真夜中に初恋を溶かす

 テレビからふと流れてきたCMのその声にどきりとした。スポーツ飲料のCMで笑顔を見せるその人は、今や日本中で知らない人はいないのではないかという有名なプロテニスプレイヤー・白石蔵ノ介。こんなしがない会社員の私には縁のない、遠い世界の人。そう思い込みたいのに、昔の記憶が邪魔をする。――中学の頃、彼と私は、恋人同士だった。

 当時私は親の都合で大阪に住んでいた。中2の秋から編入した四天宝寺中は、運動部と文化部の兼部が必須ということで、担任の渡邊先生に勧められてテニス部のマネージャーをしていた。その時の部長が、彼だった。
 彼と私は自然と惹かれあって、中学生らしいお付き合いをしていた。手を繋いで一緒に帰ったり、たまにデートをしたり、こっそり触れるだけのキスをしたり。
 でも、中3の秋頃から、私たちの関係には少しずつ変化があった。彼はU-17日本代表候補の合宿に招聘され、遠距離恋愛のような形になり――その後本当に日本代表に選ばれてしまった彼は、オーストラリアで世界大会に出場し――物理的な距離はもちろん、精神的な距離もどんどんと離れてしまったように思う。今思い返せば、そんなときだからこそ、彼を支えてあげれば良かったのだけれど。14,5歳の少女だった私には、寂しさや、彼と自分との比較、そんなことに囚われていて、そこまでのキャパシティはなかった。

「……蔵、私、もう蔵の背中が遠すぎるよ……」
『そないなこと言いなや。俺には麻衣が必要や』
「――蔵はこれから日本のテニスを背負って立つ人だよ。私はただの中学生。蔵のこと大好きだけど、今はもう住む世界が違う人みたいで……これからの蔵を支えてあげられる自信ないよ……」

 電話越しでそう伝えると、ふとマイクが蔵の息遣いを拾った。私も泣いているけれど、きっと彼も涙を堪えているのだ、と気がついた。

『――俺、日本代表なんてならへんかったら良かった。普通に大阪四天宝寺中の部長やったら良かったな』
「そんなこと言わないで。今の蔵のいるポジション、見てる世界は、日本中のテニスをしている中学生が目指してる場所だし、現に蔵だってそうだったでしょ?」
『せやけど――俺がテニスできてるんは麻衣が支えてくれとるからや。寂しい思いさせてることは謝る。帰国したら何でも叶えたるから――せやから、俺のそばにおって』
「……私も蔵のそばにいたかったけど、ごめん、もう無理だよ……蔵のそばにいることが辛くなっちゃった……」

 その言葉が決定打だった。

『――わかった。俺のせいで辛い思いさせてすまんかった。……俺達、別れよか』
「……うん」
『せやけど、これだけは覚えといてや。俺は今も麻衣が大好きやし、これから他の人と恋愛したり結婚することがあっても、麻衣は一生大切な人や』
「うん。私も蔵が大好きだし、一生大切な人だし、ずっと応援してるよ」

 そんな昔の記憶が一気に蘇ってきた。私の大切な思い出の人なのだ、彼は。そのまま彼はプロテニスプレイヤーとして本当に世界に羽ばたいていった。私は、親の都合で中学卒業と同時に東京の高校に進学し、そのまま大学を出て、就職した。
 恋人ができて幸せな恋愛をしている時期もあった。でも、結局続かなくて、今は社会に出て2年目、彼氏なし。20代も半ばに差し掛かりつつある。
 ――蔵は、彼を支えてくれる素敵な女性に出会えたかな。
 そんな女性がいてほしいと願う天使の自分と、そんな女性がいたらなんとなく嫉妬してしまう悪魔の自分がいる。自分から彼を手放してしまった身で、嫉妬するなんておかしな話だけれど。

 ブブブ、とローテーブルから異音がして慌てて我に返る。テーブルの上に置いていたスマホが震えたのだ。通知を確認すると、謙也からだった。今晩の飲み会のお店の場所が送られてきている。
 高校は氷帝に進学した。おせっかいな謙也は氷帝で私が友達を作れなかったら大変だと、事前に従兄の侑士に私のことを伝えてくれていたようで、高校から侑士と仲良くなった。そして謙也が東京に遊びに来るたびに、謙也と侑士に呼ばれて3人で遊んだり、成人してからは飲みにいったりしていた。

『今日の店はここやで!』

 送られてきたURLを開くと、やけに高級そうなお店が出てきた。えっ、いつもはもっと庶民的な店で飲んでるのに。

『何で今日こんな高級なトコなの?!』
『たまにはええやろ』
『ワリカンされても払える気がしないよ?!』
『大丈夫や!麻衣は1000円でええで』
『え。それもそれで気遣うんだけど』
『まぁええやん。ほな後でな!』

 それ以上言及できず、謙也とのLINEはそれまでとなってしまった。仕方なく私は準備を始める。高級そうな店だから、服もメイクもいつもよりはちゃんとしていかなくちゃ。

「あの……『忍足』で予約してると思うんですが」
「お連れ様はすでにお待ちですので、どうぞ」

 指定されたお店の個室に入ると、そこにはすでに侑士がいた。でも謙也がいない。

「麻衣。久しぶり」
「侑士、久しぶり。謙也は?」
「あー、アイツ電話かかってきよって席外しとるわ」
「ふーんそうなんだ」
「飲み物は?何にする?」
「んーどうしようかな〜」

 そう、メニューを開いてお酒を選んでいる時だった、謙也が私たちの個室に戻ってきたのは。しかも、誰かを連れて。

「侑士、麻衣、戻ったで!」
「謙也、早かったな」
「おん。麻衣、今日はスペシャルゲストや」

 なんとなく、嫌な予感がする。そもそもこのやけに高級な店を指定された時からいつもと何かが違うことは薄々感じていたけれど。謙也の後ろから私たちの個室に入ってきたその人は、眼鏡とマスクを身につけていたけれど――一瞬にして、わかった。

「――久しぶりやな、麻衣。中学の卒業式以来か?」
「く――し、白石?!何で?!」

 危ない。うっかり『蔵』と言ってしまうところだった。蔵はメガネとマスクを外して、やっと解放されたわ、とため息混じりに呟いた。

「昨日帰国したとこやねん。謙也には前から連絡しとって。ちょうど東京来れるタイミングや言うてたから、ほな東京で会おかってことになってな。侑士クンと麻衣とも東京でよう飲んでる言うとったから、ほなみんなで飲もかっちゅー話になったんや」
「白石、俺に対しての挨拶もあるやろ?」
「ハハ、すまん侑士クン。侑士クンとも久しぶりやな。謙也とはまあまあ会うとるけど」
「どうや、麻衣、ええサプライズになったやろ?」
「……心臓飛び出るかと思ったよ」

 してやったり顔の謙也は、蔵と私が昔付き合っていたことを忘れてしまったのだろうか。ただ、蔵と私が付き合っていたのはもう10年近く前の話だ。逆に良い思い出として消化して、あんなこともあったよね、と言えるようになっているほうが普通なのだ。現に蔵だって、私に対して全く何の動揺もしていない。

「白石は1杯目何にする?」
「あー、ハイボールにしとくわ」
「おん。ほな生2つにハイボールな。麻衣は?」
「最初は烏龍茶で…………」

 到底酔う気になれず、烏龍茶を注文してしまった。私の真向かいに座る蔵は、昼間のCMで見た蔵そのものだった。中学時代より大人びた顔つき、少し高くなった身長と、少し低くなった声。元々美少年ではあったけれど、目の前の彼は、驚くほど眉目秀麗な男性に成長していた。
 謙也は蔵と定期的に会っていたようだけれど、侑士と私は久しぶりだったので、飲み会の場は、蔵の高校入学から今に至るまでの思い出話で盛り上がった。ただ、その思い出話はテニスの話が中心で、プライベートについては特に語られなかった。こんなにかっこよく成長してしまっていたら、きっと恋人もいるのだろうな、と思うけれど。少しずつ場が盛り上がってきたので私もお酒を飲みたい気持ちが戻ってきて、烏龍茶の後はカクテルを飲んだ。うん、やっぱりちょっと酔うくらいのほうが気持ち良い。
 蔵がいるのは異例だけれど、基本的に謙也と侑士との飲み会はいつも楽しい。楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまって、そろそろお店を出なければいけない時間だ。お会計は、本当に1000円で済んでしまった。というのも、蔵が大半を払ってくれたからだ。本人曰く「俺のせいでこんなセキュリティ固いとこで飲まなあかんのやから、俺が払うのが当然やろ」とのこと。まあ確かにそうではあるのだけど、同い年なのに、この差は何なのだろう。少しだけもやもやした気持ちになる。
 時計は21時半すぎ。二次会するのかな、それともこのまま解散なのかな。そんな疑問に答えるように、侑士は言った。

「ほな白石、俺ら邪魔者は退散するわ。今日はごちそうさん」
「邪魔なんて一言も言うてへんけどな」
「え?侑士と謙也が帰るなら、私も帰るよ」
「ドアホ。何のために俺らがキューピッドしたと思ってんねん!ほな俺は侑士んち泊まるから。またな、麻衣」

 キューピッドって。一体謙也は何のつもりなんだろう。確かにはるか昔私たちはつきあっていたけれど、今更再会したところで、蔵はプロテニスプレイヤーで普段は海外に住んでいるし、私は私で東京で会社員をしているわけであって。でも結局、二人はそのまま個室から出て行って、本当に帰ってしまった。二人きりになると、蔵は言う。

「迷惑やったか?」
「あ、い、いや、大丈夫だよ」
「ほんまは、俺が麻衣と話したい思て、謙也と侑士クンに協力してもろたんや」
「蔵が、私と?」
「――ああ。せやで」

 今、一瞬、不自然な間があった。なぜだろう。そう考えてすぐに気づいた。うっかり『蔵』と呼んでしまったのだ。

「……あ、」
「ええで、『蔵』で。何や昔思い出すなぁ」
「――そうだね」
「ずっとこの店居座るんも申し訳ないし、場所変えよか。悪いけど、タクシー移動、付き合うてや」

 再び眼鏡とマスクを身に着けた蔵と、タクシーに乗り込む。蔵は都内の一流ホテルの名を運転手さんに告げた。

「さすがにこの時間のホテルのバーやったら、落ち着いて飲めるやろ」
「え、蔵、いつもこんな高級なところ泊まってるの?」
「別に好きで高級ホテル使わせてもろてんのとちゃうで。俺かて侑士クンち泊まりたいわ。せやけど、週刊誌の記者に追いかけられる可能性もゼロちゃうし、迷惑かけられへんやろ」
「……大変なんだね。って、それなら今も撮られたらまずいのでは?」
「まあな。今回の帰国は親にも言うてへんし、変装もしとるし、大丈夫やろ。もし何かあったとしても、麻衣に迷惑かけるようなことには絶対ならんようにするわ」

 そして、私たちが乗っていたタクシーが車寄せに着くと、蔵は「先に行っといて」と耳元で店の名前と階数を告げる。壁に耳あり障子に目あり。この日本を代表するテニスプレイヤー・白石蔵ノ介が、女性と一緒にホテルに入っていく瞬間の写真を撮られてしまったら――ああ、きっと面倒くさいことになるのだろうな。彼はただのテニスプレイヤーとしてだけではなく、アイドルのような人気もあるし、スポンサーもたくさんついているし。24歳にして、背負っているものが大きすぎるのでは。少し心配になりながらも、先に指定されたバーへ行く。こんな20代の小娘が来て良いところなんだろうか。シックなワンピースを着てきてよかった。普段の服装より、少しは大人っぽく見えているはず。
 そのまま15分ほど待っただろうか。蔵もバーに現れた。そもそもバー自体薄暗いし、客層は落ち着いたカップル・ご夫婦や、ビジネスでつながっている経営者同士などが中心だ。もしこのバーに著名人や芸能人がいたところで、誰も騒いだりしないだろう。そんなわけで、蔵はすぐにまた素顔に戻った。当たり前だけれど、その横顔の鼻や顎のラインは、その昔、中学生の私が見つめていた蔵と全く同じだ。

「なあ。麻衣と別れてからの俺の話、聞いてくれるか」
「……それ、さっき謙也と侑士がいるときにも聞いたよ?」
「あれは表向きの話や。今から話すんは、俺の内面の話」
「……うん」
「麻衣と別れてから、俺、ほんまに狂ったようにテニスばっかしとった。麻衣を手離したんやから、その分テニスを頑張らなあかんって、自分に暗示かけとった。そしたら、気づいたらプロになってて。まさかテニスが仕事になるとは思わへんかったわ」
「――そうだったんだ」
「ああ。麻衣も氷帝に行ってもうて大阪におらんし、もう完全に諦めるしかないな思て、何人か他の女の子と付き合ったこともあった。せやけど、ダメやった。麻衣と比べてしまう自分がおって。全然麻衣のこと忘れられへんかった。そこから、しばらく恋愛はしてへん」
「……まあ、蔵は彼女がいたら、こんな元カノと二人で飲みに行くような人間じゃないもんね」
「さすが、俺のことようわかっとるなあ。その言葉そっくりそのまま返すわ」

 カウンターに載っているさっき注文したカクテルはきっとおいしいのだろう、でも、進まない。蔵と恋愛の話をするのは、やはり緊張する。なんとなくこの後の展開がわかったような気がした。期待しているのだろうか、私は。

「俺な、テニスプレイヤーとして、もう一歩先へ行きたいねん」

 蔵は言う。その声はとても芯のあるもので、彼の強い意志が伝わってきた。

「テニスプレイヤーとして、一皮むけるために、何が足りひんのやろ。何が必要なんやろ。ってここ1年くらいずっと考えとった。ほんで、俺が今までテニスしてて一番輝いてた時っていつやろ、と思ったら、やっぱり四天宝寺で部長しとった時や、初めてU-17に参加した時の、中3の自分やった。あの時の俺にあって、今の俺にないもの――それは、麻衣や」

 そう言って私を見つめる蔵の視線は、とても熱が籠っている。

「勘違いせんでほしいねんけど、テニスプレイヤーとして強くなるための道具として、麻衣が必要や言うてるわけちゃうで。あの時麻衣が俺に別れを切り出した理由も、大人になった今やったらわかる。いきなり彼氏が日本代表に選ばれたり、突然海外との遠距離恋愛になったりしたら、普通の14,5歳の女の子やったら、そら寂しいし、ビビるで。ほんまにごめんな。せやけど、あの当時の俺は、麻衣がおったからテニスを頑張れた。やっぱり大切な人がそばで支えてくれるっちゅうのは何にも代えがたいパワーなんや、って今更気づいたわ。せやから、もう一回チャンスが欲しいねん」
「そんなこと言われても、蔵は普段海外生活でしょ?私ただの都内の会社員だよ……?あの時よりもっと釣り合わないよ」
「釣り合うとか釣り合わへんとか、誰が決めるん?よう考えてみ。例えば石油王と生まれたばっかりの何もできひん赤ちゃんがおったとして、どっちが偉いとかどっちの命が優れてるとかあるん?ないやろ。俺はたまたま仕事がテニスプレイヤーで、麻衣はたまたま会社員しとるだけや」
「――でも」
「断るんやったら簡単や。俺のことはもう恋愛対象に思えへんとか、他に好きな人がおるとか、そういう理由やったら俺も諦める。中3の時はお互い好きやのに別れてもうたから、こない拗らせてん。なあ、麻衣、率直に今の気持ち聞かせてや」

 ああ、もう、蔵はずるい。ずっと蓋をして見ないふりをしてきた感情が溢れてしまう。蓋が外れて、胸が痛い。中3のあの日、蔵と別れてから、私もずっと蔵のことをどこか忘れられずに過ごしてきた。なんだかんだ蔵がプロになってからの試合は全部チェックしているし、蔵が取り上げられた記事は全部スクラップして保存してある。
 断るんやったら簡単や、なんてよく言えたものだ。私も同じだ。他の男の人とつきあっても、やっぱり蔵を完全に忘れることはできなくて、無意識のうちに蔵とその人を比べてしまっていた。結局は、私も、彼のことが未だにずっと好きなのだ。

「――そんなふうに言われたら、断れないよ。蔵のばか」
「関西人にばか言うたらあかんで」
「でも、ここ東京だよ」
「はは。せやな」
「――こんなこと話すために、日本に戻ってきたの?」
「あほ。めちゃくちゃ重要なことやろ」

 蔵は、わざと真剣な顔をして怒ったふりをする。それが何だか可愛くて笑ってしまった。

「いつまで日本にいるの?」
「明後日の朝の飛行機で戻る」
「えっ。すぐだね……」
「遠距離で寂しい思いさせてまうけど、今は色々文明の利器もあるし、駆使しよな」
「うん」

 本当にスマホやインターネットが発達している時代でよかった。一昔前のエアメールでやり取りする時代だったら、たぶん耐えられない。
 明後日の朝にはもう日本を発ってしまうのだとしたら、こうして触れられる距離にいられる時間は、とても貴重なのかもしれない。そして、彼も、おそらく同じことを考えている。

「麻衣。明日と明後日用事あるん?」
「明日は日曜だから特に何もないよ。明後日は月曜だから仕事だけど――」
「わかった。ほな、明後日は急遽『体調不良』になってや」
「え?!」

 それってズル休みしろってことですよね……?!

「すまん。せやけど、次日本に戻ってこれるのいつになるかわからへんし」
「……わかった。空港までお見送り行くね」
「あと、もう一つわがまま言うで」
「何?」
「――今晩、俺の部屋泊まってってや」
「……シングルで予約した部屋に2人で宿泊するのはダメなんだよ」
「知ってる。せやから最初から2名で予約してるで」
「!!」

 うわ、この人、絶対私が告白OKすると思ってたんだ。さっき控えめなこと言ってたくせに。そんな私の内心を読んだのか、蔵は苦笑する。

「別に自信過剰やったわけちゃうで。そうなったらええな思て、願望込めて予約したんや。可愛えとこあるやろ?」
「自分で『可愛えとこあるやろ?』とか言っちゃう人は可愛くないです……」
「はは。手厳しいな」

 そんな冗談を言い合いながら、ふと気づく。

「……あ、そうだ」
「どないした?」
「もし私たちが一緒にいるところ見られたらどうするの?それこそ同じ部屋にいたら言い逃れできないよ……?」
「あーそれなら『もう』大丈夫や」
「『もう』?」
「何や言われたら『婚約者です。来年結婚します』言うとくわ」

 え?!ちょっと、白石蔵ノ介さん、話が飛びすぎでは?!一気に体温が上昇していくのを感じる。蔵はそんな私を見て笑っている。

「もう24やし。俺はそれくらいの気持ちやねんけど」
「……英語勉強します」
「ん。その意気や。ほな、そろそろ部屋行こか」

 サラリと会計を済ませた蔵の背中を追うと、蔵はスッと左手を差し出した。手を繋ぐと、まるで中学生の頃に戻ったようだ。エレベーターに乗り込むと、蔵はルームキーをかざして宿泊階のボタンを押す。ふと腕時計で時間を確認すると、もう少しで日付が切り替わりそうだ。エレベーターから降りて、蔵の宿泊する部屋のドアの前にたどり着く。蔵がドアを開いたその先は、とても広い空間と、窓の外に東京の夜景が広がっていた。

「わあ、すごい部屋だ――」

 ね。と言おうとしたその唇は、あっという間に蔵のそれによって塞がれてしまった。彼と、触れるだけのキスは、したことがある。でも、今のキスは、触れるだけなんてものではない。何度も角度を変えて唇を重ねられるから、力が抜けて、持っていた小さめのハンドバッグが床にトスンと音を立てて落ちた。

「――麻衣。好きやで」

 そのシンプルな言葉が、きっとずっと聞きたかった言葉だったのだ。おそらく、ちょうど日付が切り替わった頃だろう。終電はもう間に合わない。
 少しだけ残っている理性が、ついさっき復縁したばかりなのに、もうこんなことになってしまってよいのだろうか、なんて訴えているのだけれど。明後日にはもう海外に戻ってしまう蔵を、一分でも一秒でも長く感じていたくて、そのまま私は彼に身を預けることにした。

Fin.
2021.12.14