第1話 同じ名前

「あれ、麻衣、その怪我どうしたの?」
「ああ、これさー、昨日の夜マサハルに引っ掻かれたんだ」
「はぁ?! 雅治?!」
「え、そんなに驚くことある?」
「だって、雅治って……え、仁王くんでしょ?!あんたいつから仁王くんとそんな仲に……!」

 驚くのは私のほうだった。

「はあああああ?!何言ってんの!マサハルって、うちの猫の名前だよ……!」

 うちには猫が1匹いる。名前はマサハル。もうすっかりおじいちゃんな白猫で、いつもは寝ては食べ、食べては寝ての繰り返し。なのに、たまに怒らせるとこんなふうに引っ掻いてきたりもする。
 でも、そんなマサハルが私はだいすきで、よく友達との話題にもマサハルの話題が上った。けれどそのとき、たいてい私はマサハルのことを「うちの猫が…」なんて言い方をして、「マサハル」という名前を具体的に出していなかったように思う。だから、友達が私の「マサハル」発言にこんなにびっくりしたのだ。そうか、そういえば仁王くんの下の名前も「マサハル」だったっけ。
 そんな仁王くんと、隣の席になってしまった卒業間近の春。
 なかなか直らない、手の甲にあるマサハルの引っ掻き傷を、仁王くん本人にも見られてしまった。

「その傷、痛そうじゃの」
「え?」
「手の甲。猫にでも引っ掻かれたんか」
「さすが仁王くん、察しがいいね。そうなの。うちの猫にやられちゃったんだ」
「ふーん。そいつが『マサハル』っちゅう猫か」
「え゛?!」
「お前さんたち、声が少々でかい。 この前の会話、全部聞こえてたナリ」

 ええええええええ、嘘でしょ、すっごい恥ずかしいんですけど…!
 心の中で叫びながらも、ここは10分休みの教室。声には出さない。

「仁王くん、なんかごめんね、マサハルマサハル言ってて……」
「謝ることはなか。むしろ、あのまま騙し続けてても面白かったと思うんじゃがのう」
「な、なな…!」

 何てことを言うんだこの人は。焦る私を見て、仁王くんは楽しそうに笑っている。こういう人だよね、仁王くんって。人を騙したりいじったりして遊ぶタイプ。そんな仁王くんは、支倉、と改めて私の名を呼ぶ。いったい何なのだろう。次の瞬間、意外な言葉が彼の口をついて出た。

「マサハルの写真はないんか?」

「え?」
「どんな猫か気になっての。俺と同じ名前の猫」
「マサハルの写真…あ、生徒手帳に入ってるよ」
「……。すごい溺愛ぶりじゃな。普通いくら自分ちの猫好きでも、生徒手帳に写真入れるか?」
「だってかわいいんだもん。おじいちゃんだけど。ほら、これこれ」

 まさか仁王くんがうちのマサハルに興味を持つとは思わなかった。胸ポケットから生徒手帳を取り出して、そこに挟んであったマサハルの写真を仁王くんに見せる。個人的に、これがマサハルのベストショット。かわいいのにどこかつんとした表情がマサハルらしい。

「へえ。なかなかふてぶてしい猫じゃな」
「ちょっ…!――まあ、確かにそうだけど、でもいいの。そこもマサハルのかわいいところだから」
「……親バカ」
「何ですって?!」
「プリッ」
「ごまかしたでしょ今!」
「さあな」

 仁王くんは上機嫌で写真の中のマサハルを見つめる。私は写真の中のマサハルと隣にいる仁王くんを交互に見比べる。こうしてみるとマサハルと仁王くんってちょっと似ているかもしれない。仁王くんの銀髪が、マサハルの白いストレートの毛並みと重なる。それに、ふたりとも、何を考えているか分からないところがあるし。まぁ、さすがに仁王くんは突然引っ掻いてきたりはしないだろうけど。
 仁王くんは写真を見ながら、呟く。

「―― 一度、会うてみたいもんじゃな。マサハルに」
「えぇ?!学校に連れてくるわけには……」
「そうじゃなか。俺がマサハルに会いに行けばいいだけの話」
「は?」
「さて、今週の土曜は空いとるかの?支倉」

 にっこりと笑う仁王くんが、逆に恐い。ええ、何これ、もしかして土曜日仁王くんがうちに来るってことですか?

「いやーあはは、受験も終わったし確かに暇人ではあるけど、……仁王くんもしかしてうちに来る気?」
「そうだったらまずいんか。ああ、お前さんもしかして意外にも彼氏持ち――」
「すみませんねひとりもので」
「なら、誤解を招く可能性もないし問題ないじゃろ」
「……仁王くんこそどうなの?マサハルに会いたいって言ってくれるのは飼い主の私としては嬉しいけど――私嫌だよ、変な誤解招いて仁王くんファンの女の子から脅迫されるの」
「それはお前さんの心配には及ばん。ってなわけで、土曜日はよろしく」

 ちょうど仁王くんがそう言い終わったところで、教室の前のドアが激しい音を立てて開いた。次の授業の先生が来てしまったようだ。仁王くんはすっかり黒板のほうに視線を向けている。
 ――……これは、拒否権なしってことですかね。
 彼の横顔を見つめながら、あまりの急展開に思わずため息。しかし、心のどこかでは、不思議とそんな状況を楽しんでいた私がいた。