第10話 熱【後】

「……泣いてるん?」

 右腕を部長の手によって掴まれて、そのままどかされる。その声はいつもどおりやさしくて、安心したらさらに涙腺が緩んだ。真っ赤な目が見られるのが恥ずかしくて視線をそらす。

「ごめんなさい……明日から全国大会なのに……体調管理もできなくて……」
「せやな。けど、俺が怒ってるのはもっと別な理由や」

 部長は私の枕を、普通の枕から氷枕に取り換えると、話を続けた。

「俺、支倉がかなり無理してるの気づいててん。特に合宿中や合宿終わった後の仕事量は明らかに1人じゃできひん量やったと思う。せやからな、もっと頼ってほしかってん。例えばドリンクとかタオルとかは部員1人1人が自分で管理しよ思たらできるもんやろ。支倉が入部してくる前はみんなそうしとったわけやし。それに、データ管理やって、活動日誌やって、別に支倉が絶対やらなあかん仕事とはちゃう。部長の俺がやったってええねん。なのに、支倉は1人で全部完璧にこなそうとする。――なあ、もっと頼ってくれてええんやで?というより、頼ってほしい」

 あまりに真剣な顔でそんなことを言うから、私の胸は震えた。そしてなぜこんなときに確信するのかわからないけれど、このときはじめて強く思った。

 もう、好きになっちゃいけないとか言ってる場合じゃない。私は、この人が好きなんだ。

 その時、水を差すように、ピピピと体温計が鳴った。

「……38度9分」

 右頬が部長の左手でつつまれたかと思うと、そのまま涙の跡を親指で拭われた。

「たぶん明日からしばらくは全国大会来るの無理やろ。今年は神戸開催でよかったな?治ったらすぐ応援しに来るんやで。これはさっきまでのデータ管理や日誌と違って支倉にしかできないことやねんから」

 そして、久しぶりにやさしく笑う部長を見た。どんな部長も大好きだけれど、やっぱりこの表情がいちばん好きだ。

「……はい。絶対行きます。だから、決勝まで残ってくださいね」
「当ったり前や。で、オサムちゃん、何で入ってこおへんの?」

 突然部長がオサムちゃんに話を振ると、保健室のドアの後ろからオサムちゃんが現れた。

「いや、タイミングはずっと窺ってたんやで?でもお前らがあまりに青春しとるから邪魔したらアカンかなって」
「え?!オサムちゃんいつから?!」
「支倉、すまんなあ。覗くつもりはなかってんけど、わりとはじめからおったわ」

 オサムちゃんに一部始終を見られていたかと思うと恥ずかしい。ただでさえ熱があるというのに、さらに熱が出そうだ。

「親御さんには電話で連絡しておいたで。今日は帰り、俺の車で送ったるわ」
「あ、ありがとうございます……」
「おお。でも送ってく前に、ちょお、白石貸してな」

 貸しても何も、白石部長は別に私の物でもなんでもない。オサムちゃんは何か勘違いをしてるんじゃないか。保健室に残された私はふとんにもぐりながらどきどきしていた。この動悸は、風邪によるものなのか、それとも別の理由からなのか。
 ――どっちにしても、一旦落ち着こう。
 瞳を閉じると、一気に夢の世界に堕ちた。

「あ゛~もう鼻水止まんないよ~~……」

 もうあれから3日経ったというのに案外風邪はしつこく、微熱と鼻水鼻づまりが改善されない麻衣はベッドの上で嘆いていた。
 一方で四天宝寺テニス部ではこんなやりとりが行われていた。

「無事に準決勝進出か。次は明後日、立海とやったな。白石、支倉に知らせたほうがいいんちゃう?」
「せやなあ。財前連絡したってや」
「部長がすればええやないですか」
「俺、支倉の連絡先知らんし」
「……ほなら、俺のケータイ貸しますか。あ、そういえばこの前駅の近くにおいしいぜんざいの店ができたんですわ」
「はいはい。おごればええっちゅー話やな」

 このやりとりで、白石は財前には自分の気持ちが知られていることに気づいた。
 ――さすが四天宝寺の天才、ぬかりないわ。
 白石は財前から携帯電話を受け取ると、少し静かなところに移動して通話を始める。

「さすが部長、謙也さんとは違て話が早くて助かりますわ」
「『謙也さんとは違て』ってあてつけかいな!俺がお前にどんだけぜんざいおごってると思てんねん!……けど別にお前が電話すればええだけの話やったんちゃう?なんで白石もお前にぜんざいおごってまで電話かけなあかんのやろ?」

 財前の携帯電話を手に電話をかける白石を尻目に、謙也が問う。

「……謙也さんまだ気づいてへんかったんですか。ほんま鈍すぎ」
「?」
「そんなん、部長がかけたほうが部長も麻衣も喜ぶに決まってるからっすわ」

 その言葉に、謙也は3秒間思考を巡らせると、真っ赤な顔で叫んだ。

「えええええええええええ!!そういうことやったんか!?」
「謙也さん声でかい。せやから合宿んときに、見てたらわかるー言うたでしょ」

 携帯が震えた。表示される名前は、財前光。
 光から電話ということは、きっと試合結果だ。私は鼻声なのも忘れて電話をとる。

「もしもし光?」
『あ、もしもし支倉か?』
「え?」
『財前やなくて、俺や』
「ぶ、部長………?!何で?!」
『伝えたいことがあってん。無事、準決勝進出やで』

 機械越しに聞いた部長の声は明るくて、そしてその知らせがうれしくて目がしらが熱くなる。

「わあ、おめでとうございます!試合、ちゃんと生で観たかったなあ……」
『そっちの風邪はどないなった?』
「鼻水鼻づまりがキツイですけど、熱はもう微熱くらいです。たぶん明日は平熱にまで下がると思います」
『なら、準決勝来れそうやんな?明後日、立海と当たる』
「り、立海って、去年の優勝校ですよね?」
『せやねん。ええ試合になりそうな予感するやろ?』

 するとその背後で謙也先輩の「ええええええ!」という叫び声が聞こえた。

「謙也先輩の身に何が?!」
『さあな。財前にいじられとるだけちゃう?ってアカン、これ財前の携帯やったわ!通話料かかるからそろそろ切るな』
「あ、部長」
『何?』

 勇気を出して、一言。

「……明後日試合たぶん行けるので、連絡先教えてださい」
『うん、ええよ。俺も知りたい思っててん。ほな、明後日な。それまでに鼻声治しいや』

 ――鼻声だってこと、バレてるよ……!
 少し恥ずかしくなったけれど、でも今の電話で一気に体調が回復した気がした。
 あさっての準決勝は絶対に見に行こう。
 部屋の壁にかかっている、洗濯しおわった四天宝寺のジャージに誓って。