電話もしていない。待ち合わせの11時に間に合うように、自分が持っている服の中でいちばんお気に入りのワンピースを着て、その上にコートを羽織って、薄くメイクを施して、ネイルを整えて、家を出た。人生初のデート、本当はもっとわくわくした気持ちになるはずなのに、今の私はといえば、まるで学校や部活にでも行くような感覚だった。約束があるから家を出て行く。ただ、それだけ。
待ち合わせ場所に着いたときには、筒井くんはもうそこにいた。筒井くんは私を見るなり「かわええカッコやなぁ」と褒めてくれて、どきどきする。そして、私は自分の気持ちを確認する。
私が好きなのは筒井くんなのだ。謙也じゃない。
*
見たいと思っていた映画は邦画の恋愛モノだった。期待していたよりストーリーはありきたりでつまらない。でも、主人公の女の子の相手役の男の子はかっこいい。しかも、筒井くんに似ている気がする。そんなことを考えていた矢先に、もちろん全年齢対象の映画だからとってもとっても遠まわしな描写ではあるけれど、主人公と相手役の男の子のベッドシーンがあった。さっきも言った通り相手役の男の子が妙に筒井くんに似ているせいか、恥ずかしくて思わずうつむいた。友達の中には彼氏とそういうことを経験している子もいるけれど、私にはまだそんなことは考えられない。
「映画、まあまあおもろかったなぁ」
「せやなぁ。けど筒井くん、うち、ホンマにチケットのお金払わんでええの?」
「ええって。どうせ貰いもんの前売り券やったし」
軽くランチをしたあと、予定通り私達はカラオケに来ていた。土曜日のカラオケは混んでいるはずなのに、私の知らない間に予約をしてくれていたのか、筒井くんの案内で連れてこられたカラオケにはすんなり入ることができた。デンモクをいじりながら何を歌おうか悩んでいると、筒井くんはすっと私の隣にやってきて、横からデンモクの画面をのぞきこむ。
「悩んでるん?」
耳元から聞こえてきた筒井くんの声にびっくりする。筒井くんの髪が少し首筋に触れてくすぐったい。
「あ、うん、何入れたらいいんやろって」
「別に無理して歌わんでもええで。適当に入れとけばええねん」
「え?」
筒井くんは私の手の中にあるデンモクをささっといじると、私がちょうど見ていたページから連続で同じ曲を何曲も登録した。
「別にこんな音楽、ただのカモフラやろ。これでいっぱい声出せるな」
そんな台詞とともに、私の視界は90度ほど回転した。目の前にはさっきまでテーブルの上に乗ったオレンジジュースがあったはずなのに、今はこの小さな部屋の天井が見えている。背中には、ワンピースの布ごしにひんやりとした皮張りのソファの感触。至近距離に筒井くんの整った顔がある。そのときはじめて、どうやら押し倒されているらしいということに気づいた。
「――え、筒井くん……これどういうことなん?」
「この期に及んでカマトトぶるなんてやるなぁ、支倉さん。こんな脱がしやすいシャツワンピ着てくるなんてヤル気満々やと思っててんけど。こうなること、期待してたんとちゃうん?」
いつもとは違う顔つきの筒井くんはまるで別人のようで、耳の奥でざああああ、と血の気がひいていく音がした。本能が身の危険を感じていた。
嘘や。筒井くんはもっとやさしくて、紳士な人やと思ってたのに。噂はホンマやないって信じてたのに。だんだん近づいてくる筒井くんの顔。きっとキスをされるのだと思うと、鳥肌が立った。ついさっきまではあんなにかっこいいなあと、好きだなあと思っていたはずなのに。
「だから、お前はあかんのや!!」
ふと、そんな声が脳内で蘇った。謙也の言う通りだった。今さら気づいてももう遅い。この一瞬で気がついてしまった。筒井くんはきっと噂通りの人だったのだ。きっと高2にもなってこんなにウブな私がものめずらしくて、興味を持っただけだったのだ。
涙が出そうになった。まんまと筒井くんの罠にはまってしまった自分が情けない。そして、そんな罠から救い出そうとしてくれた謙也に申し訳ない。
たとえ私のことが好きだったとしても、謙也は自分の気持ちを押し殺してまで、いつも私の恋を応援してくれていた。そんな謙也が、私を自分のものにしようとか、私の恋を妨害しようとか、そんな自己中心的な理由で「あかん」なんていうはずがない。
純粋に、私を筒井くんから守ろうとしてくれていただけやったのに。
ずっと隠していた想いを伝えてまで、守ろうとしてくれていただけやったのに。
それなのに、うちは――この期に及ぶまで、謙也より筒井くんを信じとったんや。
「支倉さん、俺のこと好きなんやろ?抵抗はナシやで」
必死で抵抗しようにも、筒井くんの身体は私の身体の上に乗ったままびくともしない。そのままくちびるが重ねられた。最悪のファーストキスだった。むに、とやわらかい感触が、気持ち悪い。その気持ち悪い感覚が何度か繰り返されるうちに、筒井くんの唾液が私のくちびるについて、気持ち悪さは一層増した。気づけば、ぽろぽろ、と涙が零れている。筒井くんは一瞬私からくちびるを離すと、「その顔そそるわ」などと嬉しそうに笑っていた。何なんこの人、頭おかしいんちゃう。
そんなことを考えていた矢先、再びキスをされた。今度は筒井くんの舌が私の上唇と下唇の間をなぞったかと思えば、ちょうどそこを割って、口の中に入ってきた。また鳥肌が立った。必死で舌をひっこめても無駄な抵抗とばかりに筒井くんに絡め取られる。こんなに屈辱的なことをされているというのに、繰り返されるキスのせいでだんだん力が入らなくなってきた。あかん、これはまずい。
そして、私は思いついた。
「……痛っ……! 何すんねん!」
筒井くんのくちびるを血が出るほど思いっきり噛んでやると、案の定筒井くんは一瞬ひるんだ。その一瞬の隙をついて筒井くんのみぞおちに蹴りを入れて、壁にかけてあるコートは諦めてそのままに、バッグだけを手にとってカラオケの個室から逃げ出した。会計なんてどうでもいい。筒井に全部払わせてやればいいんだ。
*
全速力で走って、私はカラオケの外に抜け出した。外はいつの間にか雨が降っている。冬の雨は冷たい。コートは置いてきてしまったし、折りたたみの傘も持っていない私は、ずぶぬれになる以外の選択肢はなかった。道行く人が、なんだか変な目で私のことを見ている。
――そらそうやんな、こない薄着で、ずぶぬれなんやもんな。完全うち不審者やん。
とりあえず傘買わな……、とコンビニを探していたときだった。
「――麻衣!」
ふと、名前を呼ばれた気がした。都合の良い空耳だ。まさか謙也がこんなところにいるはずがないのに。
「麻衣、そのカッコどないしてん……」
「けん、や……」
私の頭や肩を打っていた雨粒は、謙也が差し出してくれた傘によって遮られる。その代わりに、謙也のコートに、雨粒が容赦なく染みていく。本物の謙也だ。
謙也、謙也、謙也。
途端に不安だった気持ちと涙腺が一気に緩んで堰を切ったように涙が出た。本当はその胸に身体を預けてしまいたいたかった。その腕にぎゅっと抱きしめてもらいたいたかった。どうしよう、気づいてしまった。いや、本当は知っていた。謙也に告白された日から、私の中には、謙也しかいない。
謙也が、好き。