第3話 少しだけ震えた彼の肩

『支倉さん、俺やけど。夜遅くにごめんな。今電話、大丈夫?』
「え、筒井くん?!どないしたん、こんな時間に」
『別に急用っちゅーわけやないからLINEでもよかってんけどな。支倉さんの声聞きたなって』

 自然にそんなことが言える筒井くんは本当にすごいと思う。普通なら歯の浮きそうな台詞だけれど、筒井くんが言うと、そんな台詞も甘い台詞に変わってしまう。どきん、と心臓が高鳴る。

『で、本題やねんけど。支倉さん、今週の土曜、空いとる?』
「あ、空いとるよ。けど、何で?」
『いっしょに映画でも行かへんかな思て。支倉さんが前に見たい言うてた映画の前売り、知り合いからもらってん。映画だけやアレやし、そのあとはカラオケでも行こや』
「え、ええの? うちなんかより他の人と行ったほうがいいんちゃうん?」
『ははは。何言うてんねん。支倉さんと行きたいから誘ってんねんで。で、どうする?』
「い、行ってもいいかな」
『大歓迎。詳しい待ち合わせ場所と時間はまたメールするわ。ほなおやすみ、支倉さん』
「あ、うん、おやすみ」

 プツリ、と切れた電話をしばらく放心状態のまま見つめていた。どうしよう、ついに、筒井くんからデートに誘われてしまった。

「行ったらあかん」
「は? いきなり何言い出すん、謙也」

 学校からの帰り道、昨晩の筒井くんからデートに誘われた一部始終を謙也に報告した。謙也は性別という垣根を飛び越えた私の親友で、いつも私の恋を応援してくれている。だから、今度の恋も謙也は背中を押してくれるはずだった。否、押してくれていたのだ。つい先日、私が謙也に筒井くんが好きになったと報告した日までは。
 なのに、今の謙也と言えば、妙に真剣な顔をして「何でもええから、とにかく行ったらあかん」と必死な声で私に訴えかける。何でなん、何でそない必死になってまで阻止するん?いきなり意味のわからない行動に出た謙也に、疑問符ばかりが浮かぶ。

「……何で行ったらあかんの? 謙也はうちを応援してくれてるんとちゃうの?」
「すまん、今回ばかりはやっぱり応援でけへん」
「何で?」
「いや、理由は――」

 言われへん、と謙也は目を泳がせる。その態度が妙にイラっときた。なんでそんないちばん大事なこと隠すん?謙也は気まぐれに「行ったらあかん」なんて言うような奴ではない。それ相応に理由があるはずなのに、どうして親友のうちに言われへんの?うちら、親友ちゃうん?
 それとも、もしかして、謙也は筒井くんにまつわる悪い噂を信じているのだろうか。
 筒井くんを好きになってからというもの、筒井くんのことはいろいろ調べた。誕生日や血液型、出身中学はもちろんのこと、それまでの彼の恋愛についても。筒井くんに関する恋の噂はあまり良いものではない。けれど、筒井くんは、LINEで言っていた。「噂にはこっちが迷惑しとるんや。支倉さんはそない根拠ない噂、信じひんやろ?」と。筒井くん自身がそう言うのだから、私は筒井くんを信じることにした。好きな人の言うことを信じられなくて、その人が好きだと言えるはずがない。

「もしかして、謙也は、筒井くんに関する噂、本気にしてるん」
「噂て。何や、麻衣、お前知っとんのか。筒井の本性」
「本性て……変な言い方せんといて! 噂は噂。あんなん嘘や。筒井くんはええ人やで」
「な、お前それ完全だまされてるて! 噂は噂やない。事実や」
「だまされてる、て、ひどい! 何で謙也にそれがわかるん? 根拠はあるん? うちは、筒井くん本人から『噂にはこっちが迷惑しとる』って聞いた。 本人が否定してるんやで?」

 住宅街でこんな口論がはじまるとは、私も謙也もきっと予測もしていなかっただろう。謙也は、「こっちにだって根拠くらいあるわ!」と言い返したが、「その根拠って何なん。あるんやったらはっきり言うて!」と強く出ると、何か言いたげな顔をしながらも悔しそうに口を噤んだ。

 根拠はあった。白石が聞いたあの下品な台詞。だが。
 ――無理や。言われへん。
 それを麻衣の耳に入れるのはさすがに酷な気がした。麻衣は純粋に筒井に恋をしている。筒井と麻衣がくっつくことは望まない。だが、できれば筒井の本当の目的を知らないまま、麻衣が、自分から、筒井から離れていってほしかった。できれば、麻衣がいちばん傷つかない方法で、彼女を筒井から離したかった。
 しかし、本当にこのまま麻衣が筒井とデートすることになったら麻衣の身が危ない。よりによってデート先は、映画館にカラオケと来たものだ。映画館は暗い。カラオケに至っては密室だ。
 ああもう、くそ、何でコイツはこんなに危機感がないんや。何であんなくだらん男のこと信じてるんや。行き場のない怒りに、くちびるを噛む。

「ほら。根拠、結局なかったんやろ? うちは、謙也に何言われようと筒井くんとデート行くから」
「――せやから、それはあかん!」
「だから、それは、何でなん!」
「だから、お前はあかんのや!!」

 大声に吃驚したのか、バサバサバサ、と、近くの電線に止まっていたカラスが飛んで行った。
 それほどまでに、俺達の口論はヒートアップしていた。だが、俺は、半分理性を失いかけていた。いろいろな感情が混ざる。筒井のことを好きな麻衣が、筒井のことを信じるのは当然のことなのかもしれない。だが。
 ――何で俺より筒井を信じんねん。何で、俺より、筒井やねん。
 苛々する。今の俺はもしかしたら鬼のような形相をしているのかもしれない。さっきまではあんなに強気だった麻衣が、少し怯えたような表情で俺を見上げていた。

 謙也が私に対してそんな大声を上げたのは、はじめてだった。あまりの勢いと威圧感に、ぶるっと身体が震えた。本能的に恐怖を感じて涙腺が緩む。しかし、ここで泣くのはプライドが許さなかった。必死に涙をこらえた。こんな恐い謙也、見たことない。
 謙也はいつもやさしかった。恋の相談にも乗ってくれる。失恋したときにもやさしくなぐさめてくれる。数学や英語のわからない問題も私が理解するまでなんだかんだで根気強く教えてくれる。たまにテニス部に差し入れを持って行ったら、お返しや、とかなんだとかと言って、次の日、大好きなプリンを購買でおごってくれる。もちろん喧嘩をすることだってあったけれど、それは本当にささいなことが原因だった。――なのに、こんなん、はじめてや。

「何処みとんのじゃ」

 唸るような低い声は、いつもの謙也からは想像がつかない。その声に、は、と謙也の目を見つめ直す。すると、謙也の表情は、さっきまでの恐いものではなくなったかわりに、見ているこっちまで胸が痛くなるほど切ないものになっていた。謙也イコール笑顔、というイメージだった私にとって、それは新鮮で、かつ、こんな状況で不謹慎だけれど、少し胸が高鳴った。
 腕をその手で掴まれて、身体がぐいっと引き寄せられる。掴まれてみてはじめて、謙也の手の大きさを知った。そして、握力の強さを知った。掴まれた腕がキリキリと痛い。

「前を見ろ、目の前に居るやろっ――俺が、わからんのか」

 その悲痛ともとれるような叫びに、なぜか、きゅう、と胸が締め付けられる。きつく抱き寄せられたせいか、今の私には、謙也の呼吸も、鼓動も、全身に伝わってくる。この状況は一体何なのだろう。謙也と私は無二の親友で、でも、私は謙也に苛々していて、謙也も私に苛々していて、なのに、謙也は私を抱きしめていて、そして私はそれを嫌ではないと思っている。頭の中がぐちゃぐちゃだ。

「……何で、俺より、筒井なん」

「え……」

「―――好きや」

 耳に届いたその小さな呟きは、幻聴ではない。しかし、信じられない。思わず目を丸くした私に、もう一度、今度はもっとはっきりした口調で、謙也は言う。

「俺は、お前が好きやねん。麻衣」

 彼の肩は、少しだけ震えていた。私の心臓も、震えていた。